変わるものと変わらないものと
どうも。
noteお休み中ではございますが、ふとした時に更新するのーこです。
皆さまの記事を全く読んでいないので、この記事を読んでほしいとは言いません。
お休み中の私の記事に関しては、ただの私の日記として捉えてください。
(でも読んでくださる方がいましたら嬉しいです、ありがとうございます)
生まれてこの方33年。
全ての人と同じように、私のーこにも色んなことがありました。
世情がころころと変わるように変わった部分もあれば、子供の頃から変わんねえなって部分もあります。
個人的に大きな変化だなと思うのは、20年前に好きになった人を最近になってようやく忘れられたところでしょうか。
大人になってもずっとその人が心のどこかにいて、忘れても夢に出てきて思い出したりして。
「あぁ、私はまだこの人が好きなんだ」と何度思い知らされたことか。
だけども、この気持ちがただの執着であることはずっと分かっていて。
「あの人も本当は私のことを好きだったのかもしれない」なんていう、ちっぽけな希望的観測に縛られ続けまして。
「んな訳あるか」と己自身をビンタした次第です。
20年変わらずにいた気持ちを、やっと思い出に昇華させました。
なぜ20年も変わらずにいたかって、私が変えたくなかったんです。
20年前のあの楽しかった時間が、私の全てであってほしかったのです。
辛いことがあった時、私はいつもその人を心の拠り所にしていました。
あの時の私はまだ子供で、何も知らないままで、身も心もまぁまぁ綺麗でした。
まっさらで無垢なあの頃の自分に戻りたいと強く願うほど、頭にはその人が現れるんですね。
その人とは中学を卒業してからずっと疎遠なので、私のボロボロな人生を何一つ知らないのですよ。
それが私にとっての救いだったんですね。
まぁそれなりに色んな経験をしまして。
人から見たら、よく生きていられたなって思われるくらいには。
でもそれを人に知られたくないかと言えばそうではなくて、寧ろ知ってほしいとは思います。
ただ、その人にだけは絶対に知られたくないですね。
過去の清いままの私を消さないでほしくて。
言い換えれば、これも一つの過去の栄光に縋ると言いますか。
その人が私にとっての光であり神であり、その人が私の中から消えてしまったら、私は自分の闇に飲み込まれそうでした。
でもね。
これはただの執着だし、自分が盲目的な信者になっていることには気づいてたんですよ。
一応いい大人なのでね。
じゃあ何で最近になって忘れられたかと言うと、元々の私自身が変わってきたからだと思うんですね。
自分にとって自分を変えるということは容易いものではなく、頑固な性格故に変えたくないと思っていた部分もありました。
自分が持つ正義が正しいと信じ、そぐわないものとは交わらない。
心の底から憎いと思う人なんか絶対に許さない。
自分の意志を大切にしたい。守りたい。
さっきのその人のことも然り。
これだけではありませんが、強気な性格からかこんなふうに思っていましたね。
でもいつからか、そうではない私がいることにも気づいてはいました。
人はそんなに好きではないけれど、でも誰かと一緒にいると楽しい。
本当に心の底から憎いけれど、じゃあ全てが憎いかと聞かれればそうでもない(だからこそのダメンズウォーカーかもしれませんが)
一つの物事に対して相反する気持ちを抱いた時って、比重が小さい方の気持ちが実は肝なんじゃないかなって思うんですよね。
私は基本的に0か100で生きてきて、白黒ハッキリつけたい人間です。
そこは今もあまり変わってないです。
でもグレーゾーンが存在していること。
そのグレーゾーンを認めること自体が悪ではないと学んできました。
この辺はやはりね、父の自殺が大きいかな。父の方がもっと0か100でしか生きられなくて、苦しむ姿を見てきたので。
グレーゾーンをただ漂うだけでもいいんだぜってことを知ってもらいたかったですね。
グレーゾーンって白と黒の中間を指すと思うんですけど、白と黒が混ざった状態もそうだと思うんですよ。
好きと嫌いが混ざったグレーゾーン。
何て呼んだらいいか分からない感情。
(若干韻踏んでるし、曲のフレーズにできそう)
黒の中にちょっと白があって、じゃあその白をもっと掘り下げてみてもいいんじゃない?
いつからかは分からないけれど、こんなふうに思った私は掘り下げるようになりました。
逆もまた然りです。
白の中の小さな黒は、「やっぱり近づいては駄目なんだ」と自分を守るために掘り下げたりしますね。
まぁ突き詰めたところで正解がないことばかりなんですけどね。
結局は自分が納得できるかどうか。
悩んで足掻いて苦しんで。苦しみ抜いた結果、私は人や物から離れたり離れなかったりします。
離れるか離れないかの答えを出すために、まずは理解するためのアクションを起こそうとは心がけています。
毎回できている訳ではないけれど。
例えば相手が人であれば、その人が何をどう思って何を考えているのか理解したいなって思います。
自分の感情とかは一旦横に置いておいてね。
自分の感情を一旦横に置かないと、どうしてもフィルターがかかってしまうので。まぁたまに置けない時もあるんですけど。
そして私が思っていることを話します。
私が自分の本音を打ち明ける時、そこにはもちろん私のことを理解してほしいという気持ちがあります。
でもそれ以上に、その人の本心を聞いて理解したいという気持ちが強いです。
まずは私が本心を話さないと聞けないじゃないですか。
そうして誰かの本心を聞いた時、自分の感情は一旦横に置いてあるので「なるほど!」と気づかされることが多いんですよね。
そういう考えもあるんだなって。
結果、離れなくて良かったなって思うことが多々あります。
なぜなら、自分の感情のフィルターがかかっていたせいで勘違いしていたことばかりだからです。
『人の本心はどこまで突き詰めてもその人にしか分からない』という私の信条みたいなものがあるんですけど、普段からこれを心がけていてもやっぱり勘違いしてることが多い。めちゃくちゃ多い。
そんな時は心の中で「すみません!」と土下座してます。
あと、私は人の言葉で傷つくってことが基本的にありません。
だからこそ余計に誰かの本心を聞きたくなると言いますか。
良いことも悪いことも、その内容が私が傷つくようなことだとしても教えてほしいなって。まぁ殆ど無傷なので。
その方が嬉しいんですよ。
「あなたという人間をもっと教えて!」って尻尾振りますね。
私はまだまだ未熟者です。
人から学ぶことばかりです。
だからどんどん教えてほしいなって思います。
いつからかは分からないのだけど、こう思うようになったから私は変わってきたのだと思います。
だからと言って、根本の『◯◯子(本名)』が消える訳ではありません。
そもそもですね、私は透明人間なんですよ。前回の記事にも書いたんですけど。
自分でも自分の色が分からん。だから何色にもなれる。
この透明人間が私です。◯◯子です。
ここはこれからもずっと変わらないと思ってますし、それでいいと思ってます。
昔はよく「無個性でどうしようもねえ」って嘆いてたんですけどね。
これも変わったところですね。
多分透明人間な自分を好きになれたんでしょうね。
変わるものと変わらないもの。
両方あっていいのだ。
最後に。
まぁ、みんなそれぞれあると思います。
モヤモヤしたものを抱えていたりね(憶測なのはごめんね)
私はそのどれもが間違ってるとは思わないです。ただ、私が口を出すのは違うかなとは思ってます。
でも、思ってることはお互いに伝え合わないと何も理解されないしすることもできないよ。
もしかしたらみんなが、お互いに勘違いしたままかもしれないよ。私も含めてね。
流動的なものだから、これも一つの形なのかな。
みんなが楽しくいてくれればOKなんで、のんびりね。
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