「新反動主義」と優生思想
近代以前の身分制社会のほうが、社会はより安定し、発展する、つまり少数のエリートが支配する社会のほうが望ましい、また巨大な国民国家より複数の小都市国家の並立がより機能的だと、カーティス・ヤーヴェンらの「新反動主義」者たちは主張する。背景には、リベラルデモクラシーに対する絶望、企業の力が国境を越え、これまでの国民国家が桎梏になっているという認識があるのだろう。その一人ピーター・ティールは「民主主義と自由が結びつくとはもはや信じない」と語る。
資本主義の発展は、人間を均一化に追い込むドライブによって、その凡庸化と、結果として社会の衰退をもたらし、その果てに社会は、少数の強く、賢明なエリート(超人)による支配とそれに従うだけの多数の奴隷で構成されるようになると予言したのはかのニーチェである。この予言は、ほとんど新反動主義者の主張と重なる。ニーチェの超人は、凡人と知性や精神の強さで区別されるだけでなく、人種としても異なると暗示されていたが、この点も、新反動主義者の白人優越主義と親和性が高く、重なっている。彼らの一部は白人優越主義を押し出すオルタナ右翼のスティーブン・バノンらと親密である。
だが不気味なのは、ニーチェの予言した社会が、すでに指摘されてきているが、ナチス国家と驚くほどの類縁性を持っていたことだ。ナチス自身がその世界観の裏付けとしてニーチェ哲学を持ち上げていたのでこのことは当然に見えるかも知れないが、彼らがニーチェを模倣したわけではない。ナチス政治に内在する論理がニーチェを引き寄せ、利用したと言うべきだろう。そこでナチス政治について考えてみる。
エリート(総統と親衛隊)と大衆の厳然たる区別、宣伝による大衆操作、優生思想とアーリア人優越主義、優秀なアーリア人男女による純粋な子孫の育成、ユダヤ人の撲滅、科学主義、それに「聖戦」としての戦争などがナチス政治を特徴づけるものであった。
中でも注意すべきは、ナチスにとって、国民から排除し、強制収容し、もはや人間とみなさないユダヤ人、共産主義者、精神障害者、ロマ人などと国民の境界線も恣意的だったと思われることだ。なぜなら理屈からいえば、エリートに従うべき国民すべては本質的に奴隷である以上、何の権利もなく、エリートがその生殺与奪の権利を持つとされるからである。ナチスに抵抗したドイツ人の容赦ない殺害も、ユダヤ人の大量殺戮も同じ論理、すなわち「彼らはもはや人間とみなす必要はなく、その生命は国家にとって無価値である」の下に実行されたのである。
「価値のない人間=衆愚で凡庸な人間、劣った人種や民族の運命はエリートが決めてよい。アーリア人が支配する第三帝国に貢献するかどうかが判断基準である」とするのがナチスの究極的な価値観だったと思われる。
言うまでもなく、そこには法も憲法もない。あるのはナチス党(究極的には総統たるヒトラー)が定める価値とそれを体現する権力の赤裸々な暴力だけである。
もう一点、特徴としてあげるべきなのは、エリートたちによって大衆が同一化されることだ。奴隷に差異はなく、同一のものとして扱われるのである。そして人間の同一化が死を招き寄せる。(なぜかは、ルネ・ジラールの『暴力と聖なるもの』を参照いただきたい)
新反動主義がニーチェの超人社会と重なるとすれば、このナチスのイデオロギーとも多くの点で重なってくるだろう。では、新反動主義にせよ、ナチスにせよ、どこを批判すべきか。
人間に価値をつけることから、無価値な人間というカテゴリーが作り出され、そこからさらに無価値な人間は殺害しても構わないという論理が生まれ、大量殺戮への道が開かれる。だとすると、人間を価値づけること自体を問題にしなければならない。誰が、どんな権限で何を基準に人間を価値づけるのか。そこにどんな意味があるのか。
この問題を考える時、だれでも人間と動物との関係を想起するだろう。なぜなら動物は人間に奉仕する限りにおいて生存を許される存在であり、なんの権利も認められていないからである。その結果、ただ殺して人間の食に供するためだけ、あるいは人間を運ぶためだけに飼育される動物が存在し、結果、人間によって絶滅に追い込まれた種も数え切れない(最近ではユヴァル・ノア・ハラリ『サピエンス全史』が細かに触れている)。だがここでも、人間が動物を囲い込み、殺す権限はいったい何によって与えられているのかという問いを立てることは可能だろう。既にデリダは、この人間と動物との関係で、正義を問題にしていた。いうまでもなく動物を殺戮する権限は誰によってでもなく(つまり権限を与える授権者は存在せず)、人間みずから自分に与えているのである。従って人間には何の権限もなく、正義も存在せず、ただ暴力があるだけである。
人間を価値づけることが、最終的にわれわれをどういう地点に導くのかを考える時に、動物の運命が示唆を与えてくれるだろう。すなわち、絶滅である。価値がないとみなした人間を大量に殺戮していけば、やがてとめどなく殺戮が続き、理屈でいえば最終的に社会には殺戮者であるエリートのみが残ることになる。だが、エリートは奴隷が存在することによって支えられる存在である以上、エリートもまた早晩消滅する。つまり人間を価値づける社会には、死が憑依し、死(タナトス)に向かっていくということである。最初から、絶滅に向かって運命づけられた社会と言えるだろう。ちなみに、近年話題になった思弁的実在論で取り上げられるレイ・ブラシエという哲学者は、Wikiによれば、現代社会に限らず「絶滅」を前提にした思考を提唱しているとのこと。
ここで問いそのものに戻ろう。
人間を価値づけるとは、人間に序列をつけることだが、この序列では全能の独裁者を最上層にして、同一化された奴隷があり、さらに序列外に追放される者たちが存在する。では、奴隷の中から恣意的に備給される序列外の者たちとは何か。
ユダヤ人、ロマ人、精神障害者、共産主義者、ナチスに抵抗した者たちは強制収容所に囲い込まれたが、かれらが序列外に追放された者たちであり、人間としての権利はいっさい認められず、ジョルジュ・アガンベンのいう「剥き出しの生」を生きる者たちであった。所有するもの全てはもちろん、名前も奪われ、唯一つ与えられたものは、番号だけである。
番号を呼ばれた時にそれに呼応するのは人間であり、その声であるが、たとえ声を出し、呼吸し、わずかなスープを飲み、排尿や排便をするとしても、ナチスにとって基本的に彼らは番号が付された「人間の形をした物」であっただろう。A-100番の囚人とA-101番の囚人の差異は、末尾の番号が1番違うだけであり、男、女、老人、若者、子供、政治犯かそうでないかなどの差異は消し去られる。番号は、囚人からいっさいの人間の属性を奪い「人間の形をした物」に変えるための方法である。
無価値な「物」であればこそ、殺害してもそれは殺害ではなく「器物損壊」に過ぎず、殺害者の良心は痛まない。そして最終的に収容所で問題になるのは、倫理や法ではなく、有用な損壊か、無用な損壊かだけとなり、損壊は効率でのみ判断されるようになる。したがって番号は、囚人から人間としての存在感を奪うとともに、殺害する者たちの良心を麻痺させる機能を果たしていた。
だが番号は、囚人管理の方法であり、その前に、人間を価値づけ、序列外に追放される者を「人にあらざるもの」として肯定する思想があらかじめ存在していたはずである。
人間を価値づけること自体を肯定する思想とは、優生思想と、それにもとづく人種主義に他ならない。優生思想とは、人間を優秀な者と劣等な者に区別し、国家が優秀な者を選別、育成し、劣等な者を下位に追いやることで、民族国家の強化と維持がはかられるとする思想であり、人種主義とは、優秀な人種が、劣等な人種を支配すべきであるとする思想である。優生思想は人間の分析と選別が科学的方法で可能であり、その生に直接介入する(優秀な遺伝子の保護と強化)。ここで人間の選別で絶対的な権限を持つとされているのは民族国家(国民国家)であり(実質的には国家を占領したファシズム政党)、それが「科学」の名の下で行われる。
ナチスが文字通りこの優生思想を信じ、実践に移していたことは、2017年にフランスで制作されたドキュメンタリー『ヒットラーのこどもたち』が詳しい。そこで明らかにされたのは、ナチスが純粋のアーリア人の子供たちを出産させ、エリートとして育成する計画を立て、そのための施設をドイツ、フランスなど10カ所以上で運営してたことである。実際にそこで生まれた子供たちは1,000名以上に上ったと推定されている。
必ずしもよく知られていないが、優生思想は別にナチス特有の思想だったわけではなく、20世紀に入ると、アメリカ、ヨーロッパで広く流布し、支持されていた。優生思想のもとで、これらの国々では、精神障害者などに対する断種手術が実行されていたのである。ナチスはむしろアメリカの断種方法や管理に学んだと言われ、実際アメリカの優生思想を推進すべきだとするロックフェラー財団などは、ナチス治下のドイツ医学関係組織に多額の寄付を続けていたとされる。日本も例外ではなかった。戦後、1948年からつい先ごろの1996年まで存続していた旧優生保護法の下で、強制不妊手術が行われ、被害者の補償はまだ完全に行われていない。
見なければいけないのは、優生思想と近代国民国家が有機的に結びついていたという事実である。国家の存続と強化のために(つまり国家の名の下に)、人間を選別し、劣等な者を排除すること、さらには劣等な人種、民族を支配することが合理化された。もし、「国家」というエレメントがなければ、優生思想はありえなかっただろう。したがって、「誰が、どんな権限でいかなる基準で人間を価値づけるのか」という問いには、それは「国家」であり、基準とは「国家の維持と強化に有用か否か」、すなわち「国家にとって価値があるか、無価値か」であると答えることができる。
近現代国家には、優生思想、人種主義が内包されており、ナショナリズムが争点化される局面でこのイデオロギーが持ち出される時には、国家を前提とする法も憲法ももはや対峙できないだろう。優生思想や人種主義に、国家による戦争への「国民総動員体制」(あるいは総力戦思想)を加えても良い。これらに共通しているのは、最終的には民衆を道連れに絶滅になだれ込んでいく傾向性である。そして現代にあっても国家がある以上、これらのイデオロギーは息をひそめながらも生き残っていると考えるべきだ。実際2016年に起こった相模原障害者殺傷事件で、犯人植松が、障害者の無差別殺戮を合理化するための根拠として持ちだしたのは、他でもなく「無価値な人間は国家のために殺すべきだ」というあからさまな国家の論理であり、その主張を国家にオーソライズさせるべく総理大臣宛の嘆願書を送り届けようとしていたのである。
本来は「新反動主義」の批判をテーマにするつもりが、ナチスとファシズムだけの議論になってしまった。「新反動主義」については後日改めて考えてみたい。