見出し画像

かけがえなさ

まだ恋人がいた時期に、いつもこんなことを考えていた。

「自分のどこを好いてくれているのか」

これは、「こんなに不甲斐ない自分のことをなぜ好きなのか」と意訳される、自己肯定感の低さが引き起こす戯言ではない。それに対して「そんなことないよ、好きだよ」という返答を待っているわけでもない。
純粋に「自分とは何か」という問いに迷走し続けた結果、どんな真理にも辿り着かず他者に問いを投げた。いつも傍にいる人間なら、人生の大切な時間を自分といることに費やしてくれている人間なら、なんらかの納得する解を提出してくれるだろうと思った。
二十歳の誕生日に貰った手紙には、「好きなところ」が書かれたハート型の紙がちょうど歳の数入っていた。これが恋人からの解答だ。当然、嬉しかった。


           *


しかし、真理探究は別腹だ。ある人間がある人間を好きになる要素の数は20に収まるのか。では仮に、その20の要素と全く共通の要素を持った人間が現れたとしよう。突如現れたその人間のことを好きになるか。年収や出身大学など明確な基準が存在する、条件のみの仕事探しのような恋愛をしている人でなければ、「好きになるはずがない」と答えるのが一般的だろう。

別の場面を考えよう。自分はどのような人間か。仲の良い友人に尋ねる。少し迷った後に5つ答えが返ってくる。だがその5つを満たした人間が登場しても、私が2人になったわけではない。
この指摘を前にきっとこんな言葉が投げ返される。「当たり前だ。誰かのことを表現し尽くすことなんてできない。言ったことの他にもその人らしさはある」もしくは「そんなものは言語化できない。その人のよさを語りたくても説明できない何かがある」という反応だ。

両者は同じような申し立てを行っているようでも示唆することは異なる。というよりむしろ、正反対の主張を行っていることを確認しなければならない。以下の2つに大別される。

ある人間について、
⑴説明は可能である。しかし説明し尽くすことができないほど、その要素は多い。
⑵説明は不可能である。各個人には言葉にできるものを超えた何かがある。

貰ったハートの内容を具体例にでも挙げて説明できたら少しは分かりやすかったのかもしれないが、生憎すべて処分してしまった。


           *


果たして人間は諸要素に分解可能なのか否か。我々が「これはかけがえのない¹ものだ」と考えている対象の捉え方を整理するために、思想家たちの概念的考察を拝借しよう。

「固有名は記述の束である」という論理学者バートランド・ラッセルの主張に対し、批評家の柄谷行人は、それは事物の「特殊性」と「単独性」を同一視していると指摘し、両概念を明確に区別することの必要性を説いた。

 特殊性:記述の束。一般名で表現される(固有名を必要としない)。
 単独性:記述の束には還元できない、それを超えた固有性。

富士山を例に出そう。富士山が「特殊的」であるとは、それは「静岡県と山梨県に跨またがり」,「成層活火山であり」,「標高が3776mであり」,「高山植物が自生しており」……というように、様々な記述の束の集合が「富士山」であるということを意味する(富士山=[記述1]+[記述2]+[記述3]+…+[記述n])。
一方、富士山が「単独的」であるというとき、それは上記のように分解され得ない。「富士山」は「富士山」であり、富士山が諸々の性質の束として表現されることは許されない(富士山≠[記述1]+[記述2]+[記述3]+…+[記述n])。つまり、ある事物を固有名として示す際、そこにはただの記述の束には還元され得ない、何らかの本質が存在すると考える。

富士山の例が腑に落ちなければ、音楽を例に取ろう。ある音楽はその曲を構成する音の高低や強弱、テンポやリズムといった要素の束である、と考えてよいか否か。
例えば、ショパンの『夜想曲(ノクターン)第2番』は最初の[B♭]から最後の[E♭,G(右手和音)], [B♭,E♭ (左手和音)]に至るまでの全てのメロディースケール、[Andante.(歩くような速さで)]という速度、[12/8拍子]というリズムに要素還元可能であると考えることもできる(特殊性)。
もしコンサート会場を背にした玄人観客にこの曲の良さを尋ねたら、クラシック音楽に関する自前の知識を交えて、上記のような「記述の束」を懇切丁寧に語り出すだろう。

では次のような場合はどうだろうか。場面をJ-popのライブ会場に移そう。アリーナから出てきたばかりの若者の集団が号泣しながら肩を組み合っている。感想を尋ねると、興奮した表情と共にこう返ってくる。「本当に最高だった。全てが言葉にならない」。記述の束に還元され得ない楽曲の「単独性」が姿を現す。


           *


固有名で呼ばれる対象は記述可能か記述不可能か。特殊的か単独的か。
「私」という人間は、私の好きな人は、音楽は、絵画は、森羅万象は、単なる記述の束でしかないのか。
我々があるものを固有名で呼ぶのは、事物の中から如何なる記述を取り除いても還元不可能なものが残るためであると柄谷行人は言い、単独性を擁護する。

いうまでもなく、このことは文学的作品に対してもいえる。[……] 構造主義者が行ったように文学作品の構造への還元は可能であり且つ必要なことである。しかし、それが明らかにするのは、ある種のテクストには必ず還元不可能な何かが残るということである。なぜ、われわれはある種のテクストを作者の名で呼ぶのか。それはロマン派的な「作者」の観念のためではない。構造に還元できないような何かがあるかぎり、そのかぎりにおいて、われわれはそれに固有名を付すほかないのである。

柄谷行人『ヒューモアとしての唯物論』, 講談社学術文庫, 1999年, 26頁.

単独性はその定義からして「記述の束に還元され得ない」のだから、それ以上の考察の余地が無い。単独性は記述的侵犯を許さない。「語り得ぬものについては、沈黙せねばならない」。哲学者ヴィトゲンシュタインの警告が頭をよぎる。

しかし、ここで発想を転換したい。これまでは一貫して、事物のみを対象として・・・・・・・・・・論が進んでいた(「対象Xは単独的である」)。だがこれまでの議論や具体例を振り返ると、対象が特殊的か単独的かを判断する観測者が必ず存在し、事物と観測者の相互関係の中で・・・・・・・・・・・・・・、対象が「単独的である」という判定がはじき出されている。つまり、「対象そのもの」が単独的であるかという問題と、その観測者がそれをどう捉えるかという問題は全くの別問題だ。

富士山自体は特殊的だが、苦労して山頂に到達した登山家にはどんな言葉にも代えがたい単独的な山に映る。ショパンを聴いた玄人は旋律の特殊性に則した評論を行ったが、アリーナで仲間と青春の一ページを刻んだ若者の耳には、どんな曲も単独的に聴こえただろう。単独性は対象そのものに内在する性質ではなく、観測者の脳内で認知された感覚ではないのか(「対象Xは特殊的だが、観測者Yの感覚において単独的である」)。

柄谷行人は単独性に関して次のような例も挙げているが、その末尾には間違いなく観測者の価値判断が介入している。

たとえば、ここに「くろ」という名の猫がいる。特殊性という軸で見れば、「この猫」は、猫という一般名詞の類のなかの一つであり、さまざまな特性の束(黒い、耳が長い、痩せている、など)によって限定されるであろう。しかし、単独性という軸でみれば、「この猫」は、「他ならぬこの猫」であり、どんな猫とも替えられないものである。それは、他の猫と特に違った何かを持っているからではない。ただ、それは私が愛している猫だからである

ibid, 21. 強調は母性ノクターン

単独的であるから愛しているのか、愛しているから単独的なのか。

そのどちらでもない。
「私が愛している」のかどうかは、目の前にいる猫そのものが単独的であるかどうかとは無関係だ。猫自体が単独的なのではなく、その猫を愛している観測者にとってそれが単独的に「感じられる」。対象の方に単独性が存在するのではない。先ほど引用した箇所を再び引く。

構造に還元できないような何かがあるかぎり、そのかぎりにおいて、われわれはそれに固有名を付すほかないのである。

ibid, 26.

「対象の方に単なる記述の束に還元できない何かがあるから、我々は固有名を付す」と柄谷は言う。しかし順序が逆だ。人間にはすべてが単独的に感じられるから、特殊的である事物そのものに単独性を見出す。対象そのものに単独性を見出す論理は、観測者の脳内認知を外界の事物それ自体の性質として把握する誤謬ごびゅうを犯している。

生まれたばかりの我が子を腕の中で抱き、母親は「この子は替えのきかない、かけがえのない存在だ」と思う。しかし腕の中で抱いているのは、水分60%、酸素20%、水素10%、窒素8.5%、カルシウム4%、リン2.5%、カリウム1%の内訳から構成される約3000gの特殊的(=記述可能な)物体であり、そのどこをくまなく調べても「単独的」な特性は存在しない。我が子の存在にはそのような記述の束を超えた「何か」があると、母親の脳が認知を下す。その「何か」の正体とは、紛れもない母親の脳内認知そのものだ。人間が誰かを、何かをかけがえのない存在だと感じる時、それはその存在そのものがかけがえのないものなのではなく、その存在をかけがえのないものだと感じる現象が発生している・・・・・・・・・

「かけがえなさ」が脳内現象であるなら、誰かに対してそう思うとき、そのかけがえなさは実は自分自身の中にあるのだという理解も不正確だ。「脳内現象」とは、あくまでも感覚の最終表出地点が脳内の神経細胞であることを意味するだけだ。あらゆる現象は複数者間の相互関係でしか捉えることはできない。「かけがえなさ」は事物と観測者の相互関係の中で創り出される感覚として了解する必要がある。単独性なる特質をどこかに定立させようとする試みが躓きの元だ。「かけがえなさ」は現象として把握されなければならない。


           *


水の入ったコップにストローを刺すとストローが曲がって見える。曲がったストローに対して驚く大人はいない。今度はそのコップに純金のネックレスを沈める。大きくなったネックレスを見て「金の質量が増えた!儲かった!」などと言っていては失笑ものだ。近くの建物より遠くの建物の方が小さく見える。遠くの家屋を見て、「あの建物はなんて小さいんだ」などと思う人もいない。水中で光線が屈折するメカニズムや遠近法の原理を義務教育の段階で教えられるから錯視が起こっていると理解できる。
しかし、「かけがえなさ」はどうか。記述の束である特殊性がどうして単独的に感じられるのかを、我々は義務教育で教えられない。教えられる人間などいない。現代の科学技術やさまざまな英知を以てしても人間が超えられていない壁がここにある。もしかしたら「かけがえなさ」に関して我々は、遠くの建物の小ささや曲がったストローを見て驚き、水中で肥大したネックレスを見て喜ぶことと同じ謬見びゅうけんを犯しているのではないか。

考えてみれば、冒頭の問いに対して納得する答えが得られないのは当然のことだった。
記述不可能な感覚が脳内に表出するメカニズムを人類は未だ解き明かせていない。しかし、特殊性から単独性への飛躍が、換言すれば量から質への飛躍が、人間が人間たり得ている最後の砦だ。人間の主観までもが、記述の束には還元できない「かけがえなさ」までもが客観的に記述された暁には、心や精神といった概念が消滅する。

人類はこのブラックボックスを開けることができるのか、否か。


1. 本論では「かけがえのない」という言葉を、柄谷行人のいう「単独性」に対応する意味での日常語として用いている。あくまでも記述不可能性を意味するのみであって、「唯一性」を意味するものではない。ちなみに物事は特殊的であろうが単独的であろうが、唯一性を確保することは可能である。くどいようだが、特殊性と単独性が袂を分かつのは「記述可能かどうか」という点においてのみだ。

いいなと思ったら応援しよう!