ダンス素人の見方① 加藤理愛ほか『Clean Up Party』

『Clean Up Party』
2023.10.13 17:00の部
【演出・構成】
加藤理愛
【振付・出演】
有明歩 石川大貴 女屋理音 佐伯春樺 白井耀 鈴木佑芽 中川鈴音 中島妃奈里 畠中真濃(DaBY) 塙睦美(モモンガ・コンプレックス) 浜田誠太郎 加藤理愛
保谷「タクトホームこもれびGRAFAREホール(保谷こもれびホール)」小ホール

開始前のアナウンスから、丸い空間を縦横無尽に使って、ということかと思ったが、ほとんどの動きが舞台奥で繰り広げられていたので、反対側に座ってしまうと視力の弱い者には遠かったなと。私は途中で席を移動しましたが。

 踊ることの祝祭性と日常をどうつなげるかというテーマ。したがってまず何気ない日常のようなとりとめのない動作や散漫なやり取りの繰り返される空間を作り出している。しかしそこでは常に小さなドラマが起きてもいる。おもちゃやボールが散乱し、私には小学校の時にいた学童保育の狭い部屋を思い起こさせる状況。それは大人になってから忘れてしまった感覚、だが大人の社会も本質は変わっていないのだが。テクニックを見せるようなダンスではなく、即興的なものか振り付けか見分けがつかない。その一方でステージ外で「ダンスを象徴する」構築的な動きをずっと一人で繰り返している出演者が一人いたり、客席にまぎれていて適時「監督」のように出ていく出演者が一人いるなど、仕掛けが多い。

 突如として「決め」の群舞が入り、テーマが提示される。ダンスとは日常からの解放の瞬間だが、それは一回性のものであり、人工的に作り出すことはじつは難しい。その認識から出発して、人と人の相互のかかわりあい、自分の心/身をためつすがめつ探ること、物体の運動から受ける衝撃の再発見など、生活のさまざまな場面における動作を注意深く触りなおしていく。その中で「発揮する」のではなく見いだされていくそれぞれの個性。ボールを「投げかける」ことも「投げつける」ことも一種のコミュニケーション。キャッチボールもデッドボールも野球にはある、人生にも。

 女性だけのメンバーの中に一人だけ男性がいるため、そこにどうしても特殊な意味が生じる、彼にはあえてそのことを明示的に引き受けさせて、転換のきっかけになる重大な動きを任せてある。弱々しさからくる逆切れのような亀裂、それが不承不承にプロセスの起点となり、結果として気づきをあたえる面もある。男性なるものの社会的文脈を直視している、この演出は考え抜かれている。ドラマは同時多発的であり、社会を考えさせるミニチュア。一方でミニマムな一人一人のかかわり方の厄介さ、そこから自己の内面にも第三者にもさまざまなことが生起してくるが、そこをていねいに見つめていくことが大事で、それができていればあるいはこの社会ももっと「優しく」、というのは見せかけの優しさとは別の意味で、違うものになるのではないかと思わせる。ただここではヴァイオレンスな要素は徹底して取り除かれているだけに、リアリティよりもイデーが前面に出る。なお音楽の使い方はベタなまでにわかりやすいものを使う。その意図はつかみがたいが、メッセージ性をあえて明確に打ち出しているのか、それとも反語的なものか、異化作用を狙ったのか、そのどちらでもなさそうだが・・。

 さらに、人間としての関係の連鎖を象徴する「決め」となるシークエンスが二回繰り返されることで、日常の反復性が確認され、「日常を改めて見つめなおす」「ダンスとは何か」というテーマがきっぱりと提示された。わかりやすく、巧みな演出だ。出演者にも観客にもメタ・レベルを自覚させ、ステージへの距離感を取ることができ、神秘主義に陥らない、知的かつ実践的な狙い。

 人物を個々に見ていくことは難しいが、たとえば、終始折り目正しく粛々と他者の「介添え人」のような動きをした出演者が、一方では感情をこめてボールを床にたたきつける瞬間も見せる。人格を固定して割り振らず、自然なかたちで一人の中に振幅があるのがいい。ダンサーをステージのための道具と化さないで、人として尊重している演出の姿勢がある。技術面で精度のばらつきもあるが、あえてそこを活かす手法を探っている。共存とは何か。それを即興など出たとこ勝負ではなく、厳密な作品として狙っているのが面白い。終盤に「監督」のジレンマも作品内に持ち込んだことで、美しさへの欲望もまたヴァイオレンスの源泉ということに気づかされ、深みが増した。

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