【物語】テランセラ
こちらは以前noteをやっていた時に、ちゃんと創作がしたいと思って書いたものです。
読んでいただいたことがある方もいらっしゃいますが、改めて掲載いたします。
私は自分でこれを、小説でも脚本でもない何かと捉えています。
強いてカテゴリー分けをするのであれば、ストーリーだとかお話だとか物語とか、そういったものかと。
キャスティング案とか勝手に考えているので、ぜひ脳内で映像化しながらお読みください。
結構長いので、お時間がある時の暇つぶしになれたら幸いです。
※※※※※ ※※※※※ ※※※※※ ※※※※※
テランセラの花言葉・変身
◎登場人物&勝手にキャスティング案
葉山 楓(はやま かえで)
主人公。28歳。女性。高校時代に英語教師である朔也に恋をする。
黒木 華、奈緒
橘 朔也(たちばな さくや)
46歳。男性。英語教師。
西島 秀俊、井浦 新
橘 さくら(たちばな さくら)
42歳。女性。朔也の妻。
深津 絵里、映美 くらら
柳原 望美(やなぎはら のぞみ)
51歳。女性。朔也の姉。
南 果歩、若村 麻由美
福本 香澄(ふくもと かすみ)
28歳。女性。楓のクラスメート、友達。
泉 里香
◎勝手に主題歌案
Official髭男dism「Pretender」
フジファブリック「PRAYER」
1.
【月が綺麗ですね】
有名な一文。
夏目漱石が『I love you.』をそう訳したことは、日本人ならきっと誰でも知っている。
高校二年の二学期が始まった。
9月に入ってもなお残暑が続き、いい加減この暑さにうんざりしてくる。
長い夏休みが終わり、学校なんか行くの怠い!
なんて、私は全く思わなかった。
寧ろ行きたい。
毎日学校へ通うのが楽しいのだ。
その理由は、先生に恋をしていたから。
英語の橘先生。
年齢は36歳。
手がとても綺麗だと思った。
私が先生を好きになったきっかけは、あまり信じてもらえないと思う。
◇◇◇
二年に進級したばかりのこと。
学校をそこまで楽しいものだとは思っていなかった。
かと言ってつまらない訳でもなく、それなりに勉強を頑張り、友達とお喋りして。
ただただ普通の日々を過ごしていた。
そんなある日、廊下で先生とすれ違った。
すると先生が教科書を落としてしまった。
たまたま私が拾える距離にいたので、拾って先生に渡したのだ。
「葉山、助かるよ。ありがとう」
その「ありがとう」の瞬間、教科書を渡す私の手が先生の手に触れた。
触れた箇所から全身に電気が走る。
初めての感覚で、とても戸惑った。
一体今のは何だったんだろう?
そして、なぜ私はこんなにドキドキしているのだろう?
◇◇◇
これが先生を好きになったきっかけだ。
信じてくれる人がいるなら、ありがとうと伝えたい。
初めから叶わない恋なのは分かっている。
教師と生徒だし。先生には奥さんがいるし。
それでも、少しでも一緒にいたくて。
だから私は何度も、授業で分からないところがある振りをして会いに行った。
先生の真面目な顔が好きだった。
笑った顔が好きだった。
意外と冗談を言うところも。
そんな先生のそばにいたくて、何度も何度も。
それが続くと、授業に関係のない話も出来るようになってきた。
私は、こっそり自分の気持ちを伝えられたらいいなって思った。
放課後、先生と私の二人きりの教室。
まだ夕方だが、時々かすかに虫の音色が聞こえてくる。
私は自分の席に座り、机の上に英語のノートを広げる。
左隣の席に先生は座って、私からの質問に丁寧に答えてくれた。
一段落つき、ちょっとした静寂に包まれる。
意を決して、私は夏目漱石の話を始めたんだ。
「…あの、そう言えば夏目漱石って、『I love you.』を『月が綺麗ですね』って、訳したんですよね」
「その話はよく聞くな。でもそれ、実は夏目漱石が言ったとされる証拠が残ってないんだよ」
「そうなんですか?」
何てことだ。
この話を持ち出して、『月が綺麗ですね』を愛の言葉だと先生に印象づけて。
近いうちに「昨日の月、綺麗でしたね」とか遠回しに伝えようと思ってたのに。
教師に恋をした私の苦肉の策だったのに。
「でもそう訳したんだって思ってた方がロマンがあって、俺はいいと思うけどね」
まだ子供な私は、先生の大人な態度が狡いと感じた。
「なぁ、葉山なら『I love you.』を何て訳す?」
「私ですか?」
先生は左手で頬杖をつき、私をまっすぐ見つめる。
先生と私が残った教室の窓が開いていて。
ふわりとカーテンが弧を描くように膨らみ。
そこから涼やかな風がそよいできた。
先生と私の髪の毛が、ほんの少しだけ靡く。
「…私なら、『秋風が心地よいですね』、と訳します」
「秋風?」
「ほら、愛する人と一緒にいたら、嬉しさとか恥ずかしさとかで頬が熱くなったりするじゃないですか。
だから、ひんやりとした秋風が頬に心地いいなって」
「なるほど。すごくいい表現だな」
そう言って先生は優しく笑ってくれた。
2.
それから十年ほど経った現在。
6月下旬。今年もそろそろ梅雨が明けようとしている。
ジメっとした空気が全身にまとわり付き、この不快感はいくつになっても慣れることはない。
私は先生に気持ちをちゃんと伝えないまま、高校を卒業した。
最後に自分の気持だけでも、なんて考えは起きなかったのだ。
私にとって、二人で過ごした思い出さえあればそれで十分なのだ。
そして地元とは離れた大学へ進学。
卒業後はタオルやお風呂関連のグッズを製造している会社に就職した。
ここのブランドの商品に初めて触れた時の感動を忘れられず、商品開発に携われたらと思ったのだが、私の配属先はIT関連の部署だった。
世の中思い通りにいかないことは百も承知だが、殆ど商品と関わることのないデスクワークが度々死にたくなるほど嫌になる。
世の中の大半の人が、報われてる訳ではないのに。
私はまだ、自分が特別な存在でありたいという願望を捨てきれないでいる。
今日も無事に残業を済ませ、深夜まで営業しているお惣菜屋で生姜焼き弁当を購入し、家路につく。
鉄筋コンクリート造のアパートの二階まで階段を上り、自宅の鍵を開けた。
帰宅と同時に着ているものを脱ぎ、下ろしていた髪の毛を一つに結わえる。
今の時期にロングヘアは鬱陶しい。
しばらく美容室に行っていないので、パーマも取れかけていた。
染めてもいないから、余計に重たく見える。
洗面所の鏡にある私の顔に、日々の余裕の無さが丸々と映し出されていた。
一段と疲れを感じてしまったが、簡単にメイクを落とす。
この解放される感覚が、唯一の楽しみだ。
そんな私の元に、地元に住んでいる高校の友達・香澄からチャットアプリのメッセージが届く。
8月の頭にクラス会が開催される予定らしく、その幹事を任せられたとのこと。
地元を離れている私を気遣ってくれてるのか、私の予定に合わせたいらしい。
長いこと地元に帰っていないので、休みを貰ってゆっくり帰省しようかなと考え始める。
最近仕事はどうなのとか、他愛もない会話も同時に進行していた。
そんな中、香澄が[実はさ、]と発言する。
それからしばらく待って、送られてきた文面に表情が凍りついた。
[橘先生、奥さんが病気で亡くなったって。突然のことで、私も最近知ったから楓に話す機会がなくてさ。一応落ち着いてから学校には行ってるらしいんだけど、やつれてるみたい。]
なんて返せばいいのか分からなかった。
ただ、これは私のエゴだけど。
どうしても先生に一目会いたくなって。
私に出来ることなんて一つもないと分かっているのだけど。
それでも、好きな人だったから。
二人で過ごしたあの時間は、とても大切なものだから。
少しでいい。力になりたい。
やっと香澄に返信を送った頃には、生姜焼き弁当が冷めきっていた。
そして私は8月の一週目に五日間の夏休みを取り、地元へ帰ることになる。
◇◇◇
今日は日曜日。
帰ってくるのは三年ぶりだ。しばらく実家に帰る余裕も無かった。
実家へ向かうタクシーの中で、久しぶりの景色に回顧する。
三年前は香澄の結婚式の為に帰省した。
幸せを隠しきれないウェディングドレス姿に、少し嫉妬したほどだ。
私にもその時期に、お付き合いはしていないが、二人でプラネタリウムに行って手を繋いでしまうような仲の男性がいた。
でも自然と連絡を取らなくなり、私もさほど寂しさを感じなかった。
私にとって男性への気持ちは、所詮その程度なのだ。
「ただいまー」
実家の玄関を開け、荷物を全て置き、その重さから解放される。
「おかえり、疲れたでしょ」
母が迎えてくれた。
「まぁね」
母が私の荷物を持とうとしたが、それを制して自分で荷物を運ぶ。
実家を出てから長いこと経っているので、二階にある私の部屋はちょっとした物置と化している。
しかし帰省した時の為にベッド等はそのままで、時々母が掃除してくれているらしい。
私は自室に荷物を置き、ベッドに腰をかけ一息つかせる。
母が冷房を効かせてくれていたおかげで、体温が下がり始める。
窓からは西日が差そうとしていた。
先生の連絡先は香澄に確認したが、元々私が知っている連絡先と変わっていなかった。
地元へ帰って来る前に、久しぶりに先生の元へ顔を出す旨を電話で伝えたかったのだが、五回かけても出ることはなかった。
先生とは数年前まで年賀状を送りあっていたので、住所は知っている。
香澄の話だと引越しもしていないようだ。
突然の訪問、迷惑がられるかもしれない。
下手したらストーカーみたいなものだ。
怖気づきそうになった私は、決意が鈍る前に先生の元へ向かうことにした。
自室を出て階段を下り、知人に挨拶してくると母に声をかけ、車の鍵を借りて家を出る。
予め持ってきていた先生からの年賀状を見ながら、カーナビに住所を打ち込む。
私の実家から車で15分ほどの距離だ。
運転している間、私はずっと頭の中でシュミレーションしていた。
[久しぶりに地元に帰ってきたので、せっかくだから先生に挨拶だけでもと思って]
こんな言い訳の台詞を用意して、先生の自宅へ向かう。
◇◇◇
目的地に一番近いコインパーキングに車を停め、車を降りた。
年賀状の住所を頼りに、先生の自宅を探す。
5分ほど歩くと、広めの敷地に二階建ての一軒家があった。
そこに『橘』と表札が掲げられている。
ここだ。
いざ先生の家の玄関の前に着くと、不安と緊張で心臓の鼓動が速くなる。
チャイムを押そうとする指さえ震えてしまう。
深呼吸して落ち着かせる。
先ほど考えた、会いに来た言い訳を何度も反芻して。
私の人差し指が、チャイムを押す。
心臓の鼓動が更に強くなる。
チャイムからの返答はなく、もう一度押そうかと悩んだ時にドアが開いた。
橘先生だ。
先生は驚いた表情を見せる。
十年の月日が流れているので、流石に少し老け込んでいたが。
柔和な顔立ちは変わらないままだった。
だけど、元々細身なのにやつれてしまっていて。
久しぶりに会えて嬉しいのに、悲しい涙が出そうになるのを堪える。
「先生、ご無沙汰しています。十年前に高校でお世話になっていた、葉山です」
努めて明るく挨拶をする。
会いに来た言い訳も口にしようと思ったその時。
「今までどこ行ってたんだ!」
そう言われて、私は先生に抱きしめられた。
何が起きているのだろうか。
私は混乱のあまり、言葉を発することすら出来なかった。
「怪我してないか?体調は?あぁ、疲れてるよな。とにかく休もう」
先生は私の肩に手を回し、その手に押し込まれる形で先生の自宅へ足を踏み入れることになった。
そのまま私はリビングへ連れて行かれ、ソファに座らされる。
隣に先生も腰をかけ、私の方へ体を向け目を真っ直ぐに見つめられる。
この間も私は訳が分からず、ただただ困惑していた。
「先生、あの…」
「体調は?どうなんだ?」
険しさと優しさが入り混じった先生の表情と声に、恐怖を感じてしまった。
「あっ、大丈夫、です…」
「そっか、良かった。本当に…」
先生が安堵の息を漏らす。険しい表情も和らいだ。
「ゆっくりでいいから。今までどこで何をしてたのか、教えてほしい」
ずっと違和感がある。久しぶりに再会した瞬間から。
先生は間違いなく、私を他の誰かだと思っている。
そしてそれは99%、先生の奥さんだ。
「あっ、えっと…」
私は必死に言葉を探す。
でも、今この場に必要な言葉が何一つ見つからない。
答えを出せずにいると、玄関の方から誰かが入ってくる音が聞こえた。
その足音は先生と私がいるリビングへと向かって来る。
「お客様がいらしてるのー?」
そんな女性の声が聞こえてきた。
先生と私の前に声の主が姿を現す。
先生と似た優しい雰囲気を纏った、中年の女性だった。
「どうも、初めまして。朔也の姉の望美です」
そう言って女性は深々とお辞儀した。
「あっ、初めまして。高校生の時に橘先生にお世話になった、葉山と申します」
私も慌てて立ち上がり挨拶をする。
そんな私の右手首を先生が掴んだ。
「葉山って、誰のことだ?」
ここにいる誰もが、ちゃんと状況を把握出来ずにいる。
「お前は、さくらだろ?」
先生の不安げな瞳と声色。
私はどこかで、残り1%の可能性に賭けていた。
本当は私のことをちゃんと覚えていて、突然の訪問だったから先生はただ混乱してるだけで。
もう少し時間が経てば、昔のように葉山って呼んでくれるはずだって。
でもその1%が、完全に消え去ってしまった。
「朔也」
望美さんは先生の元に寄って腰を落とし、優しく諭すように話しかける。
「ちゃんと、彼女をよく見て。さくらさんではないでしょ?」
先生は立ちっぱなしの私をまたじっと見つめる。
その視線が、とても痛かった。
「いや…。姉さん、さくらだよ。さっきやっと帰ってきて…」
「…そう…」
二人のやり取りに、私はいたたまれない気持ちになる。
来なければ良かった。
私のエゴなんかで、先生の力になりたいだなんて。
そんなこと、思わなければ良かった。
「朔也、久しぶりにさくらさんと話したいことが沢山あるから、ちょっと二人で散歩に行ってきてもいいかな?」
「だからさくらはさっき帰ってきたばかりで、疲れてるんだって…」
「あの!私は疲れてない、です…。お散歩、大丈夫ですよ」
この場から離れたかった私にとって、望美さんの申し出がとても有り難かった。
3.
先生の家を出て、コインパーキングに向かって望美さんと二人で歩き出す。
「ごめんなさいね」
とても申し訳なさそうに謝る望美さんに、
「いえ…」
私はこの一言しか言えなかった。
「朔也の、奥さんのことは知ってますか?」
「…はい、友人から聞いていたので…」
「…その方がさくらさんって名前なんです」
望美さんがとても慎重に言葉を選んでいるのが伝わってくる。
「朔也、まだ立ち直るのにまだ時間が必要みたいで。それで、その…葉山さんのことを、さくらさんだと勘違いしてしまったみたいで…」
「…私も、先生に連絡もしないで突然会いに来てしまったんです。こんな状況なのに、ごめんなさい」
「いえ、葉山さんは悪くないです。謝らないでください。それに、朔也も嬉しいはずですから」
私への慰めとも思える言葉に、望美さんの優しさが込められている気がした。
「さくらさんが亡くなってから、朔也は殆ど寝ることも出来てないみたいで。私も時間がある時には出来るだけ家に寄ってるんですけど、いつも無理してるんですよね」
「先生は、そういう方ですよね」
私は生徒だから当たり前なのだけど、先生の弱った姿を見たのは今日が初めてだ。
それでも、日頃から自分の弱さを誰かに見せる人ではないのだと、ずっと見ていたから分かる。
「ただ…、こんなこと葉山さんに言うのは失礼かもしれないんですけど、少しだけ朔也の目に力が戻った気がします」
望美さんも、義理の妹さんを亡くして辛いはずなのに。
それ以上に、弟である先生を心の底から心配し、支える強さを感じる。
「葉山さんさえ良ければ、朔也が落ち着いた時にまたいらしてください」
「はい。もっと時間を置いてから、また顔出しに来ます」
この私の言葉を聞いて、望美さんはやっと安心したような笑顔を見せてくれた。
「今日は朔也の為に、本当にありがとうございました」
そう言って望美さんがまた深く頭を下げる。
「こちらこそ、先生の顔を見ることが出来て、安心しました。望美さんにもお気遣いいただいて、ありがとうございます」
私も頭を下げる。
望美さんと話している間にコインパーキングに着き、二人で立ち止まる。
「あの、私、本当に先生に何も言わないまま、帰って大丈夫なんでしょうか?」
「そこは気になさらず、私に任せてください。気をつけて帰ってくださいね」
お互いに別れの言葉をかけ、私は車に乗り込み実家へと向かう。
望美さんは最後まで見送ってくれた。
車の中で一人になり、深く息を吐く。
ようやくちゃんと呼吸することが出来た。
先生に久しぶりに会った瞬間からそれほど時間は経っていないのに、全身の重さを感じるほどの疲労が襲ってくる。
夕間暮れ。今日一日の私の心を表しているかのように、少しずつ闇が迫ってきた。
先生が私をさくらさんだと思い込む。
言葉にすると現実味のない出来事だ。
しかし、さっき本当にあったこと。
体にはまだ先生に抱きしめられた感触が残っている。
掴まれた右手首も、ずっとじんじんと疼いている。
先生は、私のことを忘れてしまったのだろうか。
そんなことをグルグルと考えていた。
4.
先生に会った後すぐの金曜日。
私はクラス会へ出席している。
然程田舎でもない私の地元にある、小洒落たレストラン。
そこを貸し切りにし、私を含めた27人のクラスメートが参加していた。
席は適当らしく、私の隣には香澄が座っている。
ワインを飲みながらお互いに近況報告をし、香澄の旦那さんの愚痴を聞いたりしていた。
「楓はあの、何さんだっけ?一緒にプラネタリウムに行ったって人。その人とは今どうなの?」
「あぁ…、あの後すぐに会わなくなったし、今は連絡も取ってないよ」
「何で?」
「うーん、合わない感じがしたからかなぁ」
「好きじゃなかったの?その人のこと」
「いい人だとは思ってたけど、そこまで」
「そっかぁ。まぁ、写真見せてもらったけどさ。楓の好みじゃないもんね」
「別にそういう訳じゃないけど」
「そう?だって橘先生と全然雰囲気が違ったじゃん」
突然先生の名前が出てきて、私は静かに驚いた。
「何で橘先生なの?」
「楓、よく先生と放課後残ってたじゃん。だから好きなのかなぁって」
「そんな訳ないじゃん。英語が苦手だったから教えてもらってただけ」
「テストの点数いつも良かったのに?」
「それは努力した結果」
「ふーん。いつ言ってくれるのかなってずっと待ってたけど、私が勘違いしてただけか」
「そうです」
私の先生に対する気持ちは、誰にも知られたくない。
この前先生の家に行ったことも、勿論秘密だ。
「ほら、楓に話したじゃない?先生の奥さんのこと」
「…うん」
「結構やつれちゃったとか聞いてさ、私も先生のこと心配なんだよね。楓も聞いたら絶対に心配するだろうなって思ったんだけど」
「心配に決まってるじゃん」
「…大丈夫なのかな。私も、もし旦那が突然いなくなったらって考えたらさ」
「…私達には心配することしか出来ないよ」
「そうだねぇ…。お世話になったから、力になりたいんだけどね」
私達に出来ることは何一つないよ。
心の中で香澄にそう訴えていた。
◇◇◇
私の夏休みが終わり、また仕事に追われる日々を過ごす。
同僚も夏季休暇を取るので少し忙しさが増すが、夏休み中の出来事を忘れるにはちょうどいい。
8月も下旬になると、頭の中は仕事のことでいっぱいになっていた。
例年通りに暑い夏を過ごし、心と体は常にバテていて。
そんな仕事終わりの自分を癒すために、ぬる目のお湯に浸かる。
お風呂から上がり、冷蔵庫で冷やしていたノンカフェインの栄養ドリンクを一気に飲み干す。
疲れている時は、この変な甘みがやけに美味しく感じる。
髪の毛を乾かそうとしていた時に、香澄から電話がかかってきた。
タオルで頭を拭きながら、スピーカーにして話し始める。
「もしもし」
「もしもし。遅くにごめんね、今大丈夫?」
「うん、大丈夫。どうしたの?」
「実は今日さ、久しぶりに橘先生に会ったんだよね。偶然なんだけど」
ドキリとしたが、平然を装って話を続ける。
「そうなんだ、どうだった?」
「学校帰りだったみたいで、遅い時間だったからあまり話せなかったんだけどね。思ってたより元気そうだったよ。ちょっとやつれてたけど」
「…元気そうだったんだ?」
「うん。流石に私から奥さんの話をするのは気が引けたから出来なかったんだけど。でも、旦那と一緒に元気にやってるかって、逆に先生の方から気遣ってもらちゃってさ」
あぁ、そうなんだ。
先生、香澄のことはちゃんと覚えてるんだ。
「楓も先生のこと心配してたじゃない?だから、結構元気そうだよって伝えたくて」
「…そっか、よかった。ありがとう」
私は適当に話を切り上げ、電話を切った。
先生と一緒にいた時間は、確実に私の方が長いのに。
私のことは忘れてるくせに。
私をさくらさんだと勘違いしたくせに。
他の生徒のことは、ちゃんと覚えてるんだ。
「…私って、何なんだろ」
気づけば髪の毛は半分ほど乾いていた。
洗面所に向かい、鏡を眺める。
そこには、先生から送られた年賀状に写ってた、さくらさんの顔があった。
少し幼さが残っていて、優しそうで。
明るめのグレージュカラーのミディアムヘアがとても似合っていて。
「…私とは、全然違うじゃん」
先生の中の葉山楓は、一体どこへ行ってしまったのだろう。
もう一欠片も残っていないのだろうか。
◇◇◇
それからすぐの日曜日。9月の頭。
私は誰にも何も言わず、また地元へ帰ってきた。
この数日間、私の中の何かが欠けたような、私が私でないような感覚が続いている。
まっすぐ先生の家に向かう。
多少の躊躇いはあったが、チャイムを押さずにはいられなかった。
しかし心臓は速く脈を打つ。
神様、どうかお願いします。
私は『葉山楓』なんです。
チャイムからの返答はないまま、玄関のドアが開く。
あれから一ヶ月も経っていないのに、また先生の顔を見ることが出来た。
以前よりか、少しだけ肉付きが戻ってきているような気がした。
私は挨拶も言わず、先生の目を見つめる。
「…おかえり」
十年ぶりに見た温かい笑顔で、先生はそう言った。
「…ただいま」
自然と、笑顔で私もそう答えた。
『葉山楓』は、いなかった。
5.
※※※
私はここに来る前から決めていた。
もし、先生の中から『葉山楓』が消えてしまって。
私が『さくらさん』であるのならば、そのままずっと先生のそばにいようと。
だって、『さくらさん』のそばにいる先生の表情が、子供のように安心しきっていて、すごく愛くるしいんだ。
先生を守れるのならば、私は『葉山楓』じゃなくていい。
『橘さくら』として生きる。
私は随分前に準備しておいた退職届を鞄に忍ばせていた。
それを先生の自宅の近くにある郵便局から、会社へ郵送した。
当然会社から電話がかかってくるが、私は「すみません」としか言わなかった。
それから連絡が来ることはなかった。
私は着てきた『葉山楓』の服を捨てた。
『橘さくら』の服のサイズがピッタリだ。
久しぶりに美容室にも行った。
肩にかかるほどの長さまで切り、明るめのグレージュカラーに染める。
私の目にも、『橘さくら』が立体的に映り始めた。
※※※
先生に「おかえり」と言われたその日。
私が『橘さくら』として、先生と一緒に暮らすことになった初日である。
先生はずっと、私がどこで何をしていたのかを気にかけていた。
「少し一人になる時間が欲しくて、何も言わずに実家に帰ってました。家族には、朔也さんから連絡が来ても、いないと言ってって頼んでました。本当にごめんなさい」
私がそう言うと、なぜ一人になりたかったんだ?と聞かれて困った。
答えに詰まっていると、
「…いや、いいんだ。あの時は俺が悪かったから。さくらは何も気にしなくていい。本当にごめん」
そう言われて、喧嘩中だったんだなって察する。
その原因は分からないけれど。
「だから、朔也さんって呼び方はやめて、いつも通りにしてほしい」
『さくらさん』は何て呼んでいたんだ?
分からない。だから当てずっぽうで。
「分かった。…朔也くん」
違っていたらどうしようとハラハラしたが、朔也くんはいつも通りの微笑みを見せてくれた。
その日の夜。
二人でダブルベッドに横になり、朔也くんが私を抱き寄せて優しいキスをする。
「疲れてるなら無理しないでほしいんだけど」
そう言って私を求めてきた。
いや、『さくらさん』を求めてきた。
抱かれている間も、私はちゃんと『橘さくら』でいられているだろうか。
ちゃんと私の心を殺せているだろうか。
そればかりを考えていた。
次第にこれにも慣れていくんだ。
◇◇◇
リビングや寝室以外の部屋。
キッチンやお風呂場などキレイに整頓されていた。
きっと望美さんが家事の手伝いをしてくれたのだろう。
朔也くんや私の書斎もあった。子供がいないから、その分二人の為のスペースが広いようだ。
私の書斎を調べる。
仕事は高校の司書教諭だったらしい。沢山の本に囲まれている。
朔也くんと私の写真も飾られていた。
朔也くんに仕事を辞めたことを伝えなければ。
リビングと庭は通じていて、どちらも日当たりのよい場所になっている。
花壇には、所々色づきつつも青々と茂った植物。
朔也くんや私が水やりをしたからか、葉の表面に残った水滴に日光が反射し、キラキラと輝いている。
これは何という植物なのだろう?
あまり自炊をしない方であったが、朔也くんに食べたいものを聞き、レシピを調べ頑張って腕を振るう。
「味付け変えたの?」と言われることもあるけど、
「その方が飽きないでしょ?」と誤魔化し続けた。
◇◇◇
こんな生活が六日ほど続いた頃に、望美さんが我が家へ訪ねてきた。
望美さんは合鍵を持っているらしく、私が夕飯の用意をしているところに不意に入ってきた。
買い物袋を片手に、望美さんは私を見て驚いている。
「ご無沙汰しています」
私がそう言うと、
「葉山さん…?」
と望美さんが言った。
「ごめんなさい、驚かせてしまって。今お茶を出すので、少し待ってて下さいね」
「いや、それよりも、どうしたんですか…?以前お会いした時とは、全然雰囲気が違っていて…。あと、なぜここに?」
「望美さんには、ちゃんとお話します」
朔也くんはまだ仕事から帰って来ていないので、私一人で対応することになる。
この方が都合が良かった。
冷蔵庫で冷やしていた麦茶を二つのグラスに注ぎ、リビングへ持って行く。
私と望美さんはソファに座り、私はこの一週間のことを話した。
「何でそんなことを…」
そう言って望美さんが言葉を詰まらせる。
「葉山さんにもご自身の生活があるでしょう?こんなことしたって…」
「でも、今朔也くんは幸せそうですから。それで十分なんです」
「そういう事じゃなくてね」
「『葉山楓』の人生はどうするんだってことですよね?いいんです、私も幸せですから」
「そんな…」
望美さんは眉間に皺を寄せたまま、頭を抱え始める。
「そうだ、ずっと望美さんにお聞きしたいことがあって。庭の花壇に植えてある植物の名前、知ってますか?」
望美さんが顔を上げ、庭を見つめる。
「…テランセラって言うの。さくらさんが好きみたいで」
「テランセラですか…」
「あの、花壇の植物の名前すらも知らなかったのだから、やっぱり今の生活は危険です。朔也だっていつ気づくか…」
「テランセラって、『ケ・セラ・セラ』と似てません?」
私がそう言って小さく笑うと、望美さんは何も言わなくなった。
望美さんはしばらく考え込んだ後、
「これからも時間がある時に来ます。葉山さんがご自身の生活に戻れるように、私諦めませんから。とりあえず、今日は失礼します」
と告げ家を出て行った。
◇◇◇
朔也くんと私の生活は順調である。
学校が夏休みを明け二学期が始まり、朔也くんはより忙しそうにしている。
朔也くんが仕事で家を空けている間に私は完璧に家事をこなし、余った時間で本を読む。
たまにある二人の時間では、一緒に映画を観たりする。
朔也くんは『ライフ・イズ・ビューティフル』が好きなことを知った。
今の時期はまだ暑いが、少し遠くにある公園へ散歩に行くこともある。
「お互いそれなりの年齢だから、健康には気をつけないとな」
これが朔也くんの口癖だ。
流石に毎日営みがある訳ではないが、毎晩眠る前に必ずキスをする。
時々「いつもありがとな」って言われるから、それが無性に嬉しい。
そしてぐっすりと熟睡する朔也くんの姿を見て、私も満たされている。
望美さんも度々訪れた。
その度に、優しい口調とは裏腹の強い言葉で説得される。
でも、朔也くんが一緒にいる時は何も言えないようだ。
私のことも『さくらさん』と呼ぶ。
望美さんも、朔也くんに元気が戻ったことに対して感じるものがあるのだろう。
いつか望美さんもきっと分かってくれる。
そして、こんな日々がただただ続けばいい。
◇◇◇
9月中旬。今日は花火大会。
仲秋に観る花火もいいものだ。
動画を観ながら何とか自分で浴衣を着付けをした。
多少のズレがあるが、仕方がない。
朔也くんも甚平に着替えていた。
分かってはいたけど、とても似合っている。
本来の会場とは少し離れたところに、花火がよく見える川原がある。
穴場と言いたいところだが、この近辺の住人には知られている場所なので、それなりに人は集まる。
持参したブルーシートを広げ、二人で座りながら始まりを待っていた。
朔也くんは缶ビールを時々口に運び、美味しそうに喉を鳴らす。
それを眺めていたら手渡してきたので、私も一口貰う。
「美味しい」
思わず漏らすと、朔也くんが可笑しそうに笑った。
そして花火の打ち上げが始まる。
「綺麗だな」
花火の明かりに照らされながら、そう呟く朔也くんの横顔に見惚れた。
「うん、本当に綺麗」
花火の打ち上げが終わるまで、それほど会話をしなかった。
ただ、手はずっと重ねていた。
花火大会の帰り道、朔也くんと歩いていると、後ろから声をかけられた。
「橘先生!」
その声の主は、朔也くん肩を叩いたらしい。
二人で立ち止まり、振り返る。
「ご無沙汰してます」
「あぁ、久しぶり」
「それと…楓?」
この子は福本という子だ。旦那さんと思われる男性も隣にいる。
「楓…だよね?帰ってきてるなら連絡してよー。雰囲気ガラッと変えたねー。あれ、何で二人…」
「初めまして、妻のさくらと申します。主人がお世話になってるようで」
「え?楓…」
「この子は十年前の高校で教えてた福本で、隣にいるのは旦那さん」
朔也くんが私に教えてくれる。
「どういうこと?あぁ、ドッキリ仕掛けようとしてるんだ!そういうの好きそうだもんねー」
私と朔也くんは困惑しながら視線を合わせる。
「ドッキリ…でしょ?」
福本さんも困惑し始める。
「多分、その楓という子とうちのが似てるから間違えたんだろ。辺りも暗いしな」
「えっ…」
「そんなに似てるんですか?楓という子と私」
私はクスクスと笑った。
「…あ、ごめんなさい、失礼します」
そう言って福本さんと旦那さんは去っていった。
「あー、ごめん。福本はそそっかしいところがあって」
「ううん、大丈夫。帰ろ?」
私から手を繋ぎ、家路を辿った。
今日の花火は、絶対に忘れられない。
忘れたくない。
6.
花火大会から二週間ほど経ち、9月も終わろうとしていた。
庭のテランセラの葉も熟し、鮮やかな赤や黄色に染まっている。
朔也くんも相変わらず忙しそうだ。
あれからも変わらない日常が続いていた。
日曜日。
朝から強めの雨が降っている。
テレビの天気予報を見ると、近々台風が上陸するとのこと。
お昼になろうとしている頃に、朔也くんが雨の音で起きてきた。
「すごい雨だな」
リビングから庭を眺め、パジャマ姿の朔也くんが頭を掻きながらぼやく。
「明後日辺りに台風が直撃するみたいだよ」
「そっか…」
※※※
二人でリビングから庭を眺める。
「すごい雨だねー」
「台風来るってさ。さくら、気をつけろよ」
「そっかー、うーん…」
さくらは何か考え込んでいる。
「テランセラに台風対策しないと」
さくらと一緒にホームセンターに出かけ、支柱や防風ネットなどを購入する。
家に帰り、二人でレインコートを羽織って、テランセラの周りを防風ネットで囲った。
「これで少しは大丈夫かなぁ」
「大丈夫だって。さくらは心配し過ぎ」
「だって、この家に住んで初めて育ててるんだよ?子供みたいに可愛いじゃない」
そう言って無邪気に笑うさくらと、結婚して良かったと心から思った。
※※※
朔也くんはボーッと庭を眺めている。
「本当にすごい雨だよね。朔也くん、通勤気をつけてね」
そう話す私の顔を、朔也くんが真顔で見つめてくる。
「どうしたの?」
「…アレ、しないとな」
「あれ?」
「…」
朔也くんが黙ってしまった。
どうしたんだろう。
心配になって慌てて朔也くんの顔を覗き込む。
「どうしたの?大丈夫…」
「さくらじゃない…」
「えっ」
「お前は、誰だ?誰なんだ?さくらはどこにいる!」
朔也くんが感情的に私に詰め寄る。
「私だよ、さくらは私!落ち着いて!」
「さくら!」
私の手を強引に振りほどき、朔也くんは駆け足で家を飛び出してしまった。
靴も履かず、傘も持たずに。
私も慌てて追いかける。靴や傘を気にかける余裕はなかった。
「朔也くん待って!」
「さくら!どこだ!」
朔也くんは周りや自分のことすら見失っているかのようで。
ひたすら私の名前を呼んでいる。
ひたすら私のことを探している。
朔也くんが躓き、膝から崩れ落ちてしまった。
「朔也くん!」
慌てて駆け寄り、ずぶ濡れになった体を後ろから抱きしめる。
「朔也くん、私はここにいるよ?」
「さくら…」
朔也くんの涙が、私の腕に溢れてくる。
雨とは違い、とても温かかった。
「朔也くん、帰ろ…。ね?」
朔也くんの体を支え、家へ帰る。
二人とも雨に濡れたまま玄関へ入ると、この間に家に上がっていた望美さんがリビングから駆け寄って来た。
「どうしたの?!風邪引いちゃうから、とりあえずシャワー浴びて」
朔也くん、私の順番にシャワーを浴びる。
着替えは望美さんに用意してもらった。
朔也くんはシャワーを浴びた後、精神安定剤を飲み、寝室のベッドで休んでいる。
それから私はリビングで、先程の出来事を望美さんに話した。
「本当にごめんなさい、朔也くんが取り乱したのは私のせいです。私が、ちゃんと『さくらさん』になれていなかったから…」
望美さんが私の左手を両手でギュッと握りしめる。
「…あなたはさくらさんじゃない、ずっと楓さんなの。どんなに頑張ったって、さくらさんになれる訳ないじゃない!こんな事はもうやめて。これ以上、誰かが壊れていなくなるのは辛いの…」
望美さんの目から一筋の涙が流れる。
「そしたら、誰が朔也くんを救ってあげるんですか…。誰が朔也くんを笑顔にするんですか?私じゃないと、『さくらさん』じゃないと無理なんです!」
そう声を荒げる私を、望美さんが優しく抱きしめる。
「じゃあ、葉山楓のことは誰が笑顔にするの?」
望美さんのその言葉に、思考が停止する。
「さくらさんはもうこの世にいない。確かにこの世にいるのは、今私が抱きしめてる葉山楓なの」
「だって…、私は…」
「…今日は実家に帰って、お母さんに顔を見せてあげて。私からのお願い」
望美さんにお願いされ、私は家を出た。
◇◇◇
しかし私に帰る場所はない。
『橘さくら』の実家の場所までは流石に分からない。
行く宛もなく、電車に乗る。
すると、母校である高校の最寄り駅に着いた。
何となく、私はそこで降りる。
高校までフラフラと歩き、正門の前に辿り着いた。
雨の降る中、傘を差し佇みながら母校を眺める。
私と朔也くんが初めて出会った場所だ。
朔也くんが廊下で教科書を落として、それを拾ってあげて。
私が朔也くんを好きになった、馬鹿馬鹿しいきっかけ。
少しでも朔也くんと一緒にいたくて、何回も英語を教えてもらって。
この時間が少しでも長く続けばいいなって思ってた。
でも、そこにいるのは私じゃない。
この女の子は、誰だ?
英語の答案用紙が一人一人に返される。
名前を呼ばれ取りに行くと、
「今回も満点。本当によく頑張ってるな」
優しく微笑んでくれた。この笑顔が何よりも愛おしくて。
手にしている答案用紙に目をやる。
100という文字と、少し不器用な花丸。
その横に、『葉山 楓』と書かれている。
そっか、『葉山楓』だ。
この大切な思い出は、全部『葉山楓』のものだ。
「私は、葉山楓だ」
初めて私は泣いた。小さな子供のように。
◇◇◇
その足で実家へ帰った。
母は驚いた顔をしながらも、何も聞かず温かく迎えてくれた。
着ていたさくらさんの服は洗濯し、部屋干ししている。
乾いたらアイロンを掛けよう。
夕飯を食べてお風呂に入り、自分のベッドに横になった。
相変わらず私の部屋は清潔に保たれている。
私は久しぶりに葉山楓として、眠りに就いた。
◇◇◇
翌日。台風はガラッと進路を変え、雨は止んでいた。
さくらさんの服にアイロンを掛け、丁寧に畳み紙袋へ詰める。
私は実家に置いてあった自分の服に袖を通し、日が暮れた頃に先生の家へ向かった。
先生の家へ着くと、電気がついていなかった。
しかしリビングには先生がいる。
窓を開け、外に足を下ろしながらテランセラを眺めている。
その横に私も腰を下ろす。
「…テランセラ、綺麗ですね」
私の存在に気づいていないのか、こちらには目もくれず、返事もなかった。
「私、さくらさんを辞めます。自分の生活に戻ります。なので、もうここには来ません」
相変わらず返事はない。
「ここで先生と過ごした一ヶ月、楽しかったです。とても」
「先生が笑ってくれて、幸せそうで、それがすごく嬉しかったです」
テランセラを愛おしそうに見つめる、先生の横顔が綺麗だ。
「離れるのは正直寂しいです。でも…私は私を生きます」
しばし沈黙が続く。
先生も私も、赤く黄色く熟したテランセラを見つめていた。
涼やかな風が吹き、先生と私の髪の毛がほんの少し靡く。
テランセラの葉も、そっと揺れた。
「…秋風が心地いいな」
その言葉にハッとして、先生の方を向く。
「昔の教え子にな、夏目漱石の『月が綺麗ですね』ってあるだろ?その話をした子がいてさ。その子に、自分なら『I love you.』をどう訳すか聞いてみたんだよ。
そしたら、『秋風が心地よいですね』って」
先生はテランセラから目を離さず、懐かしそうに言葉を紡ぐ。
「美しくてすごくいい表現だなって思ってさ。さくらもそう思うよな?」
私の目から涙が溢れ出して、止めようとしても止まらなくて。
覚えていてくれたことが、嬉しくて仕方ないのだ。
先生の中にはちゃんと『葉山楓』がいる。
たったそれだけで、私には十分だ。
「本当に…すごくいい表現だね…」
さくらさんの振りをして、会話を続けた。
時には笑いながら。
これが本当に最後の、橘朔也と『橘さくら』の会話。
人には、狂うしか仕方のないことがある。
朔也くん、さようなら。
先生、ありがとうございました。
またいつか、葉山楓として会える日まで。
◆
主題歌
Official髭男dism
「Pretender」
フジファブリック
「PRAYER」
キャスト
葉山 楓 黒木 華 奈緒
橘 朔也 西島 秀俊 井浦 新
橘 さくら 深津 絵里 映美 くらら
柳原 望美 南 果歩 若村 麻由美
福本 香澄 泉 里香
脚本・演出 のーこ
◆
元日の朝。外は薄っすらと雪が積もっている。
日差しが雪で反射し、キラキラと輝く。
楓は部屋着の上にダウンを羽織り、自宅を出る。
髪の色は黒く戻り、伸びていた。
吐く息は白い。
アパートの階段を下り、郵便ポストを開けようとする楓。
数枚の年賀状が輪ゴムで束にされている。
その一番上には『葉山 楓 様』と手書きで宛名が書かれた、『橘 朔也』からの年賀状。
楓がこれを目にするまで、あと15秒。
Fin.
後書き
今回「もし私が映画を作るなら」をテーマに書きました。
せっかくnoteをやっているんだし、ちゃんと創作したくなったのです。
正直、恋愛ものを書くのは苦手です。
だって何が面白いのか、書いていて自分では分からないんだもの。
でも以前から頭の中で構成していたものがあったので、それをnoteに投稿する為に文章化しました。
すぐ書き終わるかなぁと思ってたのですが、めっちゃ時間がかかりました。集中したにも関わらず遅筆。
でも集中したおかげで、少しの煩悩とか悩みを忘れることが出来ました。
先ほど話した通り、映像化する体として書き起こしてます。あくまで勝手な趣味の妄想として。
なので勝手にキャスティング案や主題歌案を設定して、私の描いたイメージがなるべくそのまま伝わればいいなと。
Official髭男dism「Pretender」は挿入歌として。さくらになってしまう楓の狂気の、その奥底にある本音を表していると思います。
フジファブリック「PRAYER」はエンディング曲として。朔也に全てを捧げようとした楓が優しさに包まれるようにと、そんな願いを込めて。
私が趣味で書いているものは多分、脚本に近いものです。
でもネットに公開する為に文章に起こしているので、ある程度は描写を細かくしないと伝わりません。
だから少し小説に似てる部分もあるのかもしれませんが、私の描写力もまだまだ未熟で、脚本と呼ぶにも小説と呼ぶにも稚拙で恥ずかしいです。
だからこれは何なんだろう。自分でも分かりません。
とりあえず私はストーリーとか物語と呼んでいます。
私は詩を書いたりするのも苦手で、捻った面白くて素敵な表現というものが浮かびません。
ボギャブラリーもそんな無いし。
だからストーリーの設定や流れで勝負しているところはあります。
頭の中は無限に広がる宇宙で、今まで思いつかなかったことが、別のことを考えている内に連鎖するようにポンっと出てきたりして、それがとても楽しいです。
この「テランセラ」も、初めに考えついたものとは少し違います。
書いている内にここはやっぱこうしようとか、ここはこんな出来事をいれようとか、やっぱこれは削ろうとか、そんなことが沢山出てきて煮詰まりました。
なので、全部書き上げてからでないと投稿出来ませんでした。
本当は区切りのいいところまで書いて投稿したいのですが、そうすると書き直しが出来なくなるんだもの。
そして、これは面白いのか、私自身は本当に自信がないです。客観的に読むことが出来ないので。
でも書いていて楽しかったのは確かです。
もし少しでも面白いとか、何か感じるものを与えられたのなら嬉しいです。
「テランセラ」を最後までご覧いただき、誠にありがとうございました。
私も報われる気がします。達成感。
おまけ
私は移動中とか入浴中とか寝る前にアイデアを思いつくことが多いので、それをスマホにメモする癖があります。
色々書いてますが、これ本来お買い物メモなんですよね。
最早ひらめきメモ。
これ以降もお買い物メモにひらめきがどんどん追加されてました。
ちなみに一回浴槽に水没させてます。しかし無傷。最近の技術ってすごい。
登場人物の名前には由来があります。
楓の花言葉は「大切な思い出」「美しい変化」だったり、基本的に花言葉を元につけました。
朔也は「屰」という字に逆らうという意味があるので、逆行して生きる人物像を表す為に。
望美の名字を最初に考えた時は、木の精霊である木霊からとって、児玉にしました。そしたら新幹線になりました。やめました。
生きる糧にさせていただきます。サポートのおかげでご飯が美味しい。