赤毛のアン ヨセフの真実 / 第二部 失われた世界への憧憬
第3章 Anne’s House of Romance
第1節 ボーリングブローク
モンゴメリは、アン・シャーリーの生まれた場所をノヴァ・スコシャの ”Bolingbroke” と名付けました。
しかし、実際のノヴァ・スコシャにはそのような地名はありません。
では、その名前はどこから来たのでしょうか。
これもまた、シャーロット・ブロンテの "Jane Eyre” からのようです。
"Jane Eyre” をお読みになった方はお分かりの通り、そこにも「ボーリングブローク」という名前は出てきません。
しかし、この名前につながる登場人物がいるのです。
"Jane Eyre” の後半で、ロチェスターの屋敷から逃げ出したジェインは無一文で荒野を彷徨いますが、若い牧師とその姉妹が住む荒野荘にたどり着き、一命を取り留めます。
その後いとこ同士(近い血縁という意味での " kindred" )であったことがわかる、その若き牧師の名は ”St. John" 。
ジェインを助けてから10ヶ月後に、布教のため一緒にインドに渡って欲しいとプロポーズするのですが、今でもロチェスターの事が忘れられないジェインに断られたセント・ジョンは一人で旅立ちます。
シャーロット・ブロンテの研究者たちによると、このセント・ジョンのモデルは、22歳のシャーロットに求婚して拒絶されたヘンリーという副牧師(シャーロットの親友エレン・ナッシーの兄)とされています。
実は、この実在の「ヘンリー」と "Jane Eyre” の「セント・ジョン」を二つ合わせた名を持つ歴史上の人物が、アン・シャーリーの生まれに大きく関わっていたのです。
それが「ヘンリー・St・ジョン」、又の名を「初代 "Bolingbroke" 子爵」。
ボーリングブローク子爵は ”Anne of Green Gables” ならぬ “Anne of Great Britain” 、すなわちアン女王時代のトーリー党政権下で国務大臣を歴任した人物です。
アン女王崩御の後に失脚してフランスに亡命し、アン女王で終わってしまった "Stuart"朝を復興させるため、同じくフランスに亡命していたJames3世(スコットランド王としては8世)をGreat Britain王国の君主の座に付けようとしました。
つまりモンゴメリは、生まれて3ヶ月で両親を熱病で亡くしたアンの生まれ故郷を、スチュアート朝再興に奔走した人物に因んでボーリングブロークと名付けたのです。
モンゴメリの中の「失われた世界への憧憬」が滲んで見える名前と言えます。
第2節 スコットランドへの忠誠
さてここで、ボーリングブローク子爵が再興させようとした "Stuart" 朝について、少しまとめておきましょう。
スコットランドと、後にはイングランドの歴代君主を輩出した "Stuart" 家は、その祖先をフランス・ブルターニュ地方の "Dol"に居た "Breton" 人の小貴族アランに遡ることができます。
このアランの息子であるフラールド・フィッツアランと孫のアランが、イングランド王ヘンリー1世の要請でイングランドに移住したとされています。
12世紀になると、フラールドの孫ウォルター・フィッツアランが、イングランド王ヘンリー1世を父に、スコットランド王の娘を母にもつモードという女性を支えたことで、モードの叔父であるスコットランド王デイヴィッド1世から "Lord High Steward" に任命され、これが家名になりました。
因みにシャーロット・ブロンテの "Villette” 41章にある、主人公ルーシー・スノウがポール・エマニュエル教授に告げた台詞
は、この史実を想起させるがゆえに一層印象的なものとなっているのです。
さて、13世紀の終わり頃にイングランドがスコットランドを属国にしようと侵略した際に、ロバート・ブルース王の下でスコットランドは息を吹き返し、1314年のバノックバーンの戦いで大勝利して、スコットランドは独立を保ちます。
とされるロバート・ブルース王の娘婿となったのが、スチュアート家6代目にあたるウォルター・スチュアートでした。
こうしてスコットランド王室に連なったスチュアート家の7代目がロバート2世として1371年に即位、スコットランドにスチュアート朝が開かれます。
ちなみに、Stuartは Stewardのフランス語形で、意味は同じです。
フランス帰りのメアリ女王の時代に Stewardが Stuartに改められました。
ところで、シャーロット・ブロンテが "Jane Eyre” の32章と33章で引用し、モンゴメリの ”Anne of Green Gables” 29章にも引用されている詩『マーミオン』は、18世紀後半から19世紀前半に活躍した詩人・小説家であるウォルター・スコットの作品ですが、この詩人の祖先は「スチュアート朝の庶流の分流」とされています。
ウォルター・スコットは、英国の人々の暮らしの中から消えかかっていたスコットランドの文化を、ロマンティックな詩や歴史小説を通じて再評価した作家ですが、10代の頃のモンゴメリもこの大人気作家が著した ”Gypsy stories” と呼ばれる作品の数々を愛読していたと日記に書いています。
このウォルター・スコットと同じ名を、アン・シャーリーの父親だけでなくアンの息子ウォルターにも名付けているモンゴメリは、新婚旅行で英国を巡った折に、彼のモニュメントの立つエディンバラ・ウェイヴァリー駅から列車で "Abbotsford House" へと向かう聖地巡礼を行なっています。
アボッツフォード邸は、フランスからの亡命者だったシャーロット・シャーパンティア(あるいはカーペンター)という女性と結婚したスコットが、物語詩で名声を博してから移り住んだ邸宅です。
スコットランドのボーダーズ地方にあるメルローズ修道院の "Abbots" が渡ったツイード川の "ford" のそばにあることから、ウォルター・スコット自ら "Abbotsford" と名付けたこの邸宅で、後世に多大なる影響を与えた数々の歴史小説が生まれました。
スコットランドの廃墟となった城や修道院から運んだ彫刻石を壁に貼り、ミニチュアのお城の様なその外観も手伝って、モンゴメリが訪れた当時も人気スポットだったため、とても混んでいて難儀したことが日記や自叙伝に書かれています。
アボッツフォード邸から真東に3マイル(グーグルのルート検索による)の地にある "Melrose Abbey" は、歴代の王や貴族が眠るかつてのスコットランドの母教会の遺跡で、1921年にはロバート・ブルース王の心臓が入った小箱が見つかっています。
モンゴメリは、王の心臓が入った小箱が発見される10年前にメルローズ修道院の廃墟を訪れ、感慨に耽っています。
ロバート・ブルース王の名のフランス語表記はRobert de Bruys。
この "Bruys"、ブライスと読めませんか?
さて、1850年の夏、生涯最初で最後のスコットランドを旅したシャーロット・ブロンテも、その2〜3日の短い滞在中、エディンバラやメルローズ、アボッツフォード邸を訪れていて、その時に受けた感銘を、彼女の才能を最初に認めた出版人の W.S.ウィリアムズに次のように書き送っています。
まるでシャーロット・ブロンテのスコットランド旅行をなぞるように、スコットランドを旅したモンゴメリは、新婚旅行の最初の目的地として「グラスゴーからオーバン」まで足を伸ばしています。
そこはエディンバラやメルローズのアボッツフォード邸を訪れたシャーロットが、そのまま旅を続けたいと願いながらも叶わなかった地です。
シャーロットはなぜ、アーガイル地方の一都市オーバンに行きたかったのでしょうか。
そして、モンゴメリはなぜその地を訪ねたのでしょうか。
第4章 原郷の地
第1節 アヴォンリーは古メルローズ
プリンス・エドワード島の地図を見ても、「両側に水をひかえている」「セント・ローレンス湾につき出た三角形の小さな半島」はちょっと見当たりません。
強いていうなら島の西端に「湾につき出た」部分がありますが、後はただ緩やかに湾曲している綺麗な海岸線がスゥーっと伸びているだけで、どうも様子が異なります。
さて前の章で、スチュアート家の祖であるケルト系英国人Bretonについて触れましたが、ブレトンが居たフランスのブルターニュは、ローマ時代にはArmoricaと呼ばれていました。
Armoricaは、同じくケルト系の言葉であるウェールズ語の ”Ar y Mor” と同じ ”Place by the Sea” という意味です。
モンゴメリが生まれ育ったプリンス・エドワード島は、まさに ”Place by the Sea” 。
しかし、 ”Anne of Green Gables” の舞台としてモンゴメリが描写した「プリンス・エドワード島」は、現実のプリンス・エドワード島そのものではないように思われます。
同じく前章でご紹介したスコットランドのボーダーズ地方にある "Melrose Abbey" は1124年に建てられていますが、その真東3マイル(グーグルのルート検索による)の場所には "Saint Aidan of Lindisfarne" という人物がメルローズ修道院の500年も前に創建した、 "Old Melrose" というケルト修道院があったそうです。
この古メルローズの元々の呼び名は、
という意味だそうですが、「半島」といってもこれは
のことを指しているとウィキペディアにあります。
「地峡」とは何か、調べてみると、
のことであり、地図で確かめると古メルローズのあった場所はツイード川が大きく湾曲した、その内側の陸地部分でした。
モンゴメリが 、
"Avonlea occupied a little triangular peninsula(アヴォンリーは小さな三角形の半島を占めている)"
"with water on two sides of it,(両側に水をひかえている)"
と描き出しているアヴォンリーの形状と、古メルローズの建っていた場所の地形は、とても似ています。
2020年11月追記:現在の "Old Melrose" の風景はこちらをご覧ください。
第2節 マシュウとマリラの由来
古メルローズを創建したリンディスファーンの聖エイダンは、651年に亡くなります。
その時、聖カスバートと後の世に呼ばれることになる人物が、”a vision on the night(聖エイダンが天使に導かれて天国へ昇る夢)” を見たことで、その意志を継ぐものとなったと言い伝えられています。
聖カスバートは古メルローズの近くで育った人で、そこで修行した後に聖エイダンが古メルローズよりも前に開いたリンディスファーン修道院の島に移って活動を始め、やがて英国でもっとも有名な聖人になったそうです。
しかし、様々な場所へ布教に歩いた人生の晩年は、一人庵に籠って黙想的な生活を望んだとか。
リンディスファーン修道院のある島は、今でも ”Holy Island” と呼ばれ、モンゴメリも新婚旅行で訪れています。
古メルローズの地には、 "Saint Aidan of Lindisfarne" と "Saint Cuthbert" が居たわけですから、 ”Anne of Green Gables” の "Lynde" 夫人、並びにマシュウとマリラの "Cuthbert" 兄妹のそれぞれの苗字はここに由来しており、古メルローズはアヴォンリーの原型であると言っても良いのではないでしょうか。
ケルト系であるブリトン人の居住地に、リンディスファーンの聖エイダンがケルト・キリストの教えの場を開いた歴史と、リンド夫人が ”Anne of Green Gables” の物語の扉を開く役回りとが重なりますし、またどちらのクスバートもその土地を豊かに耕している、そんなイメージです。
LindとLyndeはスペルが異なりますが、モンゴメリは綴りにこだわっていないことは『ブロンテになりたかったモンゴメリ』のII章でも触れました。
『モンゴメリ書簡集I』にある1911年5月4日の手紙の原注***には次のように書かれています。
モンゴメリがスペルにこだわらなかったのは、綴りが苦手だったからではありません。
育ての親である母方の祖父から、スコットランドの血を受け継ぐモンゴメリにとって、スコットランド由来の名前は、歴史的勝者であるイングランド式綴りよりも、その「音」こそが大切だったのでしょう。
だから「リンド」のスペルの違いも、気にしなくて良いのです。
それと同じことが、「アヴォンリー」にも言えるのではないでしょうか。
一般的に "Avonlea" という架空の名前は、シェイクスピアの生誕地である "Stratford-upon-Avon" から取られたとされています。
しかし、「アヴォン」と「エイヴォン」ではモンゴメリにとって大切な「音」が違うのです。
それよりも、前述したように古メルローズの地がアヴォンリーの元型であるならば、その3マイル(拙注1)西にある "Melrose Abbey" のAbbeyの ”Ab” や、そのまた3マイル(拙注2)西にあるウォルター・スコットの "Abbotsford" 邸の ”Ab” から、アヴォンリーのアブの音が取られた可能性もあるのではないでしょうか。(拙注1と2:どちらの表記もグーグルのルート検索による。)
ちなみに、 ”Anne of Green Gables” 37章でマシュウはアベイ銀行が破産したニュースを知り、ショックで亡くなってしまうのですが、その「アベイ」のスペルもAbbeyで「修道院」という意味です。
モンゴメリの言葉の響きへの鋭い感性は、 ”Anne of Green Gables” 5章に置かれた次の二つの印象的なシーンからもよくわかります。
後者のアンのセリフは、音と匂いの豊かな共感覚を持つモンゴメリの感性が、シェイクスピアの『ロミオとジュリエット』にある
というジュリエットの言葉を「真逆」に置いたものですが、モンゴメリと同じ共感覚を持った人でなければシェークスピアをもじったとしか受け取れないかも知れません。
「音楽みたいな響きがする」アヴォンリーの由来についても、もう少し沼深く考察したいところですが、それは第五部 補章その1にて試みることにします。
2021年2月1日追記:上記引用箇所の前後には、アンの次のようなセリフがあります。
ジェデディア(原文表記 ”Jedediah” )というのは、ウォルター・スコットのいわゆるペンネームで、有名なウェイバリー小説群の一部分を成す ”Tales of My Landlord” シリーズは、このJedediahという名の架空のエディターによって出版されたことになっています。
”Anne of Green Gables” 出版当時の読者たちは、ウォルターだのジェデディアだのというアンのセリフから、当然のようにウォルター・スコットを連想して、こまっしゃくれたアンのセリフを面白がったのでしょう。
尚、Jedediahの日本語表記には「ジェディダイア」もあります。
次にご紹介するのは、スコットランドをイングランドの侵略から守り抜いた王ロバート・ブルースの時代である1320年に、 "Abbot of Arbroath" が書き下ろしたとされる独立宣言からの一部抜粋です。
エミリー・ブロンテの有名な詩「富は問題にならぬ」の原型とも思えるこの格調高い宣言書には、スコットランドの人々が抱く血筋への強い誇りが感じられます。
なお、この独立宣言の500年も前である839年に古メルローズ修道院を襲撃したダルリアダ王国の王 "Kenneth I " が、スコットランドの最初の王となったという伝説があるそうです。
これについては第5章3節をご参照ください。
第3節 川と森の重なり合うイメージ
”Anne of Green Gables” の冒頭で、アヴォンリーの小川は「ずっと奥の方のクスバート家の森から」リンド夫人の住む窪地へと流れ、森の奥には「思いがけない淵や、滝などがあって、かなりの急流だそう」と描写されています。
前章にも書いたように、アヴォンリーが占めているのは「小さな半島」であり、奥まったところにあるクスバート家の森は、アヴォンリーの出入り口に当たる丘やそれを臨むリンド夫人の窪地よりも「湾につき出た」側にあるのですが、なぜかそこは海ではなく森に囲まれたような風景が描写されています。
なんとも不思議な場所から流れてくるアヴォンリーの小川は、もしかしたらウォルター・スコットが『マーミオン』のなかで謳ったスコットランドのボーダーズ地方を流れるツイード川のイメージから、モンゴメリの想像力が描き出したものかもしれません。
上流域はスコットランドの山あいの谷間を流れ、アボッツフォード邸やメルローズ修道院、古メルローズの跡を通り抜け、下流域はそのままイングランドとの境界線となって北海へと注ぐ、大きく蛇行して流れるツイード川。
その全長は156キロもあり、上流には「マーリンの谷 "Merlin's Valley" 」という伝説の場所もあるのだとか。
この情景を『マーミオン』の物語詩からイメージしながらプリンス・エドワード島の風景に重ねて描いた空想世界が、 ”Anne of Green Gables " の舞台アヴォンリーであったと思われます。
さて、アヴォンリーの小川の源を隠すクスバート家の森は、 ”Anne of Green Gables” の1章でこんな風に描写されています。
そして、そのリンド夫人曰く
という場所です。
実は、これととても似た描写がされている場所が、シャーロット・ブロンテが描いた "Jane Eyre” のラストに出てきます。
それは "Ferndean" の館。
ソーンフィールドの邸宅が焼け落ちて、火を出した張本人である狂った妻バーサ(アン・シャーリーのお母さんと同じ名ですね)が死に、彼女を助けようとして両目の視力と右手を失ったロチェスター。
今はソーンフィールドから「三十マイルほど離れた」「ずっと辺鄙で奥まった」土地にあるファーンデインに、老夫婦の召使2人とひっそり暮らしていたのですが、そこにジェインが現れるという展開です。
ファーンデインの "fern" は植物のシダのことで、前に触れたリンディスファーン修道院の "farne" とは、スペルは異なりますが同じ音。
と、ウィキペディアに書かれていますから、スペルは違ってもどちらのファーンも植物のシダを意味しています。
とブロンテの研究者が記しているように、
というファーンデインの館は、ジェイン・エアが来たことでこの世で一番幸せな場所へと変わります。
それと同様、 ”Anne of Green Gables” では人里離れた森の手前に建つグリーン・ゲイブルズが、アン・シャーリーが来たことで喜びの場へと変わっていくストーリー。
シャーロット・ブロンテはきっと、古のリンディスファーン修道院の音が生みだすイメージから、ロチェスターが小妖精と呼ぶジェイン・エアが永久に住む場として、ファーン(シダ)の生えた森の中のファーンデインを描き出したに違いありません。
そして今度はモンゴメリが、自らの日記や手紙で小妖精と呼ぶアン・シャーリーと、ファーンデインのファーンの音が連想させる聖クスバートとリンディスファーンの聖エイダンからクスバート兄妹とリンド夫人を創り出し、古のケルト修道院があった土地の地形を模った空想の場所を "Abbey" "Abbots" の ”Ab” の音を生かしたアボンリーと呼んで彼らを住まわせた・・・。
こうしてみると、 "Green Gables" の切り妻屋根は、ペンキで塗られた緑色ではなく、ファーンデインのように苔むした緑であり、そうした「侘び寂び」に通じる世界観が根底に流れているからこそ、それを感じ取ることのできる日本で根強い人気となっているのかもしれません。
第5章 白バラのヴィジョン
第1節 マシュウのスコッチローズ
モンゴメリとシャーロット・ブロンテは、「失われた」スコットランドにロマンティックな郷愁をいだく感性をもつという点で共通しており、そんなシャーロットの作品から得た数々のインスピレーションが ”Anne of Green Gables” の初期設定に込められていることはこれまで示した通りです。
とマリラにぼやく針仕事が苦手な少女アン・シャーリーが、シャーロット・ブロンテが
と "Shirley” で描いたシャーリー・キールダーと似ているのも、アン・シャーリーの瞳が時にシャーロット・ブロンテの "Jane Eyre” のジェインと同じ緑色であったり、時にシャーリー・キールダーと同じ灰色であるのも、決して偶然ではないのです。
ところで、 ”Anne of Green Gables” の37章には次のような件(くだり)があります。
ここに描かれた白バラもブロンテ姉妹とのつながりを示しています。
ウィキペディアには
と書かれていますが、ブロンテ姉妹が住んでいたハワースはヨークシャーにある村です。
シャーロット・ブロンテは、 "Jane Eyre” ではジャコバイトの主要な理論派であったヘンリー・St. ジョン(初代ボーリングブローク子爵)に因んだと考えられるSt. ジョンという名前の人物を描いたり、 "Shirley” では「ジャコバイト」というワードを用いて登場人物のキャラクター付けを行ったりしています。
「ジャコバイト」というのは、元々は1688年の名誉革命で追放されたスチュアート朝のJames2世(スコットランド王としては7世)の復位を支持した政治活動で、スチュアート朝のアン女王が1714年に崩御した後は、James2世の直系男子を正当な国王であるとして度々巻き起こったスチュアート朝復興のための反乱活動を行う人を指し示す名称です。
しかし、19世紀初頭に活躍した歴史作家ウォルター・スコットはその小説の中で、18世紀終わり頃にはすでに現実を動かすような活動ではなくなっており、スコットランド文化を守りたい人々が抱くロマンチックな願望のシンボルとして置いています。
モンゴメリが20世紀初頭に著した物語の中で、女王と同じ "Anne" と綴られることにこだわった少女が、身寄りのない自分を優しく守り育ててくれたマシュウ小父さんのお墓に、スコットランドの小さな白いスコッチローズを植えるというエピソードは、まさにジャコバイトのイメージを連想させるものなのです。
第2節 アルビオンの馬の記憶
1455年から1485年まで続いたイングランドの王位継承をめぐる内戦は、シェイクスピアが『ヘンリー六世』で白バラと赤バラの抗争としてシンボライズして描き、後にウォルター・スコットにより薔薇戦争と名付けられました。
この30年におよぶヨーク家とランカスター家の血で血を洗う争いは、そのロマンティックな呼び名のせいもあり、世界史にそれほど詳しくない人にも知られる史実のひとつとなっています。
ランカスター家=赤バラというシンボライズは、もともと白バラに象徴されたヨーク家と対称する文学的な表現としてシェイクスピアにより創作されたもの。(詳しくは、こちらとこちらのサイト様などを参照のこと。)
では、「白バラ」はどこからきたのでしょうか。
ヨーク家やヨークシャー、そしてジャコバイトの記章として用いられ、エミリー・ブロンテも詩の題材とした ”rosy Blanche” 。
どうやら白バラのイメージは、英国の人々にとって特別なもののようです。
シャーロット・ブロンテの "Jane Eyre” 23章の冒頭には、英国は元々Albionと呼ばれていたことが書かれていますが、アルビオンの意味は「白」。
とウィキペディアにあります。
一方、roseは少し複雑です。
手がかりを求めて彷徨っていた私は、「Rose は薔薇ならぬ馬?」というタイトルのサイトと出会いました。
それをヒントに「ros」を調べてみると、コーンウォール語では「(荒れ野)」や「バラ」を意味し、オランダ語では「馬」を意味し、アイルランド語では「森」や「岬」を意味するとありました。
ケルト修道院のOld Melroseも、古ウェールズ語では語尾 ”rose” が元々は ”peninsula” を意味し、その「半島」は具体的には「地峡」のことだったことは前の章でご紹介した通りです。
つまり、Albionとroseは「白い半島」や「白いヒースランド」あるいは「白い馬」というイメージを表象する組み合わせであり、これはローズマリー・サトクリフが "Sun Horse, Moon Horse(邦題『ケルトの白馬』)" で描いた「白亜層を浮き彫りにすることで地上に描き出された古代の馬型遺跡」と重なります。
英国にはその昔、青銅器時代に「白い馬」のような造形を白亜層から描き出した時代がありました。
その後のローマによる支配を経ることで roseの意味が転じて、いつからか自らを「白バラ」と認識するようになったのではないでしょうか。
元の意味は失われても、音が残ったのです。
ヨーク家が白バラをシンボルとしていたり、ヨークシャーやジャコバイトが白バラを記章としているのは、古代ブリテン島からのこのような記憶を音の響きの中に持ち続けているからなのでしょう。
第3節 ノーサンブリア王国
ブリテン島の正当な継承者としての誇りを込めた白バラを、歴史の表舞台から降ろされてなお掲げ続ける人たちに強い共感を抱いていたブロンテ姉妹とモンゴメリ。
白バラを記章とするヨークシャーの村ハワースに住んでいたブロンテ姉妹に、白バラへの特別な思いがあることは不思議ではありませんが、カナダのプリンス・エドワード島で生まれ育ったモンゴメリのなかの白バラへの憧憬はどこから来たのでしょうか。
2歳になる前に母を亡くしたモンゴメリは母方の祖父母に育てられましたが、祖父アレクサンダー・マクニールはスコットランドの北西部にあるアウターヘブリディーズ諸島南部を領有していたMacneill氏族に連なる家系の人でした。
ヘブリディーズ諸島の南に位置するアーガイル地方には、アイルランドのケルト系キリスト教が最初に伝道した地アイオナ島があり、そこからリンディスファーンや古メルローズの地にケルト修道院を創建した人々が渡ってきたという歴史のあるこの島を新婚旅行で訪れているモンゴメリ。
スコットランドはブロンテ姉妹が住んでいたハワースのあるヨークシャーからはだいぶ北に位置します。
現デンマークのユトランド半島南部からブリテン島に渡ってきたアングル人が、先住のブリトン人諸王国を次第に征服、同化させて建てた王国の一つがノーサンブリア王国です。
このアングル人の王国が存在したことで、その地に残ったアルビオンの先住者であるブリトン人にとって重要な意味を持つ「白バラ」という表象が、現在でもヨークシャーとジャコバイトの記章として使われているのかもしれません。
アングル人による征服から逃れた多くのブリトン人がいた一方で、アングル人の王国に留まってノーサンブリアの民となった人々がいたのも、やがてノーサンブリアのアングル人たちがケルト・キリスト教へと改宗していったのも、リンディスファーンや古メルローズ修道院があったからこそなのでしょう。
そして、元々は「裸の半島(地峡)」を意味する ”Mailros” という土地の名がMelroseに転化したのも、英語を話すアングル人の侵入とともに ”rose” =バラのイメージが優位になっていったからではないでしょうか。
ノーサンブリア王国をめぐる変遷の中で、前述した古代ブリテン島の音の記憶である「白バラ」のイメージも受け継がれていったものと想像されます。
古メルローズ修道院が創建されてから、やがてダルリアダ王国の王ケネス1世によって滅するまでの期間が、ほぼノーサンブリア王国の年代(西暦653年〜954年)と重なっているのも興味深い事実でしょう。(ただし最後の1世紀は領土の南半分がデーン人によって征服され、王国は衰退。)
ダルリアダというのは、6世紀の始まりに元々アイルランドの北部にあった本拠地からゲール(=スコット)人がアーガイル地方へと進出し、やがて独立してできた王国です。
ダルリアダの王ケネス一世は、9世紀に古メルローズを襲撃した後に北方のピクト人を統合してアルバ王国の王となりますが、スコットランド王国はこのケネス一世を始祖としており、現在でもスコットランドはゲール語で ”Alba” と表記されています。
そして古代王国ノーサンブリアの領地は、北のスコットランドと南のイングランドに分裂するのです。
このようにスコットランドのアーガイル地方は、元々は「自らをアイルランド人と信じるスコット(=ゲール)人の王が支配する地域」であったわけですが、アイルランド北部出身のブロンテの父方と、アーガイルに近いアウターヘブリディーズ諸島出身のモンゴメリの母方の祖父は、同じ文化圏に属していたのでしょう。
そして、ダルリアダ王国の中心地だったダナッドはスコットランドの歴史において重要な場所であったため、最も近くにある都市オーバンまでシャーロット・ブロンテは行って見てみたかったということなのでしょう。
モンゴメリは彼女の代わりにその地を訪れ、そこからアイオナ島などの島々を船で観光していますが、その先に広がる北の海には祖父の先祖の地がありました。
さて、先にも述べたようにブロンテ姉妹が住んでいたヨークシャーもこの古代王国の領域のなかにありましたが、ギャスケル夫人の『シャーロット・ブロンテの生涯』には、彼女たちが暮らした牧師館に隣接するハワース教会堂の塔の銘板に、ノーサンブリア王国が成立するおよそ50年前の西暦600年にその礎石が築かれたことが刻まれているとあります。
その銘板の記録が確かなものかどうかはともかく、想像力溢れるブロンテ姉妹がいにしえの王国に思いを馳せながら子供時代を過ごしたことは想像に難くありません。
幼いシャーロットが弟のブランウェルと遊びながら紡いだ『アングリア物語』。
"Angria"の空想上の時空間は、 "Anglia" (ラテン語で「アングル人の土地」の意味)と字面や音が似ていることから、アングル人の古代王国ノーサンブリアをモチーフにしていたのでしょう。
2021年1月追記:英語版ウィキペディア ”Scott's View” から望む景色の手前に写っている "peninsular of land(半島)" がOld Melroseです。
"Scott's View" は眺めの良い場所で、そこから見渡せる南西の景色をウォルター・スコットは生涯愛し、彼の乗った馬はいつもその場所で自ら足を止めたそう。
〜「第三部 ウィルが「盗んだ」指輪」へ続く。〜
*ギルバートの名前の由来を考察した新記事「『赤毛のアン』と『マーミオン』〜後編」もどうぞご覧ください。
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