解放感覚

このタイトルは取りあえずそう付けてはみたもの出来がよくない。ここで書いておきたいと思うのは、ある「感覚」のことなので、もともと言葉ではカバーしきれず、どんな言葉を持ってきてもうまく収まらないのだが。

その感覚とは、3.11直後の数日間、感じたものだ。あれだけの大地震、巨大津波、それに原発事故が連続した大災害は日本人が戦後65年で始めて体験したことで、それぞれがそれぞれの感受性のもとでこころに大きな衝撃を抱え込んだだろうと思う。

もちろん私もそうであり、地震にも、(現場にはいなかったが)津波にも、原発事故にも、言い難い、かってない恐怖を覚えた。この恐怖の感情は、多くの人たちと共有していたと思う。しかし私は、同時にもう一つ別の感覚に掴まれていた。それは「解放されている」という感覚である。

この感覚は、とりわけ原発事故の帰趨が誰も予見できず、時の民主党政権も混乱のさなかで国民に対し明確なメッセージを出せなかった数日間に起こった。つまり、この数日間、事実上政府の機能が停止したといっていい状況に私たちは置かれたのだが、この時、私はあたかも国家そのものが消失したような感覚に襲われたのである。

人によっては解放とは逆に不安や危機感を覚えたかも知れない。だから私が体験したような「解放感覚」をその時誰もが感じていたはずだと主張するつもりはない。むしろ私の感覚は少数派だったかも知れない。ただ、その感覚が私の中で今でも思い起こせるほどの力を持っていたのは確かなのだ。

「国家が消失すると、人はこんな解放感を持つのだろうか」とその時思ったのを記憶しているが、それは、平時の日常のなかで、私たちがどれだけ国家の重圧を感じながら生きているのか、そしてその重圧をどれだけ当然のこととして受け入れているかを改めて考えさせられるものでもあった。

だが歴史を振り返れば、この解放感が戦後一度だけ多くの人たちに共有された時がある、それは太平洋戦争の敗戦直後、多くの日本人が虚脱状態に置かれながら感じていたものである。人びとの当時の気持ちは文学や日記に数多く残されているが、共通しているのは「自由」の感覚である。もはや戦争の重圧も、政府や警察、特高、さらには町内会や自警団の監視や弾圧を怖れる必要はなくなった、これまでの軍事国家が根本的に転覆された、という認識が広まるにつれ、人びとは国家から自由であることがいかに貴重で、大事なことであり、そして喜ばしいことかを生々しく体験していたのである。

もちろん国家が消失することは当分の間(すなわち何十年、あるいは百年の間)は夢物語だろう。しかし、それはリアルに起こりえることだと2011年3月の数日間、私は実感していたし、これからも忘れることはないだろうと思う。

そして、これからここ日本と世界で起こる政治や社会の出来事すべてが、どのように曲折に満ちたものであっても、さらにどのような破局が待っているとしても、いつか私たちは「国家の消滅」というフェーズを迎えるだろうと思っている。









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