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ダンス素人の見方⑫ よしプロ「あけがらすズ」 

よしプロ「あけがらすズ」
「BUoY」(東京都足立区千住仲町)
2024年8月31日(土) 〜 9月1日(日)

柳家小春(三味線、唄)
河崎純(コントラバス)

阿竹花子(ダンス)
阿部満世(身体表現)
亞弥(舞踏)
今村よしこ(ダンス)
岩崎一恵(ダンス)
金子和世(ダンス)
平井光子(俳優)
ほりえしんじ(ダンス)
○ヰ△(C.I )
ヤスキチ(C.I )

振付構成・今村よしこ(よしプロ)
https://yhdpyoyoyo.wixsite.com/-site

9月1日、13:00の回を鑑賞した。新内節「明烏夢泡雪」を新たな解釈で舞台化したもので、2023年に自由学園明日館で見たものの大規模な拡張版。前回とは完全に別物と言っていいです。新内の最高傑作と言われる「明烏夢泡雪」を脱構築しようという試みで、そのために新内そのものは正統派を究めた手練れにそのまま歌ってもらい、ダンスは粒よりのダンサーをそろえるのではなく、異なるルーツを持った雑多なメンバーを集め、さらにそのまた外在的な異物としてコンタクト・インプロヴィゼーション(C.I )のペアを入れ込んである。冒険ともいえるほど野心的な編成だ。

前回の会場であった自由学園のウォームな建物とはうってかわり、この地下の廃墟のような広漠とした空間では柳家小春の新内節が寒々しく圧倒的な存在感で鳴り響く。名手・河崎純のコントラバスさえその前では異景の一つにすぎない。悲恋の悲話を語る柳家の声色、それはあらゆるものを飲み込むブラックホールのようだ。一方、ここでのダンスはどこまでもモダンで無機質なもの。その埋めがたいまでの異質さ、コントラストが際立つ。新内という古典芸能が持つ「呪詛」とも言えるほどの磁場と生命力、そこに決して同化し得ない現代風の「ダンス」が、浮き上がらずに拮抗して立ち続けることができるかがカギとなる。

「心中」(本作のストーリーは少し違うが実質的にはそう捉えてよかろう)という、日本人の琴線にもっとも強く触れる物語形式は、震えるような無力感と自己憐憫によって、魅了された者の胸を深くえぐるのだが、その背景には江戸時代300年の身分制度の重みが横たわっている。この本質は明治維新後も、太平洋戦争敗戦後もじつは変わっていない。焦点が身分から経済へ移っただけだ。日本の民衆は我が身の運命を自らの手で切り開いた経験がない。恋のために国を捨てた男女が英雄的に語られる物語も持たないのだ。この閉塞感の中で、心中という形で「愛」の観念は純化される。日本人には理想の愛はそのように死の彼方にしかなかった。ただこの「明烏夢泡雪」には一点、小さな穴が開けてあり、未来へと理想の愛が生き延びていく予感が残されている。すなわち、泡と消える雪のような夢として。

前作ではこの悲恋の物語を現代に再び呼び出すために、今村よしこと亞弥の二人が己の肉体をヨリシロに江戸の情念を宿らせることと、それを現代に至る歴史の目=「カラスの目」から相対化することの二つを同時に試み、「受肉」とも言えるほどの融合を果たした。今回、今村は時の審判者のように背景に退き、亞弥は前作と同じく放心のさ迷うままに、群像の中に紛れていく。それにしても武装した精神がそのまま肉体の鎧と化したような今村のカラダは相変わらずかっこよく、引き締まった立ち姿は「攻殻機動隊」の草薙素子を思わせますね。

本作はそのように鍛え上げられた身体を集めるのではなく、ばらつきのある面々をわざとそろえてある。性別や年齢もしかり。この多様な顔ぶれがキメの多い振り付けを通じて新内の語りに時代を越えてシンクロナイズし、またソロ的なパートではそれぞれの仕方でレスポンスしていくことで、現代人にとってこの物語がどのような「接点」において切実であり得るのかをあぶり出していく。と同時に、「カラスの目」である生活者としての自分、すなわち現代人の雑多さとバイタルな猥雑さによって物語の磁場を相対化する試みでもある。物語から流れ出た時間が各自の体内にいかなる変容をもたらし、またそれが他者へとどのように伝播するのか、しないのか、それらの相互作用を合わせ鏡のように多面的に検証するシステムとしてこの集団性は機能する。そして死へと向かう絶望の波動を浴びた時、身体はひび割れた感情と生存の官能がせめぎあう「場」と化す。

ここで浮かび上がってきた「残酷な壁」は、身分や経済ではなく「時間」かもしれない。全体的に出演者の年齢層はおおむね高めで、若い人たちのように理想の未来に向けて勢いよく伸びやかに、激しいテクニックを駆使していく、というわけにはいかない。皆どこかガタピシしたところを抱えている。きわめて「普通の人」に近い身体、あるいは「無様」ですらある不器用さを抱えながら、今ここで何ができるかという課題に各自が立ち向かう。またスキンヘッドの女性?がいたりと、ジェンダーの境界線を撹乱させるような要素もある。

そしてコンタクト・インプロヴィゼーションの二人組は物語の外にいる「マレビト」のような存在。彼、彼女らはあるいは主人公たちが異世界へ転生した姿なのかもしれない。コンタクトは日本から遠く離れた欧米で鍛え上げられた解放のメソッドである。その軽やかさと軟らかさは現代人の意識的・無意識的な「構え」を解きほぐすことで、己の不可視な「あるがまま」の姿を湧出したもので、これほど江戸の身体からかけ離れたものがあるだろうか。その彼女らはただ「あるがまま」存在するだけで、他の出演者とは違い物語から流れてくる時間を生きようとしないし、「自己」を「表現」しようともしない。二人は群像と入り雑じりつつ、空間を横切ったり身を触れ合わせたり、「真似」を行ったりするが、行動原理が違う双方は同じフレームにいないかのようにすれ違っていく。しかしその存在は人々の身体が抱えている強ばりと重苦しさをさりげなく照らし出すことで、見るものと出演者ともに困惑や憧憬を呼び起こす。この二人はいわば群像に対するサブ・システムであり、アンチ・システムとして機能する。それにしても、そのありようは江戸時代には果てしなく重かった「女がひらりと飛ぶ」ことを、じつにあっけらかんと先取りしているのだ。

しかし、こういった大仕掛けな編成を以てしても「明烏夢泡雪」を「内側から」乗り越えることはたやすいことではない。江戸という舞台装置を引きはがして、その核心にある情念を我とわが身に引き付けるとき、この物語は現在を生きる我々にとってもそれほどまでにアクチュアルな題材を秘めている。つまり、私たちは「ひらりと」飛べるだろうか?という問いだ。生存に本来息づいているはずの官能を窒息させないため、内外のあらゆる制約を検出し解明し、自由へと飛躍せしめる条件を探し求め、開発し、何度となく課題に挑むことで意識と無意識と身体とに沈殿させていく、またその蓄積を他者との関わり合いによる試練や摩擦へと差し出しながら自己と他者とを互いに捉え返す、そんな果てしない難行よりは、むしろ死ぬほうが楽なのではないか? つまり、「踊らない」ほうが楽なのではないか、と。そして圧倒的大多数のわれわれは実際問題踊らないし、踊ることを夢見ることもしない。ほぼすべての人間は自分の夢を「来世」へと持ち運んでいこうとするし、その一方では誰も来世など信じていない。では、私たちは江戸時代の女郎の境遇からどこまで変わることができているのだろうか。男性を含めて、この舞台を通じて今そのことを「思考ではなく五体の感覚において」己に問うてみるのもいいだろう。

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