なぜ体の声について話す時に茶化すのだろう

おはよう。書く。前回の続きでスパイラルの向きについて書こうと思ったが。こういった練習の内容はヨガや気功を練習中に、体からのメッセージを受け取って、閃きを感じたものを、更に繰り返し練習して、明らかに自分には効果があると感じるものを文章化している。

この辺りを書く時になぜ、自分では確かにあると感じるものを、人に話すのを避ける、もしくは話している時に、自分は嘘つきであったり、場合によっては妄想癖があるのではないかという気分に支配されて、照れたり、茶化したり、無理くり科学と結びつけようとするのだろうか?この照れは見逃せない。なぜかと言うと、人から褒められた時に抱く嫌悪感と非常に似た肌触りだからだ。

「わたしなんて」というのが真まで身に付いてしまっているのは、単なる習慣で自分の内面から湧き出ているわけではないから、明らかにアンバランスだ。人を褒める練習の結果(仕事柄)、本当にその人が素晴らしい人である様に、周りも巻き込んで思える様になった。でも、それだけではやはりアンバランスだ、自分も褒める練習(方法は今日から試行錯誤する)の結果、本当に自分は素晴らしい人である様に、(周りも巻き込んで?これは未知)思える様にならないとバランスは整わないだろう。さて、日常からのメッセージを見逃さないようにしなくっちゃ。ここまで読んでくれてありがとう。素晴らしい1日を。


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