僕が人生の中で泣きながら電話したのは2回目だった
どうも、はじめましての方と再来の方へ、たつのこ龍次郎と申します。
人の心に触れる言葉を紡ぎたい、そんな男です。
前日、めちゃくちゃ良いことがあった。
飛び上がるほど嬉しい出来事だ。
それを書こうと思っていたけれど、また別の機会に書くことにする。
天国から地獄とはこのことだ……
泣きながら電話したのはもう随分前の話になる。今から23年前だ。
父が入院している病院のすぐ側にある公衆電話だった。
相手は親戚の叔母さん。
22歳という若さの私は、病院の先生から父の病状説明を受けるために来院していた。
説明の中で通告された言葉の重みに耐えながら病院を出た。すぐ近くにある公衆電話を見つけて、電話をかけた。
張り裂けそうな胸の苦しみを我慢していたけれど、受話器越しに叔母さんの声を聴いた瞬間に解放されてしまった。
涙と嗚咽が止まらなくて話すことができない。それでも涙を押さえて、泣きながら振り絞る声で話していた。
「病院の先生が、父は末期の癌で、もう数ヶ月持たないって……」
そのあと何を話したのかは覚えていない。
泣きじゃくって帰ったことだけ覚えている。
そんな日が、もうずいぶんと大人になったと思っていた今日ふたたび訪れるとは思ってもみなかった。
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四十肩に苦しんで、6年前にお世話になることになった整骨院。それから7ヶ月掛けて全治するまでお世話になった。
きっと四十肩にならなければ通わなかった整骨院。何故だか今年の三月末に四十…いや五十肩が再発してしまう。そこからまたその整骨院に通うようになっていた。
その整骨院の隣には家族行きつけの飲食店があったのだが、シャッターに「しばらくお休みします」と書かれた張り紙があったことがずっと気になっていた。
その飲食店は、背は高くないけれどずんぐりした体型のマスターが一人で調理し、アルバイトの子が1人か2人で料理を運んだり調理以外を担当するような形態で切り盛りしている小さなお店だった。
季節の食材を活かして和食洋食といろんな創作料理として提供してくれていたのだけど、出てくる料理は小さなお店にはもったいないほど絶品の味だった。
マスターは職人気質で、口数も少なくて口下手。でも、時々はにかんで料理皿をテーブルに運んできては嬉しそうに説明してくれていた。
我が家でも定期的に通って、何かのお祝いや疲れたときに行くお店になっていた。行けば「美味しいものが必ず食べられる」絶対的信頼のお店。
あれ?ひょっとしてマスター体調崩されたのかな?と思いながらも、ずっと剥がされない張り紙。
一間週前。家族が飲食店の前を通った時に、業者が来て改装か何かの工事をしていることに気付いた。
隣の整骨院なら何か知ってるかもしれないので「肩の治療ついでに聞いてみる」と家族に伝えていた。
そして整骨院の先生に施術してもらっている最中に聞いた衝撃の事情。
施術中も涙と鼻水が止まらなくて、整骨院には迷惑をかけてしまった。本当にごめんなさい。
施術後、気持ちも落ち着けて、整骨院を出た。
どうしても家に帰るまで我慢できなくて、伝えたくてスマホで妻に電話していた。
数回なった呼び出し音の後、聴こえた妻の声。
涙が溢れ出る。
私は振り絞る声で言った。
「マスター、コロナで亡くなってた……」
受話口の向こうで現実を受け入れられない妻の狼狽する声が聴こえる。私は整骨院で聞いた話を、泣きながら妻に伝えた。
これが2回目の泣きながら電話した話だ。
くそっ!!くそっ!!コロナって何やねん!!!緊急事態宣言が発令されてる今じゃなかったら、病院が切迫してなかったら、ひょっとしたらマスターも助かってたんと違うんか!?
誰にぶつけることも出来ない怒りと悲しみ。
世界が今戦っている新型コロナウイルスが自分の大切な人たちにまで及んだ現実。
大切な人と、当たり前のように在ると思っていた未来が崩れ去った。
また緊急事態宣言が落ち着いたら行きたいね、そんな風に笑顔で語り合っていた家族から笑顔が消えた日。
マスター、いつも美味しい料理をたくさんたくさん食べさせてくれてありがとう。
マスターに出会えて本当に良かった。
両手を合わせてごちそうさまでした、そして……さようなら。
いつ消えてなくなるか分からない命。
自分の気分の浮き沈みで大切な人を邪険に扱ってしまった日はすぐ謝ろう。
相手に言われて嬉しかったこと、悲しかったこと、はできるだけ早く伝えよう。後で伝えたくても伝えられなくなるかもしれないのだから。
ではまた、どうぞお越しになってください。
2021.05.15(土)@8-006
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