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赤毛のアン ヨセフの真実 / 第二部 失われた世界への憧憬

第3章 Anne’s House of Romance

クイーンアンモリス
ウィリアム・モリス  ”Queen Anne”

第1節 ボーリングブローク     

「この3月で満十一になったの」アンは諦めて小さな溜息をつき、ありのままの事実を語りだした。「生まれたところはノヴァ・スコシャのボーリングブロークで、お父さんの名前はウォルター・シャーリー。ボーリングブローク高校の先生だったの。お母さんの名前はバーサ・シャーリーというの。ウォルターもバーサも素敵な名前じゃないこと?【中略】お父さんたちはボーリングブロークで、小ちゃな黄色い家で所帯をもったんです。私は一度もその家をみたことはないけれど、なんでも想像したわ。客間の窓には忍冬(すいかずら)がからんでるし、前の庭にはライラックが植わってて、門を入ったところには鈴蘭が咲いていたにちがいないと思うの。」

『赤毛のアン』村岡花子訳 5章より

モンゴメリは、アン・シャーリーの生まれた場所をノヴァ・スコシャの ”Bolingbrokeボーリングブローク” と名付けました。
しかし、実際のノヴァ・スコシャにはそのような地名はありません。
では、その名前はどこから来たのでしょうか。
これもまた、シャーロット・ブロンテの "Jane Eyreジェイン・エア” からのようです。

"Jane Eyreジェイン・エア” をお読みになった方はお分かりの通り、そこにも「ボーリングブローク」という名前は出てきません。
しかし、この名前につながる登場人物がいるのです。
"Jane Eyreジェイン・エア” の後半で、ロチェスターの屋敷から逃げ出したジェインは無一文で荒野を彷徨いますが、若い牧師とその姉妹が住む荒野荘ムア・ハウスにたどり着き、一命を取り留めます。
その後いとこ同士(近い血縁という意味での " kindredキンドレッド" )であったことがわかる、その若き牧師の名は ”St. Johnセント・ジョン" 。
ジェインを助けてから10ヶ月後に、布教のため一緒にインドに渡って欲しいとプロポーズするのですが、今でもロチェスターの事が忘れられないジェインに断られたセント・ジョンは一人で旅立ちます。
シャーロット・ブロンテの研究者たちによると、このセント・ジョンのモデルは、22歳のシャーロットに求婚して拒絶されたヘンリーという副牧師(シャーロットの親友エレン・ナッシーの兄)とされています。
実は、この実在の「ヘンリー」と "Jane Eyreジェイン・エア” の「セント・ジョン」を二つ合わせた名を持つ歴史上の人物が、アン・シャーリーの生まれに大きく関わっていたのです。
それが「ヘンリー・Stセント・ジョン」、又の名を「初代 "Bolingbrokeボーリングブローク " 子爵」。

ボーリングブローク子爵は ”Anne of Green Gables赤毛のアン” ならぬ  “Anne of Great Britainアン女王” 、すなわちアン女王時代のトーリー党政権下で国務大臣を歴任した人物です。
アン女王崩御の後に失脚してフランスに亡命し、アン女王で終わってしまった "Stuartスチュアート"朝を復興させるため、同じくフランスに亡命していたJames3世(スコットランド王としては8世)をGreat Britainグレート・ブリテン王国の君主の座に付けようとしました。
つまりモンゴメリは、生まれて3ヶ月で両親を熱病で亡くしたアンの生まれ故郷を、スチュアート朝再興に奔走した人物に因んでボーリングブロークと名付けたのです。
モンゴメリの中の「失われた世界への憧憬」が滲んで見える名前と言えます。

第2節 スコットランドへの忠誠

さてここで、ボーリングブローク子爵が再興させようとした "Stuartスチュアート" 朝について、少しまとめておきましょう。
スコットランドと、後にはイングランドの歴代君主を輩出した "Stuartスチュアート" 家は、その祖先をフランス・ブルターニュ地方の "Dolドル"に居た "Bretonブレトン" 人の小貴族アランに遡ることができます。
このアランの息子であるフラールド・フィッツアランと孫のアランが、イングランド王ヘンリー1世の要請でイングランドに移住したとされています。
12世紀になると、フラールドの孫ウォルター・フィッツアランが、イングランド王ヘンリー1世を父に、スコットランド王の娘を母にもつモードという女性を支えたことで、モードの叔父であるスコットランド王デイヴィッド1世から "Lord High Steward王室執事長" に任命され、これが家名になりました。
因みにシャーロット・ブロンテの "Villetteヴィレット” 41章にある、主人公ルーシー・スノウがポール・エマニュエル教授に告げた台詞

"I will be your faithful steward"
「わたくし、あなたの忠実な執事になりますわ」(拙訳)

は、この史実を想起させるがゆえに一層印象的なものとなっているのです。

さて、13世紀の終わり頃にイングランドがスコットランドを属国にしようと侵略した際に、ロバート・ブルース王の下でスコットランドは息を吹き返し、1314年のバノックバーンの戦いで大勝利して、スコットランドは独立を保ちます。

「国民的英雄として記憶されている」「最も偉大なスコットランド国王のひとり」

ウィキペディア「ロバート1世(スコットランド王)」より

とされるロバート・ブルース王の娘婿となったのが、スチュアート家6代目にあたるウォルター・スチュアートでした。
こうしてスコットランド王室に連なったスチュアート家の7代目がロバート2世として1371年に即位、スコットランドにスチュアート朝が開かれます。
ちなみに、Stuartは Stewardのフランス語形で、意味は同じです。
フランス帰りのメアリ女王の時代に Stewardが Stuartに改められました。

ところで、シャーロット・ブロンテが "Jane Eyreジェイン・エア” の32章と33章で引用し、モンゴメリの ”Anne of Green Gables赤毛のアン” 29章にも引用されている詩『マーミオン』は、18世紀後半から19世紀前半に活躍した詩人・小説家であるウォルター・スコットの作品ですが、この詩人の祖先は「スチュアート朝の庶流の分流」とされています。
ウォルター・スコットは、英国の人々の暮らしの中から消えかかっていたスコットランドの文化を、ロマンティックな詩や歴史小説を通じて再評価した作家ですが、10代の頃のモンゴメリもこの大人気作家が著した ”Gypsy storiesジプシー・ストーリーズ” と呼ばれる作品の数々を愛読していたと日記に書いています。
このウォルター・スコットと同じ名を、アン・シャーリーの父親だけでなくアンの息子ウォルターにも名付けているモンゴメリは、新婚旅行で英国を巡った折に、彼のモニュメントの立つエディンバラ・ウェイヴァリー駅から列車で "Abbotsford Houseアボッツフォード邸" へと向かう聖地巡礼を行なっています。

アボッツフォード邸は、フランスからの亡命者だったシャーロット・シャーパンティア(あるいはカーペンター)という女性と結婚したスコットが、物語詩で名声を博してから移り住んだ邸宅です。
スコットランドのボーダーズ地方にあるメルローズ修道院の "Abbots大修道院長" が渡ったツイード川の "ford浅瀬" のそばにあることから、ウォルター・スコット自ら "Abbotsfordアボッツフォード" と名付けたこの邸宅で、後世に多大なる影響を与えた数々の歴史小説が生まれました。
スコットランドの廃墟となった城や修道院から運んだ彫刻石を壁に貼り、ミニチュアのお城の様なその外観も手伝って、モンゴメリが訪れた当時も人気スポットだったため、とても混んでいて難儀したことが日記や自叙伝に書かれています。
アボッツフォード邸から真東に3マイル(グーグルのルート検索による)の地にある "Melrose Abbeyメルローズ修道院" は、歴代の王や貴族が眠るかつてのスコットランドの母教会の遺跡で、1921年にはロバート・ブルース王の心臓が入った小箱が見つかっています。
モンゴメリは、王の心臓が入った小箱が発見される10年前にメルローズ修道院の廃墟を訪れ、感慨に耽っています。

「スコットランド王にして国民的英雄の名を馳せたロバート・ブルースの心臓も、ここに葬られているという---聖地パレスチナの土に埋葬されたかの如く、安らかに眠りについているのだ。」

『険しい道---モンゴメリ自叙伝』山口昌子訳   p.126  篠崎書店

ロバート・ブルース王の名のフランス語表記はRobert de Bruys。
この "Bruys"、ブライスと読めませんか?

さて、1850年の夏、生涯最初で最後のスコットランドを旅したシャーロット・ブロンテも、その2〜3日の短い滞在中、エディンバラやメルローズ、アボッツフォード邸を訪れていて、その時に受けた感銘を、彼女の才能を最初に認めた出版人の W.S.ウィリアムズに次のように書き送っています。

「エディンバラはロンドンに比べると、経済学の退屈な大論文に比べられた歴史の生き生きした一ページのようです。メルローズとアボッツフォードについていえば、その名称そのものが音楽と魔力をもっています。【中略】つねづね観念としてスコットランドが好きでしたが、いま現実としてはるかに好きになりました。【中略】どうか、あなたの偉大なロンドンが『わたし自身のロマンティックな都』ダン・エディン(拙注1)に比べると、詩歌と比較させた散文、あるいは稲妻の閃光のごとく簡潔で明るく、清浄で生命感にみちた抒情詩に比較された、騒々しく散漫で退屈な大叙事詩のようなものだといっても、わたしが冒涜しているなどとは思わないでください。ロンドンにはスコットの記念碑のようなものは何もありません。仮にあったとしても、建築のすべての栄光が寄り集まったとしても、アーサーズ・シート(拙注2)のようなものは何もありません。」
拙注1:エディンバラ一帯に存在したブリトン人の王国 "Gododdinゴドディン"がノーサンブリア王国の支配下に入る前までのエディンバラの名前
拙注2:アーサー王の玉座の意

『シャーロット・ブロンテの生涯』エリザベス・ギャスケル著 中岡 洋 訳 第20章より

まるでシャーロット・ブロンテのスコットランド旅行をなぞるように、スコットランドを旅したモンゴメリは、新婚旅行の最初の目的地として「グラスゴーからオーバン」まで足を伸ばしています。
そこはエディンバラやメルローズのアボッツフォード邸を訪れたシャーロットが、そのまま旅を続けたいと願いながらも叶わなかった地です。
シャーロットはなぜ、アーガイル地方の一都市オーバンに行きたかったのでしょうか。
そして、モンゴメリはなぜその地を訪ねたのでしょうか。

第4章 原郷の地

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ウィリアム・モリス ”飛燕草”

第1節 アヴォンリーは古メルローズ

「アヴォンリーは、セント・ローレンス湾につき出た三角形の小さな半島を占めており、両側に水をひかえているので、ここからは出て行く者もはいってくる者もかならずこの丘の道を越えなくてはならないので、しょせん、リンド夫人のぬけめのない監視をのがれることはできなかった。」

『赤毛のアン』村岡花子訳 1章より

プリンス・エドワード島の地図を見ても、「両側に水をひかえている」「セント・ローレンス湾につき出た三角形の小さな半島」はちょっと見当たりません。

プリンス・エドワード島
プリンス・エドワード島の全景

強いていうなら島の西端に「湾につき出た」部分がありますが、後はただ緩やかに湾曲している綺麗な海岸線がスゥーっと伸びているだけで、どうも様子が異なります。

さて前の章で、スチュアート家の祖であるケルト系英国人Bretonブレトンについて触れましたが、ブレトンが居たフランスのブルターニュは、ローマ時代にはArmoricaアルモリカと呼ばれていました。
Armoricaは、同じくケルト系の言葉であるウェールズ語の ”Ar y Mor” と同じ ”Place by the Sea海に開けた場所” という意味です。
モンゴメリが生まれ育ったプリンス・エドワード島は、まさに ”Place by the Sea海に開けた場所” 。
しかし、 ”Anne of Green Gables赤毛のアン” の舞台としてモンゴメリが描写した「プリンス・エドワード島」は、現実のプリンス・エドワード島そのものではないように思われます。

同じく前章でご紹介したスコットランドのボーダーズ地方にある "Melrose Abbeyメルローズ修道院 " は1124年に建てられていますが、その真東3マイル(グーグルのルート検索による)の場所には "Saint Aidan of Lindisfarneリンディスファーンの聖エイダン" という人物がメルローズ修道院の500年も前に創建した、 "Old Melrose古メルローズ" というケルト修道院があったそうです。
この古メルローズの元々の呼び名は、

”Mailros” といい、古ウェールズ語やブリトン語で「 "the bare peninsula裸の半島" 」

 ”Melrose, scottish Borders” の ”History” の項参照

という意味だそうですが、「半島」といってもこれは

「 "a neck of land by the River Tweedツイード川の地峡" 」

 ”Melrose, scottish Borders” の ”History” の項参照

のことを指しているとウィキペディアにあります。
「地峡」とは何か、調べてみると、

「水域に挟まれて細長い形状をした陸地」

ウィキペディア「地峡」より

のことであり、地図で確かめると古メルローズのあった場所はツイード川が大きく湾曲した、その内側の陸地部分でした。
モンゴメリが 、

  • "Avonlea occupied a little triangular peninsula(アヴォンリーは小さな三角形の半島を占めている)"

  • "with water on two sides of it,(両側に水をひかえている)"

と描き出しているアヴォンリーの形状と、古メルローズの建っていた場所の地形は、とても似ています

メルローズの三地点地図
ツイード川沿いに点在するアボッツフォード邸、メルローズ修道院、古メルローズの遺跡

2020年11月追記:現在の "Old Melrose古メルローズ" の風景はこちらをご覧ください。

第2節 マシュウとマリラの由来

古メルローズを創建したリンディスファーンの聖エイダンは、651年に亡くなります。
その時、聖カスバートと後の世に呼ばれることになる人物が、”a vision on the night(聖エイダンが天使に導かれて天国へ昇る夢)” を見たことで、その意志を継ぐものとなったと言い伝えられています。
聖カスバートは古メルローズの近くで育った人で、そこで修行した後に聖エイダンが古メルローズよりも前に開いたリンディスファーン修道院の島に移って活動を始め、やがて英国でもっとも有名な聖人になったそうです。
しかし、様々な場所へ布教に歩いた人生の晩年は、一人庵に籠って黙想的な生活を望んだとか。
リンディスファーン修道院のある島は、今でも ”Holy Island聖なる島” と呼ばれ、モンゴメリも新婚旅行で訪れています。

古メルローズの地には、 "Saint Aidan of Lindisfarneリンディスファーンの聖エイダン" と "Saint Cuthbert聖カスバート" が居たわけですから、 ”Anne of Green Gables赤毛のアン” の "Lyndeリンド" 夫人、並びにマシュウとマリラの "Cuthbertクスバート" 兄妹のそれぞれの苗字はここに由来しており、古メルローズはアヴォンリーの原型であると言っても良いのではないでしょうか。
ケルト系であるブリトン人の居住地に、リンディスファーンの聖エイダンがケルト・キリストの教えの場を開いた歴史と、リンド夫人が ”Anne of Green Gables赤毛のアン” の物語の扉を開く役回りとが重なりますし、またどちらのクスバートもその土地を豊かに耕している、そんなイメージです。

LindとLyndeはスペルが異なりますが、モンゴメリは綴りにこだわっていないことは『ブロンテになりたかったモンゴメリ』のII章でも触れました。
『モンゴメリ書簡集I』にある1911年5月4日の手紙の原注***には次のように書かれています。

モンゴメリは、以前、彼(拙注:モンゴメリの夫)の姓をMcDonaldと綴っていたのが、ここではMacdonaldと正しく綴っている。後に彼女は彼の名をEwenではなく、Ewanと書いている。また、彼女は、1911年の後半になるまで、ジョージ・ボイドの姓をまちがって綴っているが、この時になってやっとMacMillanと書いている。後に、親友の名をFrederickaではなく、Fredericaと綴っている。

『モンゴメリ書簡集I』宮武潤三・順子 訳 篠崎書林 昭和56年

モンゴメリがスペルにこだわらなかったのは、綴りが苦手だったからではありません。
育ての親である母方の祖父から、スコットランドの血を受け継ぐモンゴメリにとって、スコットランド由来の名前は、歴史的勝者であるイングランド式綴りよりも、その「音」こそが大切だったのでしょう。
だから「リンド」のスペルの違いも、気にしなくて良いのです。

それと同じことが、「アヴォンリー」にも言えるのではないでしょうか。
一般的に "Avonleaアヴォンリー" という架空の名前は、シェイクスピアの生誕地である "Stratford-upon-Avonストラトフォード・アポン・エイヴォン" から取られたとされています。
しかし、「アヴォン」と「エイヴォン」ではモンゴメリにとって大切な「音」が違うのです。
それよりも、前述したように古メルローズの地がアヴォンリーの元型であるならば、その3マイル(拙注1)西にある "Melrose Abbeyメルローズ修道院" のAbbeyアビーの ”Ab” や、そのまた3マイル(拙注2)西にあるウォルター・スコットの "Abbotsfordアボッツフォード" 邸の ”Ab” から、アヴォンリーのアブの音が取られた可能性もあるのではないでしょうか。(拙注1と2:どちらの表記もグーグルのルート検索による。)
ちなみに、 ”Anne of Green Gables赤毛のアン” 37章でマシュウはアベイ銀行が破産したニュースを知り、ショックで亡くなってしまうのですが、その「アベイ」のスペルもAbbeyアビーで「修道院」という意味です。

モンゴメリの言葉の響きへの鋭い感性は、 ”Anne of Green Gables赤毛のアン” 5章に置かれた次の二つの印象的なシーンからもよくわかります。

”Shore road sounds nice,” said Anne dreamily.  “Is it as nice as it sounds? Just when you said ‘shore road’ I saw it in a picture in my mind, as quick as that! And White Sands is a pretty name, too; but I don’t like it as well as Avonlea.   Avonlea is a lovely name.  It just sounds like music. ”
「海岸通りってすてきに聞こえるわ。名前とおなじようにすてきなところかしら。伯母さんが海岸通りっておっしゃったとたんに、ぱっとその景色が目にうかんだのよ。それにホワイト・サンドも綺麗な名だけれど、でもアヴォンリーほどじゃないわ。アヴォンリーはたまらなく、いい名前ですもの、音楽みたいな響きがするわ。」

『赤毛のアン』村岡花子訳 5章より

“I guess it doesn’t matter what a person’s name is as long as he behaves himself,” said Marilla, feeling herself called upon to inculcate a good and useful moral.
“Well, I don’t know.” Anne looked thoughtful. “I read in a book once that a rose by any other name would smell as sweet, but I’ve never been able to believe it.  I don’t believe a rose would be as nice if it was called a thistle or a skunk cabbage. ”
「その人が正しい行いをするかぎり、名前などどうでもかまわないことです」ためになる教訓をたれるのはこのときとばかりにマリラは言った。
「そうかしら」とアンは考えぶかそうな表情をした。「いつか本に、バラはたとえ他のどんな名前でも同じように匂うと書いてあったけれど、あたしどうしても信じられないの。もしばらが、あざみとかキャベツなんていう名前だったら、あんなにすてきだとは思われないわ。」

『赤毛のアン』村岡花子訳 5章より

後者のアンのセリフは、音と匂いの豊かな共感覚を持つモンゴメリの感性が、シェイクスピアの『ロミオとジュリエット』にある

That which we call a rose by any other name would smell as sweet.
(私たちがバラと呼ぶものは、他のどんな名前で呼ばれても、同じように甘く香るわ)

というジュリエットの言葉を「真逆」に置いたものですが、モンゴメリと同じ共感覚を持った人でなければシェークスピアをもじったとしか受け取れないかも知れません。
「音楽みたいな響きがする」アヴォンリーの由来についても、もう少し沼深く考察したいところですが、それは第五部 補章その1にて試みることにします。

2021年2月1日追記:上記引用箇所の前後には、アンの次のようなセリフがあります。

「ウォルターもバーサもすてきな名前じゃないこと?両親がすてきな名前なので、とてもうれしいわ。もし、ええと、ジェデディアなんていうんだったら、ほんとうに恥ずかしいと思うわ。そうでしょう?」

『赤毛のアン』村岡花子訳 5章より

「あたしのお父さんも、ジェデディアという名だったとしても、よい人にはちがいないけれど、でもがっかりだわ。」

『赤毛のアン』村岡花子訳 5章より

ジェデディア(原文表記 ”Jedediah” )というのは、ウォルター・スコットのいわゆるペンネームで、有名なウェイバリー小説群の一部分を成す ”Tales of My Landlord” シリーズは、このJedediahという名の架空のエディターによって出版されたことになっています。
Anne of Green Gables赤毛のアン” 出版当時の読者たちは、ウォルターだのジェデディアだのというアンのセリフから、当然のようにウォルター・スコットを連想して、こまっしゃくれたアンのセリフを面白がったのでしょう。
尚、Jedediahの日本語表記には「ジェディダイア」もあります。

次にご紹介するのは、スコットランドをイングランドの侵略から守り抜いた王ロバート・ブルースの時代である1320年に、 "Abbot of Arbroathアーブロース大修道院長" が書き下ろしたとされる独立宣言からの一部抜粋です。

「われわれ100人が生きている限り、イングランドの支配下におかれることに同意はしない。なぜなら、それは名誉にも、富にも、名声にもならないからである。われわれはただ、自由を求めて闘う。その自由とは、誠実な人間が生きている限り、決して失うことはない。」 

『スコットランド国民の歴史 1560-1830 』T. C. スマウト著 p.12 原書房

”while a hundred of us remain alive, we will not submit in the slightest measure, to the domination of the English. We do not fight for honour, riches, or glory, but solely for freedom which no true man gives up but with his life.”

英語版ウィキペディア「アーブロース独立宣言」より

エミリー・ブロンテの有名な詩「富は問題にならぬ」の原型とも思えるこの格調高い宣言書には、スコットランドの人々が抱く血筋への強い誇りが感じられます。
なお、この独立宣言の500年も前である839年に古メルローズ修道院を襲撃したダルリアダ王国の王 "Kenneth I ケネス一世" が、スコットランドの最初の王となったという伝説があるそうです。
これについては第5章3節をご参照ください。

第3節 川と森の重なり合うイメージ

Anne of Green Gables赤毛のアン” の冒頭で、アヴォンリーの小川は「ずっと奥の方のクスバート家の森から」リンド夫人の住む窪地へと流れ、森の奥には「思いがけない淵や、滝などがあって、かなりの急流だそう」と描写されています。
前章にも書いたように、アヴォンリーが占めているのは「小さな半島」であり、奥まったところにあるクスバート家の森は、アヴォンリーの出入り口に当たる丘やそれを臨むリンド夫人の窪地よりも「湾につき出た」側にあるのですが、なぜかそこは海ではなく森に囲まれたような風景が描写されています。
なんとも不思議な場所から流れてくるアヴォンリーの小川は、もしかしたらウォルター・スコットが『マーミオン』のなかで謳ったスコットランドのボーダーズ地方を流れるツイード川のイメージから、モンゴメリの想像力が描き出したものかもしれません。
上流域はスコットランドの山あいの谷間を流れ、アボッツフォード邸やメルローズ修道院、古メルローズの跡を通り抜け、下流域はそのままイングランドとの境界線となって北海へと注ぐ、大きく蛇行して流れるツイード川。
その全長は156キロもあり、上流には「マーリンの谷 "Merlin's Valley" 」という伝説の場所もあるのだとか。
この情景を『マーミオン』の物語詩からイメージしながらプリンス・エドワード島の風景に重ねて描いた空想世界が、 ”Anne of Green Gables赤毛のアン " の舞台アヴォンリーであったと思われます。

さて、アヴォンリーの小川の源を隠すクスバート家の森は、 ”Anne of Green Gables赤毛のアン” の1章でこんな風に描写されています。

「果樹園にかこまれた、だだっぴろいクスバート家【中略】息子におとらず内気で無口なマシュウの父は、出来るだけ人から遠のいた森の中へでも引っ込みたいところを、その一歩手前の地所に屋敷をさだめた。その開墾地のはずれに『緑の切妻』の家は建てられて今日におよんでいるので、アヴォンリーの家々が仲よくたちならんでいる街道からはほとんど見えなかった。リンド夫人からみると、そんな奥まったところにいたのでは、住むという意味をなさないのだった。」

『赤毛のアン』村岡花子訳 1章より

そして、そのリンド夫人曰く

「こんなところに自分たちだけで暮らしているのだもの、マシュウも、マリラも変わった兄妹さね。木じゃあ話し相手にゃならないのに、木でよかったら、いやというほどあるけれどね。わたしなら人間のほうがいいな。とにかくあの人たちは満足しきってるんだよ。」

『赤毛のアン』村岡花子訳 1章より

という場所です。
実は、これととても似た描写がされている場所が、シャーロット・ブロンテが描いた "Jane Eyreジェイン・エア” のラストに出てきます。
それは "Ferndeanファーンデイン" の館。

「ファーンデイン荘園の館は、森の奥ふかくに隠れていて、ずいぶん古びていた。【中略】人に貸そうと思ったが、不便で健康にもよくない土地だった【中略】館のすぐ近くまで行っても、家の姿は少しも見えぬほどに、まわりの陰うつな森の木々が、ふかぶかと暗く茂っていた。」

『ジェイン・エア 』阿部知二訳 第37章より

ソーンフィールドの邸宅が焼け落ちて、火を出した張本人である狂った妻バーサ(アン・シャーリーのお母さんと同じ名ですね)が死に、彼女を助けようとして両目の視力と右手を失ったロチェスター。
今はソーンフィールドから「三十マイルほど離れた」「ずっと辺鄙で奥まった」土地にあるファーンデインに、老夫婦の召使2人とひっそり暮らしていたのですが、そこにジェインが現れるという展開です。

ファーンデインの "fernファーン" は植物のシダのことで、前に触れたリンディスファーン修道院の "farneファーン" とは、スペルは異なりますが同じ音。

There is also a supposition that the nearby Farne Islands are fern-like in shape and the name may have come from there.(拙訳:近接するファーン諸島はシダ植物のような形状をしており、名前はそこからきたことも推測される。)

英語版ウィキペディア”Lindisfarne”の”Name and etymology”の項参照

と、ウィキペディアに書かれていますから、スペルは違ってもどちらのファーンも植物のシダを意味しています。

「ジェイン・エアは、ゲイツヘッド、ローウッド、ソーンフィールド・ホール、ムーア・ハウス(マーシュ・エンドとも呼ばれる)での生活を経て、ファーンディーン(シダの谷)・マナーでロチェスターと共に暮らす。【中略】ファーンディーン・マナーが彼女の終のすみかとなるのだ。【中略】鬱蒼とした森の中に、シダとともに『深く埋もれるように存在する』ファーンディーン・マナーは、この時から活気を浴び始める。」

『ブロンテ三姉妹の抽斗』デボラ・ラッツ著 第8章より

とブロンテの研究者が記しているように、

「ほとんど木立と見分けがつかなかったほど、その家の朽ちかかった壁は、じめじめとした緑色になっていた」

『ジェイン・エア』阿部知二訳 第37章

というファーンデインの館は、ジェイン・エアが来たことでこの世で一番幸せな場所へと変わります。
それと同様、 ”Anne of Green Gables赤毛のアン” では人里離れた森の手前に建つグリーン・ゲイブルズが、アン・シャーリーが来たことで喜びの場へと変わっていくストーリー。
シャーロット・ブロンテはきっと、いにしえのリンディスファーン修道院の音が生みだすイメージから、ロチェスターが小妖精と呼ぶジェイン・エアが永久とこしえに住む場として、ファーン(シダ)の生えた森の中のファーンデインを描き出したに違いありません。
そして今度はモンゴメリが、自らの日記や手紙で小妖精と呼ぶアン・シャーリーと、ファーンデインのファーンの音が連想させる聖クスバートとリンディスファーンの聖エイダンからクスバート兄妹とリンド夫人を創り出し、いにしえのケルト修道院があった土地の地形を模った空想の場所を "Abbey修道院" "Abbots大修道院長" の ”Ab” の音を生かしたアボンリーと呼んで彼らを住まわせた・・・。

こうしてみると、 "Green Gablesグリーン・ゲイブルズ" の切り妻屋根は、ペンキで塗られた緑色ではなく、ファーンデインのように苔むした緑であり、そうした「侘び寂び」に通じる世界観が根底に流れているからこそ、それを感じ取ることのできる日本で根強い人気となっているのかもしれません。

アヴォンリーの名前については第五部 補章その1で沼深く考察中です。

第5章 白バラのヴィジョン

白バラモリス
ウィリアム・モリス ”Rose” 

第1節 マシュウのスコッチローズ

モンゴメリとシャーロット・ブロンテは、「失われた」スコットランドにロマンティックな郷愁をいだく感性をもつという点で共通しており、そんなシャーロットの作品から得た数々のインスピレーションが ”Anne of Green Gables赤毛のアン” の初期設定に込められていることはこれまで示した通りです。

「ものによっては縫いものも面白いかもしれないけど、つぎものにはちっとも想像の余地がないわ。」

『赤毛のアン』村岡花子訳 13章より

とマリラにぼやく針仕事が苦手な少女アン・シャーリーが、シャーロット・ブロンテが

「彼女は時折縫いものをとり上げる。だがどういう運命の定めか、五分以上静かに座って仕事を続けることが決してできない。指貫きをはめるとか、針に糸を通すとかすると思うと、突然何かを思いついて、二階に上がる。」

『ブロンテ全集4』都留信夫訳 p.77 みすず書房

と "Shirleyシャーリー” で描いたシャーリー・キールダーと似ているのも、アン・シャーリーの瞳が時にシャーロット・ブロンテの "Jane Eyreジェイン・エア” のジェインと同じ緑色であったり、時にシャーリー・キールダーと同じ灰色であるのも、決して偶然ではないのです。

ところで、 ”Anne of Green Gables赤毛のアン” の37章には次のような件(くだり)があります。

「あたし、きょうの午後、マシュウ小父さんのお墓にばらを植えてきたんです」アンは夢見るように言った。「ずっと昔に小父さんのお母さんがスコットランドから持ってきた、小さな白いスコッチローズの小枝を挿し木してきたんです。小父さんは、そのばらがいちばん好きだっていつも言っていました。」

『赤毛のアン』村岡花子訳 37章より

ここに描かれた白バラもブロンテ姉妹とのつながりを示しています。
ウィキペディアには

「ヨーク家のシンボルは白薔薇であり、今もヨークシャーとジャコバイトの記章として使用されている。」

ウィキペディア「ヨーク朝」より

と書かれていますが、ブロンテ姉妹が住んでいたハワースはヨークシャーにある村です。
シャーロット・ブロンテは、 "Jane Eyreジェイン・エア” ではジャコバイトの主要な理論派であったヘンリー・St. ジョン(初代ボーリングブローク子爵)に因んだと考えられるSt. ジョンという名前の人物を描いたり、 "Shirleyシャーリー” では「ジャコバイト」というワードを用いて登場人物のキャラクター付けを行ったりしています。
「ジャコバイト」というのは、元々は1688年の名誉革命で追放されたスチュアート朝のJames2世(スコットランド王としては7世)の復位を支持した政治活動で、スチュアート朝のアン女王が1714年に崩御した後は、James2世の直系男子を正当な国王であるとして度々巻き起こったスチュアート朝復興のための反乱活動を行う人を指し示す名称です。
しかし、19世紀初頭に活躍した歴史作家ウォルター・スコットはその小説の中で、18世紀終わり頃にはすでに現実を動かすような活動ではなくなっており、スコットランド文化を守りたい人々が抱くロマンチックな願望のシンボルとして置いています。
モンゴメリが20世紀初頭に著した物語の中で、女王と同じ "Anne" と綴られることにこだわった少女が、身寄りのない自分を優しく守り育ててくれたマシュウ小父さんのお墓に、スコットランドの小さな白いスコッチローズを植えるというエピソードは、まさにジャコバイトのイメージを連想させるものなのです。

第2節 アルビオンの馬の記憶

1455年から1485年まで続いたイングランドの王位継承をめぐる内戦は、シェイクスピアが『ヘンリー六世』で白バラと赤バラの抗争としてシンボライズして描き、後にウォルター・スコットにより薔薇戦争と名付けられました。
この30年におよぶヨーク家とランカスター家の血で血を洗う争いは、そのロマンティックな呼び名のせいもあり、世界史にそれほど詳しくない人にも知られる史実のひとつとなっています。
ランカスター家=赤バラというシンボライズは、もともと白バラに象徴されたヨーク家と対称する文学的な表現としてシェイクスピアにより創作されたもの。(詳しくは、こちらこちらのサイト様などを参照のこと。)
では、「白バラ」はどこからきたのでしょうか。

ヨーク家やヨークシャー、そしてジャコバイトの記章として用いられ、エミリー・ブロンテも詩の題材としたrosy Blanche白バラ” 。
どうやら白バラのイメージは、英国の人々にとって特別なもののようです。
シャーロット・ブロンテの "Jane Eyreジェイン・エア” 23章の冒頭には、英国は元々Albionアルビオンと呼ばれていたことが書かれていますが、アルビオンの意味は「白」。

「ドーバー海峡沿岸地域に広がる崖のチョーク層(白亜層、石灰岩地層)の白さに、この地がその名を呼ばれるようになった由来がある」

ウィキペディア「アルビオン」より

とウィキペディアにあります。
一方、roseバラは少し複雑です。
手がかりを求めて彷徨っていた私は、「Rose は薔薇ならぬ馬?」というタイトルのサイトと出会いました。
それをヒントに「ros」を調べてみると、コーンウォール語では「(荒れ野ヒースランド)」や「バラ」を意味し、オランダ語では「馬」を意味し、アイルランド語では「森」や「岬」を意味するとありました。
ケルト修道院のOld Melrose古メルローズも、古ウェールズ語では語尾 ”rose” が元々は ”peninsula半島” を意味し、その「半島」は具体的には「地峡」のことだったことは前の章でご紹介した通りです。
つまり、Albionとroseは「白い半島」や「白いヒースランド」あるいは「白い馬」というイメージを表象する組み合わせであり、これはローズマリー・サトクリフが "Sun Horse,  Moon Horse(邦題『ケルトの白馬』)" で描いた「白亜層を浮き彫りにすることで地上に描き出された古代の馬型遺跡」と重なります。
英国にはその昔、青銅器時代に「白い馬」のような造形を白亜層から描き出した時代がありました。
その後のローマによる支配を経ることで roseの意味が転じて、いつからか自らを「白バラ」と認識するようになったのではないでしょうか。
元の意味は失われても、音が残ったのです。
ヨーク家が白バラをシンボルとしていたり、ヨークシャーやジャコバイトが白バラを記章としているのは、古代ブリテン島からのこのような記憶を音の響きの中に持ち続けているからなのでしょう。

第3節 ノーサンブリア王国

ブリテン島の正当な継承者としての誇りを込めた白バラを、歴史の表舞台から降ろされてなお掲げ続ける人たちに強い共感を抱いていたブロンテ姉妹とモンゴメリ。
白バラを記章とするヨークシャーの村ハワースに住んでいたブロンテ姉妹に、白バラへの特別な思いがあることは不思議ではありませんが、カナダのプリンス・エドワード島で生まれ育ったモンゴメリのなかの白バラへの憧憬はどこから来たのでしょうか。
2歳になる前に母を亡くしたモンゴメリは母方の祖父母に育てられましたが、祖父アレクサンダー・マクニールはスコットランドの北西部にあるアウターヘブリディーズ諸島南部を領有していたMacneillマクニール氏族に連なる家系の人でした。
ヘブリディーズ諸島の南に位置するアーガイル地方には、アイルランドのケルト系キリスト教が最初に伝道した地アイオナ島があり、そこからリンディスファーンや古メルローズの地にケルト修道院を創建した人々が渡ってきたという歴史のあるこの島を新婚旅行で訪れているモンゴメリ。

スコットランドはブロンテ姉妹が住んでいたハワースのあるヨークシャーからはだいぶ北に位置します。

しかし、イングランドのほぼ全土がノルマンによる征服を受けるよりも前の時代、アングロサクソンの七王国時代にあった「ノーサンブリア王国」は、北は現スコットランドの首都エディンバラから南は現ヨークシャーまでがその領域でした。

ウィキペディア「ノーサンブリア王国」の地図参照

現デンマークのユトランド半島南部からブリテン島に渡ってきたアングル人が、先住のブリトン人諸王国を次第に征服、同化させて建てた王国の一つがノーサンブリア王国です。
このアングル人の王国が存在したことで、その地に残ったアルビオンの先住者であるブリトン人にとって重要な意味を持つ「白バラ」という表象が、現在でもヨークシャーとジャコバイトの記章として使われているのかもしれません。

ノーサンブリアが王国となる少し前の時代、ブリテン島に勢力を広げつつあったアングル人の王 ”Oswaldオズワルド" は、若い時分に亡命先だったダルリアダ王国でケルト・キリスト教に改宗していたことから、アーガイル地方のアイオナ島からアイルランドの修道士を呼んでケルト修道院を創り、その周辺に住んでいたブリトン人たちにケルト・キリスト教の場を与えました

英語版ウィキペディア”Oswald of Northumbria”参照

アングル人による征服から逃れた多くのブリトン人がいた一方で、アングル人の王国に留まってノーサンブリアの民となった人々がいたのも、やがてノーサンブリアのアングル人たちがケルト・キリスト教へと改宗していったのも、リンディスファーンや古メルローズ修道院があったからこそなのでしょう。
そして、元々は「裸の半島(地峡)」を意味する ”Mailros” という土地の名がMelroseに転化したのも、英語を話すアングル人の侵入とともに ”roseローズ” =バラのイメージが優位になっていったからではないでしょうか。
ノーサンブリア王国をめぐる変遷の中で、前述した古代ブリテン島の音の記憶である「白バラ」のイメージも受け継がれていったものと想像されます。

古メルローズ修道院が創建されてから、やがてダルリアダ王国の王ケネス1世によって滅するまでの期間が、ほぼノーサンブリア王国の年代(西暦653年〜954年)と重なっているのも興味深い事実でしょう。(ただし最後の1世紀は領土の南半分がデーン人によって征服され、王国は衰退。)
ダルリアダというのは、6世紀の始まりに元々アイルランドの北部にあった本拠地からゲール(=スコット)人がアーガイル地方へと進出し、やがて独立してできた王国です。

アーガイルとはゲール語で「ゲール人の上陸地」の意味。
そのアーガイル地方にあるオーバンという海辺の都市から南へ約30キロ離れたダナッドという小高い丘が、ダルリアダ王国の中心地であった。

「武部良伸公式Blog」サイト様より引用

ダルリアダの王ケネス一世は、9世紀に古メルローズを襲撃した後に北方のピクト人を統合してアルバ王国の王となりますが、スコットランド王国はこのケネス一世を始祖としており、現在でもスコットランドはゲール語で ”Albaアルバ” と表記されています。
そして古代王国ノーサンブリアの領地は、北のスコットランドと南のイングランドに分裂するのです。

このようにスコットランドのアーガイル地方は、元々は「自らをアイルランド人と信じるスコット(=ゲール)人の王が支配する地域」であったわけですが、アイルランド北部出身のブロンテの父方と、アーガイルに近いアウターヘブリディーズ諸島出身のモンゴメリの母方の祖父は、同じ文化圏に属していたのでしょう。
そして、ダルリアダ王国の中心地だったダナッドはスコットランドの歴史において重要な場所であったため、最も近くにある都市オーバンまでシャーロット・ブロンテは行って見てみたかったということなのでしょう。
モンゴメリは彼女の代わりにその地を訪れ、そこからアイオナ島などの島々を船で観光していますが、その先に広がる北の海には祖父の先祖の地がありました。

さて、先にも述べたようにブロンテ姉妹が住んでいたヨークシャーもこの古代王国の領域のなかにありましたが、ギャスケル夫人の『シャーロット・ブロンテの生涯』には、彼女たちが暮らした牧師館に隣接するハワース教会堂の塔の銘板に、ノーサンブリア王国が成立するおよそ50年前の西暦600年にその礎石が築かれたことが刻まれているとあります。
その銘板の記録が確かなものかどうかはともかく、想像力溢れるブロンテ姉妹がいにしえの王国に思いを馳せながら子供時代を過ごしたことは想像に難くありません。
幼いシャーロットが弟のブランウェルと遊びながら紡いだ『アングリア物語』。
"Angriaアングリア"の空想上の時空間は、 "Angliaアングリア" (ラテン語で「アングル人の土地」の意味)と字面や音が似ていることから、アングル人の古代王国ノーサンブリアをモチーフにしていたのでしょう。

アイオナ島の修道士によって古メルローズ修道院が建てられた地を、アヴォンリーの元型としたモンゴメリ。
彼女は、聖クスバートが修行したケルト修道院がダルリアダの王ケネス1世に破壊されるまでの歴史の始まりと終わりに、アン・シリーズの始まりと終わり、すなわちアンをグリーン・ゲイブルズに連れて来るマシュウ・クスバートと、アンの娘リラがケネスと結ばれるハッピーエンドとを重ねたのです。

2021年1月追記:英語版ウィキペディア ”Scott's View” から望む景色の手前に写っている "peninsular of land(半島)" がOld Melroseです。
"Scott's View" は眺めの良い場所で、そこから見渡せる南西の景色をウォルター・スコットは生涯愛し、彼の乗った馬はいつもその場所で自ら足を止めたそう。

”Immediately below the viewer is a meander of the Tweed itself, enclosing a peninsular of land on which stood the ancient monastery of Old Melrose, referred to in Bede, where St Boisil welcomed the young St Cuthbert to train following his vision of St Aidan of Lindisfarne in 651ad. ”
(拙訳:すぐ眼下には曲がりくねったツイード川が、古メルローズの修道院がその昔建っていた半島型の地をぐるりと巡り流れゆく。ベーダ僧が残した文献によれば、651年に亡くなったリンディスファーンの聖エイダンのヴィジョンを見たまだ若き聖カスバートが、古メルローズで修行をせんと聖ボワジルに迎えられたとある。)

ウィキペディア "Scott's View" からの引用

「第三部  ウィルが「盗んだ」指輪」へ続く。〜

*ギルバートの名前の由来を考察した新記事「『赤毛のアン』と『マーミオン』〜後編」もどうぞご覧ください。

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