好きになった瞬間
※本記事は自分が所属する社会人ライティングサークルの放課後ライティング倶楽部が提案する「土曜日に書いてほしい」テーマです
人を好きになるのは「一瞬」なのかもしれない。
『運命の人』は誰にでも必ず存在していると信じてる。なんだか言葉にするとチープすぎて涙がチョチョ切れそうになるけれど……
自分の運命の人は妻だった。
それぞれ別の友人繋がり、会社の飲み会で帰る方向が一緒だった。
ふたりきり。電車に揺られながら私はドキドキしながら話をしていた。
フィーリングというのは確かにあって、自分にしては珍しく饒舌に言葉のキャッチボールがうまくできた。楽しくてワクワクドキドキしてる自分がいる。
私の家の最寄駅は、彼女の路線乗り換え駅だった。一緒に駅を降りた時に、なんだかそのまま別れるのが惜しい気持ちになって、どちらが言うでもなく駅のベンチに座って話を続けた。
いろんな流れから家族の話になり、自分は両親もおらず独り身であること。彼女は父親を亡くしてお母さんとふたり暮らしだとお互いの身上をはじめて知る機会になった。
連絡先を交換して、精いっぱい何気ないフリをした言葉のキャッチボールが始まった。
投げては返ってくるドキドキの言葉の中に、「一緒に映画を観に行きませんか?」が書かれるまでそう時間は掛からなかった。
はじめてのデートだ。ドキドキ……
ふたりだけで観る映画……さぁさぁどうする?!
恋愛映画はいかにも意識し過ぎてて気恥ずかしくて観てられない。爽快なアクション映画か、ミステリー? それとも泣けるような映画か。
たまたまやっていた映画の中から候補を出して、二人が選んだ映画は『おくりびと』になった。(※第32回日本アカデミー賞など多数受賞した作品)
亡くなったひとの最期を美しく整えていく納棺師の話だ。この上なく暗いし、死という重いテーマだし、初デートになぜこれを選んだのかは、当時はよく分からなかった。
映画はユーモアも折り混ぜながら進むのだけれど、家族の死、とりわけ父親の死に直面し、主人公が葛藤し乗り越えていくシーンがある。観ながらオーバーラップする自分の父親との死別……
映画が終わったとき、ふたりとも号泣していた。
お互いすぐ隣に座っているけれど、ありのままの涙が自然と溢れ出て止められなかった。
彼女の涙を見た瞬間、私は確信に近いナニカを感じた。信頼できる人、好きな人だ、と。
妻にあのときの話を聞いたことはないけれど、彼女もきっと同じようなものを自分に感じたに違いないと思っている。
今なら分かる。
なぜ数ある映画の中で『おくりびと』を選んだのか。
それは、天国から見守るふたりの父親たちが、観るように仕向けてくれたんだと。
もしも妻の父親が生きていたら、どんな話をしていただろう? と今まで何度も何度も考えた。叶わない願いだったけど、会ったこともないお義父さんだけれど、この事実を思い出す度になんだか祝福されてて見守ってくれている気持ちにいつもなるのだ。