【連載#19】教えて!アヤノさん〜青葉大学バスケ部の日常〜
第十九話 信頼している訳じゃない
夕方から降り始めた大粒の雪はあっという間に記念講堂の庭を真っ白に染めた。
傘を持っていなかったタケルは、マウンテンパーカーのフードを被り、小走りで文系キャンパスから記念講堂まで移動した。
「いらっしゃいませ。あ、タケルくんか。降ってきたねえ。こりゃあ積もるよ」
記念講堂内にあるカフェ・アマデウスの店員、日下部ニコルは店の入り口で雪を払うタケルを見ながら言った。
「アヤノさん、もう来てますか?」
「アヤ? まだ来てないけど。今日はカフェデートかな?」
「違いますよ。バスケ部のミーティングです」
「ああ、そうですか。そういうことにしておくよ。ご注文は?」
ニコルは店の奥、芝生の広場が見える窓際の席にタケルを案内し、お冷をテーブルに置いた。
「じゃあ、ブレンドをお願いします」
「かしこまりました」
ガラス越し、雪が音もなく芝生の上に降り積もる様子をタケルは眺めた。暖かい店内にはゆったりとしたピアノの音が流れている。
「お待たせしました。ブレンドです」
コーヒーをテーブルに置いた流れでニコルはタケルの向かいに座る。
「アヤとケンカでもした?」
「え?」
「これから楽しいひとときを過ごそうとしている顔じゃないからね」
「ケンカなんかしてません。第一、ケンカする理由がないですから」
そう言ったタケルの顔を見たニコルは腕組みをして首を傾げる。
「タケルくん、アヤに似てきたかもね」
「そうでしょうか。おれには全くそう思えませんけど」
「いいや。似てる。特にその『あなたには関係ないから話しかけないでください』みたいな雰囲気とか」
「やめてください。ニコさんだってそういう気持ちになることだってあるでしょう?」
「まあ、それはね。でも最近のアヤを見てると、いろいろ溜め込んでいるのかなって思うところがあってさ。今のタケルくんの顔も同じように見えるんだよ」
黙っているタケルにニコルもそれ以上何も言わず席を立った。
庭の街灯が点く。街灯の光で宙を舞う雪の影が窓ガラスに映りこんだ。タケルがコーヒーを半分ほど飲み終えたところで入り口の鐘が鳴る。
「お待たせして申し訳ありませんでした」
少し息を切らせてアヤノがタケルの向かいの席についた。アヤノはお冷を運んできたニコルにブレンドを注文する。
「お呼びだてしてすいません。部活のことでアヤノさんに訊きたいことがありまして」
息を整えながら頷いたアヤノは、お冷を一口飲んだ。
「今日、寺澤と話をしたんです。それで――」
「再構築の話ですよね」
アヤノがタケルの話を遮るように言った。
「秘密にしていた訳ではないのです。いずれ三年生にも話すつもりでした」
「それでも、おれには事前に話してくれても良かったんじゃないですか?」
タケルの声が店内に響く。アヤノの切れ長の目がほんの一瞬大きく開いた。
「ブレンドお持ちしました……って、ちょっとタイミング悪かった?」
ニコルが申し訳なさそうにコーヒーをテーブルに置き、いつもはピンと伸ばしている背中を少し丸めてカウンターに戻った。
アヤノはコーヒーカップを持ってゆっくりと口に運ぶ。
「私が変えたかったのは三年生の意識です。もちろん、そこには主将の菅野くんも含まれます」
「インカレを目指すにあたって、おれたち三年の意識改革が必要ってことですか?」
「そうです。菅野くんは今のチームに足りないものがなんだかわかりますか?」
「……体力、技術、メンタル。足りないものばかりだとは思ってますけど」
「それもそうですが、それ以前に足りないものがあります。決定的とも言っていいものが欠けています」
少し考え込んだタケルから答えは出なかった。
「欠けているのは、覚悟です」
「覚悟……」
「このままではインカレに行くことは難しいと、私はこの前のミーティングで話しました。そのためにチーム力を底上げしたい、三年生にリーダーシップを取ってもらいたいと」
「はい。確かにそう言ってました」
「私は意志の力っていうものを信用してないんです。覚悟を決めてくださいと言われてできるなら何の苦労もありません。それ相応の環境作りが必要だと考えています。私が寺澤くんたち二年生に言っていたことは、その環境作りの一環です」
アヤノはタケルの目を真っすぐ見つめて言った。
「菅野くん。あなた自身も変わりたいと言っていましたよね。そのために私たちは契約を交わした。部活と菅野くん個人の話は別物だと言うこともできますが、決して無関係ではない。菅野くんはバスケ部の主将です。あなたの覚悟次第で全てが変わります」
タケルは身じろぎ一つせずにアヤノの話を聞いていた。
「私が変える。そう決めたんです」
「アヤノさんの気持ちは分かりました。でも、それはチームがアヤノさんを信頼していることが前提の話ではないですか?」
「菅野くんは、私が信頼されていないと言いたいのですか?」
「全員の話を聞いたわけではないので、それは何とも言えません。それこそ憶測の話になってしまいます。ただ……」
アヤノはタケルの目を見つめたままタケルの言葉を待った。
「ただ、おれ自身がアヤノさんを全面的に信頼している訳じゃないことは確かです」
アヤノはテーブルの上のコーヒーカップに目を落とし、しばらく間、目を閉じたままでいた。
無言で向き合う二人の席にニコルが歩み寄り、お冷を注ぎ足す。他の客は全員店を出ている。閉店の時間が近づいていた。
冷めたコーヒーと飲み干した二人は、それぞれ会計を済ませて外に出る。
大粒の雪は地面だけでなく、木々に囲まれた庭園の空間そのものを埋めてしまいそうな勢いで降り続いていた。マウンテンパーカーのフードを被って一歩を踏み出そうとしたタケルは、アヤノに右手を掴まれて引き留められる。
「途中まで一緒に行きましょう」
アヤノは真っ黒な傘を開きタケルに入るよう手招きをする。「すいません」と言ってタケルはアヤノの傘に入った。湿った雪が傘からはみ出た二人の肩を濡らした。タケルはアヤノから傘を受け取り少しだけ身を寄せる。足元に積もるシャーベット状の雪が二人の歩みを遅くする。大橋を渡り、西公園通りの交差点に向かう坂の途中でアヤノが立ち止まった。タケルの右腕に触れていたアヤノの左腕が離れる。
「菅野くんは何かを本気で手に入れたいと思ったことはありますか?」
傘を持ったままタケルは黙っていた。アヤノの黒髪に白い雪が落ちていく。
「何かを本気で手に入れたいと思うのなら、なりふり構っていられないときがあるんです。今の私は、まさにそんな状況なのかもしれません」
アヤノはそう言って一人で坂を上り始めた。反応が遅れたタケルは速足で追いつき、坂の上の交差点で止まったアヤノを傘に入れる。信号が青になるとアヤノは「私のうちのほうが近いので」と言ってタケルに傘を預けたまま逃げるように自宅の方向へ駆けて行った。
タケルは傘を差しながら片平丁方面へ歩みを進める。上半身はほとんど濡れなかったが、靴とズボンの裾は雪でひどく濡れていた。
自宅アパートに着いたタケルは、夕食の前に風呂を沸かし、狭いユニットバスに縮こまるように浸かる。冷え切った足が徐々に温まり、鈍った思考も少しずつ回復していく。
風呂から上がってスマホを見ると着信履歴があった。それを見たタケルはスマホの画面を伏せるように机に置き、夕食の準備にとりかかった。
夕飯を食べ終える頃、机の上のスマホが震える。スマホを手に取ると画面には『菅野メグミ』と表示されていた。