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【連載#26】教えて!アヤノさん〜青葉大学バスケ部の日常〜
第二十六話 もう少し一緒に
「春のリーグ戦までに復帰できるでしょうかね?」
仙台市内にある整形外科の病室で、タケルがアヤノに訊く。
「ニコさんが言うには、復帰まではどんなに早くても半年はかかるって話です。目指すなら秋のリーグ戦になるのではないでしょうか」
タケルのケガは左足の前十字靭帯断裂だった。前十字靭帯は切れてしまうと自然治癒することはないため、他の腱から移植する再建手術を行うしか元に戻す方法はない。タケルはアヤノの高校バスケ部の先輩である日下部ニコルから再建手術ができる整形外科を紹介してもらった。ニコルも大学時代に前十字靭帯を断裂して、この病院で再建手術を受けていた。
タケルがケガをした試合、青葉大学は2度のオーバータイムの末に3点差で安芸大学に敗れた。目標だった3位以内には入れなかったが、インカレ常連校と対等に渡り合ったことは、チームにとって大きな自信となった。
「菅野くんのお母さん、来ないんでしたっけ?」
「いや、手術が始まるまでには来るって言ってたんですけどね。うちの母親、そういうところいい加減なんです」
手術の開始は10時からだったが、5分前になってもタケルの母親は姿を現さない。
「菅野さん、そろそろお時間です。車椅子を準備しましたので、手術室までお願いします。あ、お姉さんでしょうか? 車椅子を押していただけますか?」
「はい。分かりました」
アヤノは看護師の言葉を否定することもなく、車椅子に乗ったタケルを手術室まで押していった。
「こんなことまでさせてしまって申し訳ないです」
恐縮するタケルにアヤノは首を振る。
「コーチとして、私にも責任があると思ってますから」
「おれがケガしたことに対する責任はないですよ」
「いえ。そこは私の気持ちの問題です。入院中からリハビリまできっちりお付き合いさせていただきますから。では、ご武運を」
「ご武運なんて大げさです」
タケルを送り届けたアヤノが病室に戻ると、そこに小柄な中年女性が一人立っていた。
「あの、菅野……タケルくんのお母さんですか?」
「ええと、あなたは……」
「私、バスケ部のコーチをしております中村アヤノと申します。はじめまして」
「はじめまして。タケルの母の菅野メグミと申します」
誰もいない病室で二人は改まって深いお辞儀を交わした。
「ここでずっと待つのもなんですから、カフェスペースでお茶でもしながらお話でもしましょう。さあ、行きましょう」
返事を待たずにスタスタと病室を出て行っったメグミを、アヤノは速足で追いかけた。
カフェコーナーでカップのブラックコーヒーを買った二人は、真っ白なメラミン化粧板のテーブルに向かい合って座った。
「わざわざ息子のために付き添っていただきまして、ありがとうございます」
「いえ、コーチとしての責任がありますので」
「コーチとはいえ、そこまで責任を感じる必要もないと思いますよ。あ、ええと中村さんでしたよね?」
「はい」
「タケルとはどんな関係なんですか?」
単刀直入なメグミの質問にアヤノは即答できなかった。
「いえ、別に良いんです。ただ、こうして手術にまで付き添ってもらうぐらいだから、それなりに近しい関係なのかなと思って」
「ええと……そうですね」
歯切れの悪いアヤノの返事を気にすることなくメグミは話を続ける。
「中村さんはタケルから、あの子の妹のことを聞いたりしてます?」
「はい。昨年お亡くなりになられたと」
「ええ。レミと言う名前なんですけど、生まれた時から心臓に疾患があって、私がずっと付きっ切りで面倒を見ていたんです。タケルとレミは年子だったので、タケルは小さい頃から何でも一人でやろうとしてきました。なるべく私に迷惑をかけないように、ということを考えていたのだと思います。だからタケルに良い人ができるのならば、お互いに頼りあえる関係を築いて欲しいなって思っていて……。あ、ごめんなさいね。急にこんな話をして」
「全然かまいません。むしろ、タケルくんのことを知ることができて嬉しく思います。私の方がタケルくんよりも年上ですが、いろんな意味で私はタケルくんに支えてもらっているんです」
アヤノは紙のカップの中で揺らぐ黒い液体を見つめながら話を続ける。
「私はタケルくんともっと親しくなりたいと思っています。でも、タケルくんが私と同じ気持ちなのかどうかは分かりません。歳を重ねたからって、相手の気持ちが分かるようになるわけじゃないんですよね。好きな人が自分をどう思っているのかなって不安になる気持ちは、10代の頃と何も変わりません」
目を伏せがちにして話すアヤノをメグミはじっと見つめる。
「そうね。私はもう恋をする気持ちなんて忘れかけていたけど、中村さんの言う通りだと思う。他人の心の中なんて分かるはずもないもの。でも驚いた。私はてっきりタケルが中村さんのことを好きなんじゃないのかなって思ってたから」
「そうであって欲しいですけどね」
そう言って寂しげな笑みを浮かべるアヤノに、メグミは優しく話しかける。
「会ったばかりだけど、中村さんは真っすぐな心を持ってると思う。男を見る目はないけれど、女を見る目はあるのよ、私。先のことは分からないけど、中村さんとタケルが良い関係を築けることを願っている」
それからメグミはアヤノにタケルが小さい頃のエピソードを時間の許す限り話した。一つのエピソードがまた違うエピソードを芋づる式に引っ張り出してきて、メグミの話は止まることがなかった。気がつけば手術終了予定時間が迫っている。場所を手術室前のベンチに移してからもメグミは話を続けた。
手術中の表示灯が消え、ストレッチャーに乗せられたタケルが中から運び出される。全身麻酔から目覚めたばかりで目は虚ろだったが、意識ははっきりしているようだ。メグミとアヤノの顔を交互に見ながら、何か言いたげな表情をしている。
「手術は問題なく終わりました。これから麻酔が切れてきますので、徐々に痛みが出てくるでしょう。術後は膝の腫れがすごいですけど、それも少しずつ引いていきます」
顎髭の生えた医師から病室で説明を受けたメグミとアヤノは医師にお礼を言った。30分ほど時間が経つと、タケルは普段どおりの様子になった。
「母ちゃん、息子の手術に遅刻するってどだなだず」
「そんな、いつものことだったな。中村さんがいるんだから、お母さんはいないほうが良かったんじゃない?」
「それとこれは別だろうよ。すいませんアヤノさん。こういう人なんです」
二人のやり取りを見ていたアヤノは嬉しそうに微笑む。
「いいんです。私、メグミさんとお話しできて本当に良かったと思ってますから」
「そうよねえ。私も中村さんのこと大好きになっちゃった。また連絡するわね」
笑い合うメグミとアヤノを見てタケルが怪訝な表情を浮かべる。
「じゃあタケル。お母さんはもう帰るから。じゃあ、中村さんあとはよろしくね」
「はい。お任せください」
「アヤノさん、そんな安請け合いしなくても良いんですよ」
「いえ、メグミさんと話して私の決意はますます固くなりました。ご心配なく」
「二人で何を話したのか、不安しかありませんよ。あ、ヤベェ。膝が疼いてきた」
メグミは病室に残る二人に手を振って帰って行った。
病室にはベッドが4つあったが、タケルの他に患者は誰もいなかった。窓側のベッドで寝ているタケルの隣でパイプ椅子に座るアヤノは、窓から見える快晴の空を見つめる。タケルは外を見つめるアヤノの横顔をじっと見ていた。ふとアヤノが顔をタケルに向け、二人の視線が交わる。
「あの、アヤノさん……」
「はい」
タケルはアヤノから視線を外す。
「もう少し、一緒に居てくれますか?」
アヤノはゆっくりと瞬きをして答える。
「当然です。責任がありますから」
誰もいない病室で二人は小さく声を出して笑った。
それから二人は言葉を交わさず、窓から見える空が徐々に橙色に染まっていく様子を眺め続けた。
空が藍色に満ちた頃、眼を閉じて寝息をたてるタケルの左頬に軽く手を触れたアヤノは、耳元で「おやすみなさい」とささやいて病室を後にした。
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