【連載#10】教えて!アヤノさん〜青葉大学バスケ部の日常〜
第十話 体で払ってもらうから
十二月に入って朝晩の冷え込みがいちだんと厳しくなった仙台市内、朝七時。飲み会から帰ってきて、着の身着のままでベッドに倒れこんでいた青葉大学体育会女子バスケットボール部二年で副主将の上野ナギサは、羽毛布団を体に巻き付けた状態で目を覚ました。
「んん。あー。頭痛い」
ずいぶん飲んだ記憶はある。飲み会の終盤は、先輩の小笠原ノアと高橋ツムグの出来立てカップルを、男子部の二年生たちと一緒にキャーキャー言いながら冷やかしたのも覚えている。その前は何をしていただろうか? 処理速度が低下した脳みそを無理やり回転させて記憶を辿った瞬間、自分でもはっきりと分かるくらい顔から血の気が引いた。そうだ、男子部のコーチである中村アヤノにずいぶん絡んだのだった。
「しまった……またやってしまった」
ナギサには、少々酒癖が悪い自覚があった。それは同じ女子バスケ部のみんなからいつも注意されていること。ナギサはいつもどおり、しっかりと後悔した。すっかり目が覚めてしまったナギサは枕元に置いてあるスマホを見る。ロックを解除すると、昨晩届いていた中村アヤノのメッセージが表示される。
「……マジでヤバいかも」
アヤノの敬語が恐怖を煽る。ナギサは体育会女子の上下関係を、高校時代に嫌と言うほど経験してきた。これ絶対ヤバいやつ。ナギサの動物としての本能がそう訴えている。ナギサは布団に包まったまま実家の母親に電話をした。
「あ、ママ? ちょっと相談があるの。うん、そう。命の危機」
ナギサが状況を説明すると、ナギサの母親は取りあえず約束の場所に早めに行くことと、菓子折りを持っていくようナギサにアドバイスした。そして、真摯に無礼を詫びること。ナギサは日本暮らし25年になるイタリア人母の言うことをしっかり守ることにした。
午後2時半。ナギサは仙台市内の老舗デパート『藤崎』で購入した高級羊羹を持参し、青葉大学記念講堂内『カフェ・アマデウス』の入り口で待機していた。スラっと背が高くて整ったエキゾチックな顔立ちの女の子が姿勢を正して微動だにしない。緊張しきった様子のナギサにカフェの店員である日下部ニコルは声をかけられないでいたが、居たたまれなくなって声をかける。
「あのー。待ち合わせだったら、お席に座ってお待ちになっても大丈夫ですけど……」
ニコの声にビクッと反応したナギサは、恐る恐るニコの顔を見てハッとする。顔の位置が、自分と一緒、いや、少し自分よりも背が高いように見える。
「えっと、あの……。背、高いですね」
ナギサは咄嗟に背の事を聞いてしまったことに慌てた。
「ああっ、ごめんなさい! 初対面なのに、失礼なことを……」
「ううん、全然かまわないですよ。私もあなたのこと、そう思っていたから。あなた、もしかしてバスケ部の子?」
「え、はい。この大学の女子バスケ部です」
「やっぱり―。じゃあ、ノアちゃんのチームメイトだね」
「ノアさんの知り合いの方なんですか?」
「うん。前に男子部の菅野くんと一緒に来たことがあってね。そんなことより、席で待ってなよ。待ち合わせなんでしょ?」
ニコはそう言ってナギサを窓際のテーブルに案内する。
「緊張しちゃって。もしかして男の子と待ち合わせ?」
「いえ、違います。先輩、というか、コーチの方と。その方は女性です」
「お、ということは、待ち合わせの相手は中村アヤノだな」
「あ、はい。どうしてそれを?」
「へへ。カフェ店員はなんでも知ってるのだ。今、お冷もってくるから」
テーブル席に座ったナギサは、初めて来たカフェの店内を見回す。座った席の正面には、直線で構成された四角形に、青、赤、黄で着色された抽象画が飾られている。
「モンドリアン……」
文学部のナギサは、西洋美術史の授業で知ったオランダの画家が描いたこの絵を覚えていた。ナギサの母親はイタリア人だが、西洋美術に興味がなかった。日本に来た理由も、彼女が日本のアニメをはじめとしたサブカルチャーに興味があったからだ。母親の影響で、ナギサも小さいな頃からどっぷりと日本のアニメや漫画を見て育った。高校生になってからは、日本文学に興味を持ち、その興味の延長として文学部に入ったのだ。自分のルーツとも言える西洋の文化を日本の大学の授業で知ることになるというのも、少し可笑しなことだな、とナギサは思っていた。
「抽象画に興味あるの?」
お冷を持ってきたニコがナギサに話しかける。
「いえ、それほど。どちらかと言うと、私は日本文学に興味がありますので」
「そうなんだ。私は絵画とか文学とか難しいことはダメなんだよね。やっぱり、体を動かすことが性に合ってる。あ、ごめんごめん。自己紹介忘れてた。私は日下部ニコルっていうの。アヤノの高校の先輩だよ。ニコって呼んで。よろしく!」
「私は女子バスケ部副主将の上野ナギサです。二年生です。よろしくお願いします」
「はい、ナギサちゃんね。あ、ナギサちゃんコーヒー飲める?」
「はい」
ニコはちょっと待ってね、と言ってまたカウンターに帰って行く。数分すると、エプロンを外したニコがお盆にコーヒーカップ二つとチーズケーキ二つを乗せてナギサのテーブルに来て、そのままナギサの正面に座った。
「私、そろそろ上がりだから。一緒にお茶しましょ。これはお近づきのしるし」
ニコはナギサの前にコーヒーとチーズケーキを置く。
「そんな、悪いです」
「ご馳走されるの、気分が悪いかな?」
「そういう意味では……」
「気にしないで。たぶん、これは売れ残っちゃうやつだから」
「そうですか。すいません、じゃあ、いただきます」
二人はチーズケーキにフォークを入れ、少しずつ口に運ぶ。窓から差し込む初冬の穏やかな日の光を体に受け、ナギサの緊張も大分ほぐれていた。
「ニコさんも、バスケお上手なんでしょうね」
ニコはチーズケーキを口にしながら、目を少し大きく開いて軽く頷く。
「これでも一応、インカレ経験者だし」
「すごい! ポジションはセンターですか?」
「そうだよー。なかなか私より大きい女子はいないからね。184cm」
ナギサも自分より大きな女子にはめったに出会えない。しかも、目の前のニコは金髪でモデルのような顔とスタイル、そして洗練された服装。言葉にはしなかったが、ナギサは少し興奮していた。
「ナギサちゃんは、背が大きいことで悩んだりしてる?」
「はい。悩んでばかりです」
「そうか。ナギサちゃんはまだ自分に自信がないんだね」
ナギサは少し驚きながらも小さく頷く。
「背が高いことで悩む。それは自信がないから。わかるよー。私もそうだったから」
「そんな、ニコさんはそんなに素敵なのに? バスケだって、相当上手なんでしょう?」
それを聞いたニコは、ハハハと大きな口を開けて笑った。
「今は、もうこの背の高さに慣れただけ。私もナギサちゃんくらいの歳のときはすごく悩んでた。バスケだって、背が高いだけで鈍くさいとかみんなに陰口言われてさ。お洒落な服も着れなかったし、自分より小柄な男の子を好きになったりしても、身長を言い訳にして告白できなかったり」
ナギサには、自信に満ちて見えるニコが自分と同じような悩みを抱えていたということが信じられなかった。
「ニコさんはどうやって自信をつけたんですか?」
「うーん、難しい質問だねえ。自信をつけたっていうより、自信はあとからついてきた感じかな。いや、それも違うな。何だろ?」
ニコはしばらく天井を見たり床を見たりして考えこむ。
「あ、これだ。背が高いことを認めて、諦めた」
「諦めた?」
「そう。諦める。諦めるとね、それまでの悩みがどうでも良くなるんだよ。もう、自分は自分でしかないから、この自分でどうにか上手くやっていくしかないって。そう思った瞬間から、私は私らしく、自信を持って生きるようになった。と思ってる」
ニコの言葉にナギサは素直には同意できない。ナギサ自身はまだそこまで割り切れない。
「ナギサちゃんも、きっとすぐに分かる。今だって私にはナギサちゃんがすごく素敵な女の子に見えている。そのことにナギサちゃん自身が気がついていないだけ。自分のことって自分が一番見えてなかったりするしね」
家族以外でこれほど真っすぐ自分を素敵だと言ってくれた人はいなかった。いや、そう言ってくれていたとしても、ナギサ自身がそれを受け入れてなかっただけかもしれない。優し気に微笑むニコの目に、ナギサは吸い込まれそうになっていた。そのニコの目線が、スッと逸れて、ナギサの背後に向けられる。
「こんな感じでどうかな? アヤ」
ナギサが振り向くと、そこには黒いタートルネックに黒のロングスカート姿の中村アヤノが優雅にコーヒーを飲んでいた。
「さすがニコさん。私の先輩だけあります」
「偉そうに。その服だって、私が全部コーディネートしてやってるんだからな」
「はい。いつもいつもありがとうございます」
アヤノは席を立って、ナギサたちの座るテーブルに移動する。
「と、いうことでナギサさん。ニコさんからの助言はいかがでしたか?」
「えっと、あの、もしかしてこれが今日、私を呼び出した理由なんでしょうか?」
ナギサは半信半疑でアヤノに聞いた。
「はい。やっぱり、同じような境遇の方に相談するのが一番だと思いまして」
「本当はアヤが来てから相談を始める予定だったんだけどね。私が先走っちゃった」
ニコが悪戯な笑みをこぼす。
「そうなんですね。まだ先のことは分かりませんが、少し自信を持てそうな気がしてきました」
ナギサの言葉に、ニコとアヤノは互いの顔を見て微笑み合う。
「あっ、そうだ!」
突然声を上げるナギサ。そして、立ち上がって準備していた高級羊羹をアヤノに差し出す。
「アヤノさん、これ、つまらないものですが。そして、昨日のご無礼、お許しください!」
ナギサの行動に店内にいた客がザワつく。アヤノが狼狽えた様子でナギサを制する。
「ナギサさん、おやめになってください。私、全然怒っていませんので」
「そうんなんですか? 私はてっきり、昨日のことで呼び出しをくらったのかと……」
その様子を見ていたニコは、大声で笑った。
「この調子だと、男子部員たちもきっとアヤノに平伏しているんだろうな!」
「そんな、私は鬼のボスみたいなパワハラ的指導はしてませんから」
「分かってる。冗談だよ。ほんと、そういうところは相変わらずだな」
笑いが収まったニコは、思い出したようにナギサに言う。
「あ、そうそう。今度さ、私の所属するクラブチームと女子バスケ部で練習試合をやろうよ」
「え、いいんですか? 是非、お願いします!」
ナギサは二つ返事で了解する。
「その時は、アヤもうちのチームで出場してもらうから」
「え?」
完全に虚を突かれたアヤノの声が裏返る。
「これはお願いではないぞ。今回の相談料としての対価、体で払ってもらうからな」
「そんな……まあ、ニコさんも良い話してくれたことですし。分かりました。バスケ、やりましょう」
十二月下旬、青葉大学女子バスケ部と仙台市内の強豪クラブチーム『上杉クラブ』の練習試合が決定した。そして同時に、バスケットボールプレーヤー・中村アヤノの復帰も決定した。