spotlight - あなたは自分の”加害行為”をメタ認知できるか
あらすじ
アメリカ、ボストン。
敬虔なカトリック信者が通い、特に貧しく家庭が崩壊した子供達にとっては拠り所になる協会。
地元紙のボストン・グローブは、その信頼できる場所で幼児への性的虐待が行われていた事実を掴む。
少数の行為に思われていたそれに関わっていた人間が次々に明らかになり、やがて、”憧れの街”を壊さないために多くの人間の手によって、その事実が暴かれることが妨げられていたことが判明する。
記者たちは、多くの”しがらみ”を振り切って、事実を公表しようと奔走する。
”犠牲者”を選べ
#metoo 運動にも通ずる”ハラスメント”と、理想と乖離した腐敗する実態を描く社会派作品。事実に基づく。
ジェンダーハラスメント問題についてはこちらを参照されたい。
教職員や校長などによる児童へのわいせつ行為はどの国でも発生しており、日本でもベビーシッターによる強制接触事件などが話題になっている。
多くの人に対し”善いものである”と標榜されている組織の実態を暴く行為は、性善説の人たちにとって随分な衝撃であろう。
警察の腐敗を描いた作品としてはL.Aコンフィデンシャルなどが挙げられる。
最近は邦画でもこの手の作品は人気に見える。
フィクションやエンターテイメントだなどと昇華などしないでほしい。
コンプラの塊として業務を行なってきた元銀行員からすれば、実際、ほとんどの会社なぞコンプラ違反に見えている。
生物学的に力で勝てない生き物たちが知恵を絞って行なってきたのが政治だしこれは進化の一つだ。
私自身も、体力もないし外見偏差値も別に高くなく、体育会系と戦ったら殴り殺されて終わるので、心理学と知識で生き抜く術を身につけてきた生き物の一つだ。
弱肉強食はそうやって多面的に成立している。
本作は、一部を犠牲にしながら、一部の生態系を成り立たせている構造を果たして突くべきか、という議論になる。
今回の現実とは、複数の神父が児童へ性的行為を行なっていることとその事実を組織ぐるみで隠蔽していることである。
それを暴くペナルティは、地域や一部の人間の生きがいを支えてきた教会が瓦解することで、それらの人間性を一時的に破壊することである。
児童の被害は減り、そして街は荒れるだろう。
見方ひとつでヒトは大きく変わってしまうのだ。
大人しく反省するなら世話はない。
隠蔽に走る弱さを持つものたちなら、喚き足掻くだろう。
多くを巻き込んだ虚飾は連鎖していて、火をつければ周辺家屋も燃える。
現実を見ることは、幸福な結果をもたらすわけではない。
純粋な気持ちで教会に通っていた記者たちは、その実態を知るごとに、もはや教会には通えなくなっていく。
現実に放り出された時、何を信じて、どう生きるかは自分で決めなければならない。
加害 - 制御できぬ自己防衛
意図的な加害は、行為を行う側の自己肯定感の損傷を癒すために行われることが多い。
自分の劣等感を映し出すその相手を排除して自分を守ろうとする行為。
弱者を痛めつけることで得る仮想優位。
自己防衛のために意図的に相手を排除するために、反撃として行う行為もある。こちらの場合、原加害者側に、どれほど攻撃を与えているかのメタ認知が欠けている事に対する反動行為となる。
これはこれで、加害者側が「そんなつもりはなかった」と深く傷つき、加害者と被害者が逆転する場合もあるし、殺意を煽って法律を利用し被害者の立場を獲得しようとする者もいる。
巻き込まれないためには関わらない、の一策に尽きるのだが、そこに至るまでの動機にも様々な背景があることも少なくなく、せめて自分だけは理解者足ろうと激しい庇護愛を発揮する人も多い。
加害行為の多くを緻密かつ多面的に描いている作品としては「告白」が秀逸であると感じる。
被害 - 自分でも言語化できない衝撃
言語化が進んでいない人間のほうが、被害者意識が強くなることが想像できる。
長く被害を受けてきた側は、そこから逃げる方法や、相手を倒す方法を深く長く洞察する。恨みというものを言語化して、深く動機として持ち続ける。
加害者側が反撃を受けた時、面食らって反応できなくなり発狂するのは、想定外だからであろう。
弱いことは悪いことと自分を責める思考に入っていくと、もっとひどいことを知っているから、これくらいは大したことはないという認識も発生してくる。
作中で、子供達に性的行為を行なった神父がこんな発言をする。
私は確かに”いたずら”をした。
だがそれが大したことではない。私はレイプをしていないからだ。
”いたずら”が大したことではないと私は知っている。
なぜか?私はレイプされたからだ。
大したことと大したことないこと。
いい事、悪い事。
それらは行為そのものに紐づかないということになる。
善悪は絶対値でなくパラメータ差分で決まる
すなわち、相手に与える影響とは、行為の絶対値ではなく、与える側と与えられる側の認識の差によって発生するということになる。
”ハラスメント”や”愛”の難しさである。
他者の行為に善悪を感じるのは受容者の主観以外にないはずなのに、社会がそれにレッテルを貼ろうとするから歪む。
だからこそ個人に客観性が必要だと考える。
自分の感じたままの主観が、多方面からみた時にどういうことなのかをメタ認知する必要がある。
他者へ何らかの影響を及したいという欲求を止められないという感情は、恋愛をしたことがある人には理解しやすいかもしれない。
相手と双方向で思い合っている場合には、相手にメッセージを送り、写真を撮っては眺め、視線を交わすこともときめきの一つとして描写される。
「どうして自分ではだめなのかー…」
切ない片思いとして描かれるそれも、追われる側が受け入れられないほど拒絶している場合には恐怖以外の何物でもない。
合意とは斯くも曖昧なもので、我慢、演技、何かの犠牲行為も存在する中で、真の合意を知ることはなかなか難しい。
自分の概念を他人に押し付けることが善か。
自発的行為を全て認めるべきか否か。
生死を主題にした客観性はバビロンが扱っている。
柔らかすぎる自我の残酷さ
いつか職人の手のように硬くなるはずの柔肌に、爪を立てただけで血が流れると知っていて、放置もできないその無垢な存在に、どう対峙すべきなのだろうか。
ワンオペで育児をする母親が発狂目前になる気持ちを重ねてみてほしい。
言葉も話せず、意思疎通もできず、自己管理もできぬ、放っておけば危険に遭遇してしまう生き物たち。
何色にも染まっていないそれに行う行為の難しさ。
暴力だけでなく放置も過干渉も、傷になる。
無垢を利用する行為だけでなく、何かが傷になっていくその事象をどう止めればいいのだろう。
自身にもPTSDに近いものがある。
同じ経験を持つ人間同士が、生き延びて大人になった後に語り合う時、それを自己開示して癒していくプロセスは取れる。
我々は、知らないうちに誰かに深い傷跡を刻んでいる可能性は常にあって、どれほど大事にしたいと思っても、相手が弱く柔らかであるだけで簡単に加害者になりうる。
加害行為のメタ認知というものは斯くも難しい。
失う事を恐れて怖がっていると言われてもいい。
だから私にとって愛とは自他分離である。
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