二人称 #2
以前は音楽もやっていた。音楽をやっていた、なんて言えないくらいの音楽。ギターを持って、曲を作って、道端で歌ったくらいのやつ。
題材になるのはその時々の自分。想いの丈のまま、自由に。楽しい事も、苦しくて悲しいことも全てだ。その時は良かった。溢れるものを表現していれば、それこそが正しいのだと、
そう思っていた。決して間違っていた訳ではない。だってその行為が必要だったから。
しかし、だんだんと歌う事が辛くなってくる。イントロを弾き、息を吸って歌い出す。情景が流れ、時間が戻る。目の前にいるお客は違う時間の人に変わっていた。
しかし、一度演奏が始まれば、終わるまで止める事はできない。
やがて私は、音楽から遠ざかった。
音楽から遠ざかった、なんて言える音楽ではなかったんだけど。全く本当に。
「暗くなってきたな。まだ撮るの」
「ん、なんだっけ」
「だいぶ日が落ちたけど、まだ続けるの。」
「あぁ、もう少しね。」
考えの先に立っていると、他の音が潜り込んでしまうのは、私の悪い癖だ。妻にもよく注意される。
もう空の明るさと呼べるものは、どこかに一部あるだけ。ここから、私はカメラの設定を少し変更する。ISO感度を400から800に。シャッタースピードを1/125から1/60に。
街灯が当たる路樹の肌、路地の出口の先を車のヘッドライトが照らしている。家、家のドアとビルの窓、窓。
カシャカシャ、、、、また少し変えてカシャカシャ。
変化と呼べる程のものではない。何か、周囲の温度に改めて気付いたくらいの事。
出てくる絵に違う感覚を覚えた。なんだろう、心地良い。いや、居心地が良い。
カシャカシャ、、、、。やっぱりだ。
「どうかな、ちょっとわかってきた、もう少しやれそうだ。」
彼は「あぁ。」と言ったきり何も言わないで前を向いている。
音楽は、私とギターと曲で「私」を示した。
それゆえに、自分の傷口をいつも確認することになった。何度も絆創膏をめくって、かさぶたを見るみたいに。
そしてギターを置いた。
でも写真は、私とカメラとその絵で、「何か」を示す。何か、がわかる事はおおよそないだろうけど、そこに向かいたいとする、向かい合おうとする自分、はわかる。
彼は今でも私と一緒に何かを探している。
冒険ほど、カッコよくない。でも不毛な探し物とも違う。もう、6年くらいになるだろうか。
私は撮影の形も被写体も、以前とは変化が見られる(進化であると嬉しいんだけど)。
しかし、彼に変わりはない。オートフォーカスはレンズによって迷うし、ISOを上げればまだノイズが目立つ。SDカードは使えないし、シングルスロットだ。Nikonのミラーレス初代機はあまりにも実験的で、野生的である。
いや、全く変化がないなんて、いくらなんでもひどい発言だった。訂正する。
彼は今では言うようになった。
カシャ、、、、「まぁ、そうだな。」と。