2020年12月19日「『獏の腹の中の泉』~3人の踊り手によるソロ・オムニバス作品~」(新高円寺アトラクターズ・スタヂオ) 小玉陽子「ひまくはおどる」、南阿豆「inside skin」 感想メモ

今回は「小玉陽子」という未知の踊り手を知ることができたのが大きな収穫。手の繊細な表現で揺らぎゆく優美さを極め、そこから全身を揺らがせて記憶の深いところに眠っている「何か」(女性性に埋伏・保存されている幼児期の?)を呼び覚ました。こういった身体表現は基本的に「遅延された解放の約束」を前提にしていると思う。解放と言っても手足を激しく動かすとかではなく、身体を縛っている社会化された日常的な規範意識がほどかれ開かれていく、ということ。音楽の選択もセンスが卓抜。そこから一転して無音の直立と足踏みは、観客との緊張関係を発生させ、さらにアフリカの?民謡に乗せて喜怒哀楽を織り交ぜた激しいダンス。これは、解放を阻害している(過去に存在した生き生きした者たちを抹殺した?)すべての抑圧因子への抗議なのか? 決然とした強い意志はちょっとした脅威を感じるほど。このコントラストにどういうメッセージが込められていたのか、考えどころだ。


南阿豆は異形性を押し出しそれは耽美的ですらある。重心の移動、ポージング、液体のようになめらかな足の変位、そして背中と腕の筋の鋭く隆起する連動など、照明と相まって黒ずんだ金を思わせる肉体はあらゆる動きが(実際の速さとは別の意味で)スピード感にみなぎる。成田護のボイスやパーカッションもあって多少ラフな感じもあるのが逆に自由さを感じる。こういった基本の動きだけでも十分観客を楽しませられるのだが、そこにあえて重いテーマ性を盛り込んでくるのが南の南たるゆえん。生命というあまりに大きく尊いものが手の中で砕け散っていった‥。燃え尽きた肉体が溶けた蝋が冷え固まるように暗転へ打ち沈んでいく。そこから早変わりで黒子の姿になり、マイム的な動きで、不安な闇の中で手探りを繰り返すうちに、錯乱し幼児退行していく姿を演じる。これまで繰り返しチャレンジしてきたテーマで、誰もが思い当たるような現代人のありようを戯画化した感がある。得意とする私的な領域の表現に比べ広がりがある分、ややもすると軽さを感じ、他のパートとの接合に難しさがありそう。今回は脱皮するように服を脱ぎ、そこからほぼ背中のみを使っての動きへ。ライトを受けた背中だけが別の生き物のように見え、腕が足のようであり、足が腕のようだ。これは前半で失われた魂魄が背中の肉にもう一つの姿として転生したものなのか? 鍛え上げられた背中の肉の動きは、見方によってはそれ自体が「顔」のようにすら見えるほど豊かで、いろいろと想像力をかき立てられる。

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