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はじめてのへんしゅう(8)読むということは知ることだった

どうも、はじめましての方と再来の方へ、たつのこ龍次郎と申します。

人の心に触れる言葉を紡ぎたい、そんな男です。

昨夜、食後に死ぬかと思うほどの腹痛。
トイレに30分、いや感覚としては1時間は籠っていた。お腹の直下降。グイグイキュウキュウと下腹部が痛み、顔はもちろんのこと全身から汗が吹き出してくる。血の気が引いていく……
波が引いた瞬間にトイレから出て、現実から逃げるように布団に入って目を瞑った、ら朝だった。

起きたら穏やかな朝で安心した。
きっと食べすぎたのだろう。自制せねば……

さて、前回のはじめてのへんしゅうシリーズで、「もう一つの読点」を書いた。

私は今、入部しているライティング倶楽部メンバー12人が書いた文章を一つの冊子にまとめて編集しているのだけれど、ひとつ気付いたことを書きたい。

リーダーのヤスさんとやりとりをしていた中で「もしも冊子が届いたら」という話の流れになった。

私は「目の前に届いたら、泣くかもしれない」と返した。

ヤスさんからは「思いっきり感情移入したもんね!」と返ってきて、ハッとさせられた。

次にふと降りてきて返信した言葉がこれだった。

『読むことは、知ることだった。』


編集作業が終わるころ、そこに書かれてある文章を何度も読んだからなのか自分でも不思議なくらい「愛着」が湧いてきていることに気がついた。

何に対する愛着なのか、ひとつひとつの作品なのか、作者なのか。おそらく両方だ。

その人が書く文章には、その人の「何か」が滲み出ていた。それはその人にしか体験できないエピソードであったり、積み上げられた経験から導き出された「人生訓」や「思考のクセ」だったり。

編集することで何度も読んで行くと、作者の思考をトレースすることになる。

「読むという行為」は、小説でも何でもそうだけれど、作者の描き出した文字の世界を自分の目線で思い描き、登場人物たちと一緒に歩いたり走ったりすることに他ならない。

編集をしていると、作者を知る行為、自分の知らない世界を知る行為が進んだ。

読むということは、それまで知らなかったこと、興味のなかったことを、知るということ。

今回の編集作業は、まだ第一段階。
作者の書く内容に対して、手は入れない。
ただ、まとめただけだ。

第二段階については、次回へつづく。

ではまた、どうぞお越しになってください。

2021.05.23(日)@11-001


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たつのこ龍次郎(りゅうじろう)
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