赤毛のアン ヨセフの真実 / 第五部 補章編 アヴォンリーとマリラの名前
補章 その1 "Avonlea" は創造的アナグラム
本稿第4章2節で、 "Avonlea" はシェイクスピアの生誕地の "Avon" からではなく、 "Abbey” や "Abbot” の ”Ab” の音からネーミングされた可能性について触れました。
確かにストラトフォード・アポン・エイヴォンの "Avon" の綴りは "Avonlea" の語頭と同じであり、モンゴメリがシェイクスピアに因んだという解釈が定説となるのも不思議ではありませんが、モンゴメリはスペルよりも音に重きを置いた人。(詳細は第4章2節を参照。)
「エイヴォンリー」ではなく「アヴォンリー(またはアボンリー)」と発音されている "Avonlea" が、エイヴォンを直接の由来と考えるのはやはり不自然に思われます。
例えば、アーサー王伝説の島 "Avalon” が、モンゴメリの想像の世界の原型のひとつとなっていたのかもしれません。
"Avalon”のアナグラム ”Avonla” の ”la” を詩語の ”lea(草原)” に置き換えることで、 "Avonlea" という言葉が出来上がります。
これ以上に自然な繋がりを感じるのは、シャーロット・ブロンテの『ジェイン・エア』に出てくるキーワードのひとつ、英国の古名 ”Albion” が、アナグラムにすると ”Abonli” となり「アボンリー」と読めることです。
モンゴメリの愛読書の一つにブルワー・リットンが著した "Zanoni” という不死の男が活躍する冒険奇譚があり、彼女は日記や手紙にこの物語からの不思議な言葉、 "young Chaldean” をたびたび引用しています。
このカルデア人たちが居た古代メソポタミア文明の公用語であるシュメール語で、”ab”は「水」を意味しているとウィキペディアの補足の項にあります。
一方、英国の古名 ”Albion” からできるアナグラム ”Abonli” の語尾の ”li” は「草原」の意味を持つ詩語”lea”に置きかえることができます。
"ab" と "li" から "ab on lea" 「草原の上の水」、つまり草原を流れる川の情景を想像したモンゴメリが英国の古名から生み出したアナグラム “Abonli” が "Avonlea" の由来のひとつと考えられます。
草原を流れる川のイメージはスコットランドのボーダーズ地方を流れるツイード川の風景と重なり、その流域の古メルローズ修道院の建っていた場所の地形と、モンゴメリが「両側に水をひかえている」と描写した "Avonlea" のそれと同じである(詳細は第4章1節参照)ことからも、この可能性は高いと言えるでしょう。
このように、"Avonlea" という地名は何かひとつのことに由来するのではなく、英国の歴史や文学に造詣の深かったモンゴメリが、その独特の詩的感性で音楽のような響きの "Avonlea" を紡ぎ出したと考えられるのです。
ところで、"メソポタミア" はギリシア語で「川の間の地」という意味。
古メルローズ修道院の建っていた場所が、「両側に水をひかえている」"Avonlea" の元型であるとすれば、モンゴメリは古メルローズのケルト修道院は創建当時の人々にとってメソポタミアの再現として形作られた、とイメージしていたのかもしれません。
これについてはまた別の機会にお話できればと思います。
補章 その2 アン・ブロンテの没年齢
これは、エリザベス・ギャスケルが『シャーロット・ブロンテの生涯』で紹介しているハワース教会にある銘板の碑銘の写しです。
これによると、アン・ブロンテの享年は「27歳 ”AGED 27 YEARS"」であることがわかります。
一方、アン・ブロンテが死に際して訪れた海辺の町スカーバラにある、彼女の遺骸が葬られた墓には、”She died Aged 28 MAY 28th 1849”と墓石に彫られていることがウィキペディアの写真からわかります。
アン・ブロンテが亡くなって3年後に墓詣りに訪れたシャーロットが、そこに彫られた事柄に五ヶ所の誤りがあることに気づき「磨きなおして文字を入れなお」す「手配をし」たのだそうですが、享年については「28歳 "Aged 28"」と表記されたままであることから、2011年にブロンテ協会がアンの墓碑の横に、
と説明する銘板を新たに設置したことが、写真付きで紹介されています。
この訂正銘板にあるように、ブロンテ協会はアン・ブロンテの享年を29歳としているのです。
いったいどれが本当のアン・ブロンテの享年なのでしょうか。
彼女の享年の謎を解くヒントは、ハワース教会にあるブロンテ家の壁銘板にあります。
ハワースの教会には、亡くなった順に母マリア(またはマライア)、長女マリア(マライア)、次女エリザベス、長男ブランウェル、四女エミリー、末娘アンまでの碑銘で一杯になった一つ目と、その下に置かれたシャーロットの埋葬の時に新たに造られたものの二つの壁銘板が納められているそうです。
残念なことに、いずれの銘板も風化してしまって現在では判読できないようですが、その写しを記録したギャスケル夫人の『シャーロット・ブロンテの生涯』から碑銘を確認すると、
となっています。
ここには二つの特徴的な事柄が見て取れます。
一つ目は、母からエリザベスまでと、シャーロットの享年は ”IN THE 〇〇TH YEAR OF HER AGE” となっている一方で、ブランウェルからアンまでのそれは “AGED 〇〇 YEARS”となっていること。
二つ目は、生年と没年から計算される「満年齢」と比べると、”IN THE 〇〇TH YEAR OF HER AGE” と書かれている場合は「一つ上の歳」となっている一方で、”AGED 〇〇 YEARS “と書かれている場合は「一つ下の歳」となっていることです。
ブロンテ一家の家族それぞれの生まれた年と死亡時の満年齢は、後世の研究から次のように判明しています。
スカーバラのアン・ブロンテの墓碑には
とあります。
スカーバラのアンの墓碑にある享年も ”Aged 28 ”と書かれていることから、1848年から1849年の間は何らかの理由で満年齢より一つ下の歳を”Aged 〇〇(YEARS) ”と記銘する様式があったと考えられます。
この時期はシャーロットが32歳から33歳の間にあたり、彼女が亡くなって以降の碑銘は “IN THE 〇〇TH YEAR OF HER AGE “に戻っているので、もしかするとシャーロットがこの特徴的な様式での記銘を弟妹のために望んだのかもしれません。
ここで、二つの墓碑に刻まれたアン・ブロンテの享年を満年齢に置き換えてみましょう。
このことから、ブロンテ協会が2011年に作った銘板にある”aged 29” は、スカーバラの墓銘を根拠にした満29歳であることが伺われます。
しかしそうなると、"The text contains one error (表記には一箇所誤りがあります)” の意味がわからなくなります。
墓碑に刻まれた享年を「誤り」としながら、それが正しい場合の満年齢で訂正していることになるからです。
もし、墓碑に刻まれた ”Aged 28”が間違いで、満29歳をそのまま ”Aged 29” と記すことが正しいとするなら、 ハワース教会の碑銘に刻まれたブランウェルとエミリーそれぞれの享年も満年齢をそのまま記していないので間違いである、ということになります。
こうしてみると、アン・ブロンテが亡くなって3年後にスカーバラを墓詣りに訪れたシャーロットが、そこに彫られた事柄にいくつかの誤りがあることに気づき訂正させた箇所の中に「 28 」という数字が含まれていたのかが気になります。
シャーロットは、満年齢より一つ少なく記す ”Aged 〇〇 ”という様式を採用しているので、28が訂正された後のものか、訂正される必要がないもののどちらにしても、満29歳で亡くなったことになりますが、訂正されるべきであったのに訂正から漏れたとすれば、本来は "aged 27" と刻まれるはずだったのかもしれません。
満年齢よりも一歳若く記銘する様式に馴染みのないスカーバラの墓石職人が、「シャーロットさんから『満28歳で亡くなったのだから "Aged 27" に直しておいて』と頼まれたけど、満年齢に一つ加えた歳が享年のはずだから『29に直せ』の指示間違いじゃないだろうか。でも、"in the 29th year of her age" と言う様式に直せとは言われなかったし、"Aged 〇〇"と書くのは満年齢の時なんだろうから、亡くなった時に満28歳だったら28のままで良いんじゃないか。」と考え、訂正から漏れた可能性は否定できません。
その場合、シャーロットが考えていたアンの死亡時の満年齢は28歳なので、(亡くなった年1849年から28を引くと)誕生年は1821年ということになります。
これは、ハワースの彼女の碑銘から考えた満年齢や誕生年と同じです。
現在アン・ブロンテの生年は1820年であり、満29歳で亡くなったというのが定説となっていますが、それではハワース教会の碑銘が誤りということになります。
1820年説がとられるのは、ブロンテ一家が1820年4月にハワースに引っ越してくる前に子供たちは6人全て生まれていたという父親や村人たちの証言があるのと、アンは1月17日生まれである一方で、癌を患っていた母マリアが1821年1月に危篤となり9月に亡くなっていることから、危篤の母からアンが生まれるのは不自然ということのようです。
補章 その3 Nelson とMacneill 、そして「マリラ」
よく知られているように、ブロンテ姉妹の父パトリックは、もともとはブロンテという姓ではありませんでした。
パトリックがケンブリッジ大学の学生だった当時、1802年にBrunty(あるいはBruntee)からBronteに改姓したことがわかっています。
その三年前にイギリス海軍提督 "Horatio Nelson" が、ナイルの海戦の勝利を祝してナポリ王国・シチリア王国から「ブロンテ公爵」という爵位を授けられたことにちなんだ改姓でした。
ネルソン提督は当時、 "most famous Briton in the world" と呼ばれていた人物です。
シャーロット・ブロンテが『ヴィレット』の冒頭で、自らを投影した主人公ルーシー・スノウの育ての親であり「名付け親」でもある"Louisa Bretton"夫人を ”Bretton of Bretton"と紹介しているのは、こうした背景があるからでしょう。
自分たちBronte家の「名付け親」は、"Breton of Breton"のブロンテ公爵ネルソンなのだというシャーロットの強烈な自負心の現れが、物語の始まりをそう置かせたのではないでしょうか。
そんなシャーロットが育ったブロンテ家の出自を辿ると、コーンウォール出身の母はケルト系のブリトン人であることが推察されますが、アイルランド北部出身の父は果たして、アイルランドからスコットランドに進出したゲール人(=スコット人)と同じであるのか、逆にアイルランドに入植したブリトン人であるのかがわかりません。
しかし父パトリックの出自に関しては、モンゴメリとのひとかたならぬ因縁があることがわかりました。
これからのお話の前提として、まずスコットランド人についての説明から始めましょう。
紀元500年頃、スコットランドのキンタイア半島にアイルランドのスコット人(拙注:スコットはゲールのラテン語名。ブリテン島北部に先住していたピクト人も近年ではゲール人とみなされており、アーガイル地方に遅れてやってきた民を呼ぶ際には本稿ではスコット人としています。)ファーガス・モー・マク・エルクが上陸、ダルリアダ王国を建国。
9世紀にダルリアダ王ケネス1世がピクト人の王国アルバ "Alba"の王となりますが、このことからケネス1世はスコットランド王朝の始祖と位置付けられており、また現在でもスコットランドはゲール語でAlbaと表記されていることは第5章に書いた通りです。
「アルバ王国(Kingdom Alba)の起源」については中世に、次の三通りの説がありました。
第4章でもご紹介したThe Declaration of Arbroath(アーブロース独立宣言)の全文を読むと、そこにはこの三つの説が垣間見られます。
独立宣言には、スコットランド人は元々スキタイ王国にいた人々がスペインを経由してブリテンに移住したとあり、その時期はイスラエルの民が紅海を渡ってから(拙注1)1200年後(拙注2)であること、またスコットランド人がいかにしてブリトン人を追い払い、ピクト人を滅ぼし、また北方民族やデーン人、そしてイングランド人の侵略からその国土を守ってきたかが叙述されていますが、アイルランドからの出自だけはそれが当たり前のことであった為か省略されています。
(拙注1:モーセの海が割れるエピソードを指す。紀元前1250年頃のこと)(拙注2:1250−1200=50 紀元前50年頃)
さて、これまでの章でも何度か登場した「アナグラム」という言葉は、英単語のアルファベットの位置を自由に移動させて、別の単語に変化させる遊びのことです。
そして、ブロンテという名前がギリシャ語で「雷」を意味することは、つとに知られていますが、
ことは、これまた当たり前すぎる為かあまり指摘されていないようです。
ネルソン提督が授与されたブロンテという爵位に、そんなアナグラムが込められていたのかどうかはわかりませんが、ネルソンが "Briton of Briton"と呼ばれていたことと全く関係がないとも思われません。
BritonはBretonと同じくケルト系英国人であり、英国(ウェールズやコーンウォールなど)にいる場合はBriton、大陸のアルモリカにいる場合はBretonという表記になります。
そしてここからが当項の本題です。
第5章でも書いたように、モンゴメリの育ての親である母方の祖父の家系は、スコットランド氏族の族長Macneillといいます。
さて、『スコットランド国民の歴史』という本の14章には次のような記述があります。
どうやらモンゴメリの母方のご先祖様は縁組が得意な世話好きだったようですが、モンゴメリもアン・シリーズの中でアンに周囲の問題を抱えたカップルを次々とゴールインさせていたのは、このような血統のなせるわざなのかもしれません。
そして、マク ”Mac" は「息子」の意なので "Macneill" は「ニールの息子」という意味になりますが、このマクニールの "neill" は前述の「アルバ王国の起源」でご紹介した司令官ニール ”Niall” と同じ発音であることから、Britainに侵入してIona(アイオナ)を手に入れたスパルタ人のコマンダーの子孫という意味になります。
一方のブロンテ家が敬愛したネルソン提督の名前も、ソン”son”は息子の意なので、ネルソン”Nelson”も「ネル”Nel”の息子」ということになります。
前述した「アルバ王国の起源」にもある通り「Nel=Niall」なので、ネルソンの称号にちなんでブロンテと名乗ることになったブロンテ家と、モンゴメリの母方の祖父が連なるMacneill家は、姓名的には「スパルタ人ネル(ニール)の子孫」という共通項があったのです。
モンゴメリのケルト世界の泥沼にここまで踏み入ったついでにもうひと深み、とっておきのアナグラムをご紹介してこの項を終わりたいと思います。
第4章でご紹介した「アルモリカ」と同意のウェールズ語 ”Ar Y Mor”。
そのアナグラム ”MAryro” は、マリラと読めないでしょうか?
マリラの名前については、19世紀の後半に既に同じ名を持つ女性が記録されていることからも、18世紀後半から19世紀の終わりにかけて盛んだったスコットランドや古のブリテン・ケルトを憧憬する文化的ムーブメントによって、上記のように生まれた名前だったとも想像できます。
そしてそこから、母のなかったアンの新しい母となるマリラと重なるイメージが広がります。
母国となったアルモリカから旅立って、スコットランドでスチュアート朝を築いたBreton(ブレトン人)の”House of Stuart” 。
その王家を代々支持したモンゴメリの母方のスコットランド氏族Macneill家は、”Anne of Great Britain” が崩御してスチュアート朝が断絶した母国から、プリンス・エドワード島へと渡りました。
母を失っても新たな母マリラと出会った "Anne of Green Gables"と、母国に似た「海に開けた場所」で力強く生きてきたモンゴメリの祖先たちとが重なるのです。
「マリラ」というネーミングには、第1章でご紹介した通り「私のライラック(思い出)」というニュアンスが込められている訳ですが、補章その1でも書いたようにメソポタミア文明にもちょっとした思い入れのあるモンゴメリの思考の中では、メソポタミア神話に登場する "Myrrh" という処女母 《Virgin mother》の像が、マリラの造形の下地としてあったように思われます。
「海のミルラ(処女母)」から形作られたであろうマリラという名前は、アン・シャーリーの新たな母であることを暗示する、至高のネーミングであったことは確かでしょう。
〜なんとも沼深い『赤毛のアン ヨセフの真実』に、おつきあいいただきありがとうございました。
本稿は2010年に執筆した『真実の赤毛のアン』を基にして、新たに見つかったことがらを全五部にまとめたものです。
参考文献はウィキペディアを含め出来るだけ記載しておりますが、明記されていない部分は『真実の赤毛のアン』の「参考と引用」ページに準じたものとなっております。
なお、パブーサイト等の『ブロンテになりたかったモンゴメリ』は、『真実の赤毛のアン』を2012年に書き改めたヴァージョンアップ版です。
そちらもどうぞよろしくお願いいたします。〜
2020年12月末追記:あとがき「アン・シリーズは続くよどこまでも」はこちらです。
2020年1月追記:「アン・シリーズのメイフラワー」の記事はこちらです。
*ギルバートの名前の由来を考察した「『赤毛のアン』と『マーミオン』〜後編」はこちらです。
*最新記事「アンの誕生日はなぜ ”Middle March”?」はこちらです。
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