人ならざる者たち
まだ整理がついていないが、メモとして残しておきたい。6月7日、ツイートしたことをベースに書き足したものである。
ここ数年、ずっと頭にあったのは、法務省下の出入国在留管理庁(昨年まで入国管理局)が管理する入国者収容所(管理センターとも呼ばれる、以下収容所)と、外国人技能実習制度における、外国人に対する筆舌にあまる非人間的な扱いと虐待である。
どちらもある程度は報道もされてきているし、当事者の必死の抵抗と抗議や支援者の活動も展開されてきている。しかし現在でも、どちらも大幅に改善されていない。入国収容所では今なお断続的に被収容者の命がけのハンストが行なわれているし、技能実習生の労働奴隷状態も基本的変わらず、脱走や自殺も続いている。ここでは詳しい実態には触れないが、ぜひ「入管」「入国収容所、虐待、自殺」「技能実習生制度」「技能実習生、超低賃金、奴隷労働、脱走」などでググってみてほしい。その実態を知れば、誰しも言葉を失うだろう。
たとえ建前にせよ、立憲主義、民主主義、法治主義を掲げる日本国家の下で、外国人に対しなぜこのような非人間的な扱いが許されているのか。この「なぜ」がずっと頭の中に残ってきた。
以前から考えてきたことを足がかりにしてこの疑問を検討してみたい。おもに入管問題を取り上げる。
入管当局(すなわち日本国家)が基本的に「国籍を持つ者や、国から在留許可を受けている者以外の人間、すなわち難民や不法入国者は、日本人ではないため、(日本)法の外に置かれ、法的な保護は受けられない。それゆえ彼らを収容するかどうか、収容所でどう扱うかに法的基準はない」という考えに立っているなら、露骨に口にしなくても、彼ら外国人には日本人には認められる「人権」はないと宣言していることになる。(人権の問題については後で触れる)
わが国の入管当局管理下の収容所は「在留資格がない者、不法滞在者、不法入国者などを、強制送還するまで一時的に収容する収容所」として定義されているが、実態は、収容条件にも、また一時的とはされながら収容期間にも明確な法的制約がない。家族や支援者の面会や放免、再収容なども収容所管理者の恣意的な判断で行われている。収容所では管理者の指示、命令、事実行為がそのまま「法」的力を持っている点で、私は、被収容者の殺害を直接目的としていた点で異なるとしても、釈放期限の制約がない予防拘束を永続化したナチス政権下の強制収容所と本質的に共通性を持っていると思う。
上に述べたように、入管当局が「難民や不法滞在者は国家から排除されるべき者であり、従って法的保護を与えなくてもいい」という暗黙の前提で収容所を運営しているなら、やがてそれは必然的に「彼らはもはや法的な意味で人間ではないのだから、国家がどう扱っても構わない」、すなわち扱い方に制限はないという恐るべき論理に発展していくことになるだろう。
実際、収容所では管理者が絶対者=法として振る舞い、事実上、無法状態となっている。職員の指示に抵抗する被収容者には暴行を加え、さらには腐敗した食料を渡したり、ムスリムの被収容者に禁忌の食料を与えたり、医療を拒否することが頻発しており(ほぼ日常的に言ってといいだろう)、まさに人間以下の扱いが行ってきている。その結果、収容者職員の暴行や治療拒否によって死亡したと推定される被収容者が何人にも及ぶと言われ、以下で示すように、「支援者組織であるSYI(収容者友人有志一同)の調査によれば、ここ10年で自殺と病死が12人、自殺未遂はさらに頻繁に起きている。これは2年前のリポートに基づくものであり、その後、現在までさらに数字は増えている。
《ここ10年間での、入管施設での外国人死者》
年月 国籍 場所 死因
09.3 中国 東京 自殺
10.2 ブラジル 東日本 自殺
10.3 ガーナ 東京(※成田支局) 強制送還中の制圧による窒息死の疑い
10.4 韓国 東京 自殺
10.4 フィリピン 東京 病死
10.12 フィリピン 東京 病死
13.10 ミャンマー 東京 医療放置による病死
14.3 イラン 東日本 誤嚥性窒息死(医療放置)
14.3 カメルーン 東日本 医療放置による病死
14.11 スリランカ 東京 医療放置による病死
17.3 ベトナム 東日本 医療放置による病死
18.4 インド 東日本 自殺
志葉玲 「入管収容所における外国人虐待の実態 2018.06.19 HBO
建前上、被収容者の扱いについては1951年に公布され、1981年に全面改訂された「被収容者処遇規則」が存在している。その第一条には規則の目的として「収容されている者(以下「被収容者」という。)の人権を尊重しつつ、適正な処遇を行うこと」とあり、第二条では「収容所等の保安上支障がない範囲内において、被収容者がその属する国の風俗習慣によつて行う生活様式を尊重しなければならない」とされている。しかし上で述べたように、この建前はまったく守られていないのである。入管当局にとっては(さらには所管する法務省にとっては)「規則」はただ紙に書かれた文字列に過ぎない。
冒頭で言及した疑問は、国家がなぜ、その国家に属さない人間の生殺与奪権をなぜ持つのかということだったが、言うまでもなくそもそも難民であれ不法入国者であれ国籍や民族的属性を別にすれば外国人と日本人は同じ人間であり、国家が外国人に対して生殺与奪権を持つなら、国籍を持ち、その構成員とされる私たち日本人に対しても、国家がある日、ある条件や属性に属する者を「お前は国家の敵で非国民(今様の言葉で反日)だ」と新たに認定し、その者を国家の外に放逐して収容し、いっさいの法的保護を奪い、収容所における外国人と同様の地位に置くこともまた可能ではないか。つまり収容所の外国人の運命と、私たちのそれとの間に絶対的な差異はないのではなく、国家の外部に存在するとされる収容所は、一定の条件の下で、内部に反転しうると考えるべきことになる。
というよりも(結論を先取りすれば)、国家の外部としての収容所は、偶発的な存在ではなく、むしろ国家が国家として成立する必然的な条件ではないのかと言ったほうがより正確になるだろう。したがって収容所が内部に反転するとは、国家全体が収容所化することを意味する。
そして歴史を振り返れば、「国家全体の収容所化」は全体主義国家と総力戦として、実際に起こったのである。
外部が内部に反転する「一定の条件」とは国家が危機に陥ったとき、すなわち社会が対立、分裂し、政治部門が統治能力を喪失する時であり、「非常事態」「緊急事態」と呼ばれる。この時に国家(正確には国家機関を乗っ取った政治勢力)は、特定の敵国を設定すると同時に、内部に潜む「敵」を意図的に作り出し、国民の不満と怒りの矛先を彼らに向けさせ、彼らを国家の外に排除隔離することを通じて国家の一体性を偽装的に獲得しようとうする。
この時に何が起こるかといえば、議会制民主主義が建前上機能していたかに見える平時と異なり、暴力が法となることで両者の区別がなくなるという「例外状態」に国家が陥るのである。社会の混乱と混沌の中で、もっとも果断に暴力を振るい、法を破壊する勢力が主権者として国家権力を掌握するのは、近代国家が生まれる(また近代以前であっても)原初的なプロセスであったとすれば、「例外状態」とは国家が議会制民主主義の衣を脱ぎ捨て、組織された暴力のみが決定権を持つ原初の時に回帰し、国家本来の姿に立ち戻ることを意味している。例外状態の国家では、もはや収容所と法治が行なわれているはずの国家内部の区別はなくなり、国家全体が収容化するのである。
この仮説に基づけば、収容所は、そして技能実習生の働く現場は「例外状態」に置かれていることになる。そして日本社会全体もまた繰り返せば「例外状態」に置かれるリスクを潜在的に持っていることになる。
ここで「人権」問題に戻ってみると「人権」が制約され、さらには全面的に奪われるのは、何も収容所に閉じ込められている難民や不法入国者だけでなく、日本国籍を持つ者に対しても潜在的にそうであるとすれば、「人権」の概念を再考すべきことになる。すなわち「人権」とはどこまでも国家を前提にしたものであり、国家から条件付で一時的に付与されるものと捉えるべきであり、対象が外国人であれ国民であれ、生殺与奪権は最初から国家に留保されていると考えるべきことになる。
これまで、近代国家にあって「(基本的)人権」は、人間が人間である限り誰でもが保有している権利であり、国家は侵害してはならないとされてきた。現在の憲法学では(戦前のファシズムの反省から)「基本的人権とは、人間が人間である限り保有している普遍的で前国家的(自然法的)な権利」としていちおう定義されている。だから当然外国人にも人権は認められるとされる。ところが憲法の教科書ではそのすぐ後で、「ただし、外国人には、出入国の権利や国家に参画する参政権、高級公務員になれる公務就任権は、国際慣習法上認められない」と説明されている。これは奇妙な議論である。もし「人権」が前国家的権利であるとすれば、(他者の人権を侵害しない限り)国家からの制約は受けないはずなのだ。またそもそも「近代国家は、人が互いの自然法的な権利を守るために契約によって創り上げた政治機関に過ぎない」とする近代国家が立脚する立憲主義の建前にも抵触するだろう。国際慣習法を持ち出しても、これらの矛盾は解消しない。なぜなら国際法もまた諸国家の存在を前提にするものだからだ。
実際には人権が制約されるのは外国人だけではなく、国籍を持ち、国家の構成員であるとされる日本人も対象となっているのである。それを正当化しているのが「人権は前国家的で普遍的な権利だが、公共の利益のためには制約される」という理屈である。「公共の利益」とは何かをめぐって、かって「国家は人権を侵害できない以上、他者の権利との調整に限定される」とされていたこともあるが、実際の裁判では、「公共の利益」はそのまま「国家や公共の安全」に置換されるのが常であり、その判断は国家機関である裁判所が一方的におこない、利益に反するものはデモやビラ貼りから、デモ、国家や政府を批判する言論、さらには「国家の安全を脅かす政治団体」(破防法など)にいたるまで拡張されている。
「公共の利益」とは伸縮自在の概念であり、「国家の利益」まで拡張されうるものであるとすれば、究極的には、戦前の「国家総動員法」が端的に示すように、国民すべてを兵士として国家目的である戦争へ動員し、死を命ずること、すなわち国家が国民の生殺与奪の権利を持つことを承認するところにまで至るだろう。したがって「人権」を持ち出すことは、ある限度内で国家の暴力を抑制することはできても、それを廃絶することはできない。国家そのものが最終的には危機を媒介に国民全員に死を命ずる「絶滅装置」となること、収容所はそれを先取りした制度であること認識しておく必要があるだろう。(なおこの点については、「絶滅装置としての国家」で触れているので参照していただきたい)
では、「人権」を盾とすることに限界があるとすれば、収容所に対置するべきものは何か。抽象にとどまることを覚悟した上で言えば、悲惨な状況で苦しんでいる被収容の外国人や技能実習生を前に、彼らとは兄弟姉妹であり、彼らの運命を自分たち自身の運命として予感し、抗議に立ち上がる人びとの裸の人間としての結合、その群れが作り出す国家に代わる新たな力(法)以外にない。それは国家とのたたかいの中からしか生まれてこない。
以上から、入管当局の収容所は強制収容所として解体廃絶すべきであり、外国人労働者を奴隷扱いする現在の技能実習生制度も廃止すべきだと強く提起しておきたい。なおここでは触れられなかったが、外国人技能実習生が置かれている実態は、ほぼ無権利状態で労働基準法の外に置かれ、賃金といえないほどの低賃金で労働を強いられ、退社も帰国もままならないのであり、奴隷労働者と言うべきである。法の保護を受けず、人間以下の扱いがなされている点で、彼らは入管収容所に強制収容されている外国人と変わらないと私は考える。技能実習生の置かれている現状については下記の記事を参照いただきたい。
ここでは結論として「国家に代わる新たな力(法)」を作り出すことが最終的な解決策であると主張したが、もちろん解体廃絶、廃止にむけて、私たちに現在与えられているあらゆる法的、社会的手段を活用した闘いが不可欠なのはいうまでもない。中でも、憲法18条に基づく「人身保護法」を彼らの救出解放に向けて最大活用すべきだと考える。
「外国人労働者拡大で技能実習制度の劣悪な実態が直視されない危うさ」
* なお、「例外状態」という概念を用いて国家の暴力的起源と強制収容所の関係を提示したのはイタリアの哲学者ジョルジュ・アガンベンであり、著作『ホモ・サケル』に詳しく展開されている。一読を薦めたい。