ルサンチマンのゆくえ
れいわ新選組の大西氏除籍処分に対して、これまで熱狂的にれいわと代表山本太郎を支持してきた人たちの一部が憤慨し、一転、陰謀論にまみれたれいわと山本批判に走っている。理屈では「誰もが何度でもやり直せる社会」を綱領(サイト上のタイトルは『決意』)に掲げながら、動画での発言だけで除籍するのは許せない、ということらしい。
この理屈が的外れであることは前ポストで触れたが、理屈よりもむしろ憤慨のほうが問題としては大きい。というのは、憤慨は、信じて支援してきたれいわと山本太郎に「裏切られた」という気持ちから生まれた感情(情動)であり、理性的にコントロールするのが困難だからだ。この感情はルサンチマンと呼べるだろう。
ニーチェをはじめ、一般にルサンチマンは否定的に捉えられている。確かに日本語では「うらみ」ということだから、そう理解されるのは自然だろう。しかし、およそこの意味でのルサンチマンから自由な人間はいない。なぜなら人は誰かを模倣して成長するのであり、模倣の対象として偶像視(あるいは嫉妬)していた人間やグループから裏切られ、「うらみ」を抱くようになるのは人生で誰にでも起こることだからだ。そして「恨み」は感情(情動)であるがゆえに人を動かすエネルギーになり、それはマイナスに働くと同時に一定の条件があれば、プラスにも働くと考えるべきである。さらにマイナスとプラスの間に明確な境界線はなく(それは強弱の量であり質ではない)、人はその間を不断に揺れ動く存在だととらえるのがより正確な理解になるだろう。
そう考えると、熱狂的なれいわ支持者の反転は、ルサンチマンがプラスに働いていた状態からマイナスに働きはじめたと理解すべきことになる。れいわ支持の立場からは、困難であっても、ここでいったん立ち止まり、再びプラス方向に転じてほしいと願うが、現在見られる陰謀論が暗示しているように、陰謀論でまわりが見えなくなり、ひたすら「反れいわ、反山本太郎、反左翼、反反差別」に傾斜していく可能性がある。
これまで何度も指摘してきたが、れいわ新選組がエリートではなく民衆に依拠するポピュリスト運動としての性質を持つ限り、今回のように支持者が大きく振幅するのは避けられない。しかし、振幅があるからといって、ポピュリスト運動が間違っていることにはならないし、ファシスムやレイシズムとの闘いにおいて民衆が苦悩し、生活している現場から逃亡することはできない。
れいわ新選組がやるべきことは、平凡なことではあるが、今回の大西発言を教訓にあらためて左派ポピュリズム政党(右派は現在の自民党や維新などのファシズム政党をさす)としての原点を確かめると同時に、山本太郎商店から脱皮して組織や運営で足らないところを埋め、支持者とともに、自公政権を倒し、反緊縮政策を実現するための方向をはっきり見定めていくことだろう。