私の中の猫
4/21(日)高田馬場ロケッティーダにてCobaltさんの個展のクロージングアクトで少し演奏する。事前に「テーマがあれば教えてください」とCobaltさんに伺ったところ、表題のテーマを伝えられた。
猫と高田馬場について考えていると、昔のことがいくつか思い返された。
高田馬場のポリスはやさしかった
ぼくは早稲田大学に6年間通っていたため馴染みのある街である。やらかした思い出ばかり胸に浮かぶ。
馬場の車道で酔っ払って、友達とウェイウェイしていたら巡回しているポリスにたしなめられた。だが、みんな無謀だった、みんな無敵だったので、ポリスの持つ誘導灯をウェイしたり、ポリスの自転車にウェイして写メとったりして盛り上がった。ポリスはウェイしなかったが、苦笑いで終始たしなめつづけ、ぼくたちもお疲れ様ですと言って別れた。
なにそれ?
情操教育には適切な猫が必要であること
一気にさかのぼって幼少期、オモチャを買ってもらえない系男子たるぼくだったが、共働きの両親も思うところあってか、猫のぬいぐるみを買い与えてくれた。
ぼくは猫に名前をつけなかったが、ぼくの猫と思い、一緒に遊んだ。
猫のぬいぐるみを物置きに入れる、猫なので暗いところが好きで隠れている。
ぼくはしばらく探す。子ども時代なので30分から一時間ぐらいかけて猫を探す。自分が隠した猫を。
見つけたらなでなでタイムで、一緒に転がりながらなでた。
そしてまた隠す。探す。なでる。
ぼくの内向的な性格はこのルーティンに育まれた気がしてならない。本当の猫を飼うことは許可されなかった。猫を求める気持ちは人一倍強くなった。
上京してからも、近所で猫の鳴く声がするとふらふら徘徊したり、自分で餌が取れなくなった病気の猫に鮭の切り身をレンチンしたやつをあげて、そいつがいなくなると茫然としていた。当時、高円寺の家の周りはそういう猫が多かった。
子どもを外向的に育てたかったら、本当の猫を飼い与えるべきだ。
ぼくの猫は中学生の時、「中学生にもなって汚い猫のぬいぐるみを大事にしているのはおかしい」という理由で、親に処分されてしまった。
怒ったけれど、当時の家庭の状況もあり、あまりちゃんと怒れなかった。まあ、ずっと家庭の状況がよろしくなかったので、ちゃんと怒れないまま家庭はなくなった。
子どもを外向的に育てたかったら、本当の猫を飼い与えるべきだ。
だが内向的な子どもの愛はいびつな形にも合わせて育ち、いびつなままにも愛を失わず生きていけるよ。
だが世間を知らぬ素朴さが人を傷つけることもある
むきだしの愛はいびつなままに、あいつの目はフリークスを見る目だった
早く人間になりたい、愛を隠すことが近道だった。物言わぬ愛が真にお隠れになった時、人間じみたおれの目に光はあるか
次回、愛のかげろうを探す時、君は訪ねるぬいぐるみの都へ。すべてのぬいぐるみに名前をつけおえる頃、馬場シティのポリスが殴りにやってくる。
おたのしみに
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