2024.01.01から 日本 塩見岳 山形仙人沢 宮城二口 アイスクライミング
穏やかに年が明けた。
久し振りに家族と正月を迎えた。なんか自分の居場所がない訳では無いのだけれど、なんか落ち着きすぎる。居心地が良過ぎる。冬山の張り詰めた空気は全く無い。時間が緩やかに流れていく。家族との会話も、ネットから流れてくる情報も、大きな川の流れの水の様にゆっくりと流れていく。留まっていようと思えばいくらでも留まっていられる。時間だけがゆっくりと流れていく。
渓流や滝の水は水量は少ないが流れが速い。岩に当たり、岩と岩の間をすり抜け、時には何メートルも落下をし滝壺に落ちていく。しぶきを上げ、波立ち、一瞬たりも留まっていない。瞬間、瞬間に躍動感がある。まるで大蛇の様だ。飛び散る水のひと粒、ひと粒にまで迫力がある。
段々と体力も知力も落ちている。段々とこの様に過ごす時間が増えていくのだろう。
「蟹の穴」的な生き方を考える頃なのかと感じる。
背伸びをして、自分の能力以上の事に向かっていった時もあった。イロイロな出来事を経験してきた。かなりギリギリな事にも何度も遭遇してきた。なんとかギリギリとすり抜けてきた。
今年もやれる範囲で楽しんでいこう。
先ずは健康第一だな。
2024.01.01
新年が明けた。
衣食住はとても豊かに感じる。寒くもないし、お風呂も毎日入れるし、食事も美味しいし、食材のバランスも取れている。
クライミングが出来ない。なんか、頭も体もボ〜としてしまっている。
2024.01.02
曇り。
鎌倉山に行く。バイルに使用する筋肉がめちゃくちゃ落ちている。体を引き上げて保持する筋力が無い。
2024.01.03
のんびり。
家族が入試の面接の練習をしていた。1月7日、冬休みの最後の日が試験らしい。大変だな。
自分が人生で面接を受けたのは就職の時の採用面接の時だけだった。面接の準備はスーツを買うぐらいで、殆ど準備なしの行き当たりばったりで受けた。経済学部の人たちは面接をかなり意識していた様だけれど、理学部の連中は筆記試験の為の受験勉強しかしていなかった様に思う。
筆記試験は東京と宮城が通った。富山は落ちた。
東京の面接は赴任する校長が面接官だった。面接を2回受けたがなかなか採用されなかった。
宮城の筆記試験は作文、数学、一般・教職教養だった。数学と作文はいい感じに出来た。
普通は作文をあらかじめ2〜3本を用意しておいて、当日に題名に合った作文を書けば良いらしいが、そんな事も知らないで、いきなり構想を練りながら作文を書いた。
題名は「創造」だった。「人間と動物の違いは創造。人間は言葉を使ってイロイロなものを創造してきた。創造は言葉によって幾重にも積み重ねていく事により、さらなる創造をしていく事が出来た。」そんな感じの事を書いたのを覚えている。高校の地学の先生に教わった猿と人間の違いを思い出しながら書いた。
数学もかなりムズい問題が解けた。
宮城県の面接は教育委員会が一括で採用を担当しているので1回で終わった。
面接の時に受験番号を聞かれた。たまたま自分の生年月日だったので覚えていたけれど、もし、覚えていなかったらどうなっていたのだろう。
東京はなかなか採用されなかったので、宮城はスキーも出来るし、自然もあるので東京は辞退して宮城に決めた。
東京には両親が住んでいて持ち家もあったけれど、宮城のがゴチャゴチャしてないので自分には合っていた様に思う。
家族の面接の練習で「尊敬する、または好きな人は誰ですか。」と言う質問をしていた。
偉人として挙げられる人ではダーウィン、アインシュタイン、ダウィンチ、ガンジーなどが挙げられるが、自分はあまり知られていないけれどテスラかな。テスラの事を調べるとエジソンが好きにはなれない。
玄奘の生き様も凄い。凄すぎるので目標にもならない。憧れでしかないな。
数学ではグレゴリーペレルマンかな。
日本人では坂本龍馬、徳川家康、なども挙げられるが、高橋是清、渋沢栄一かな。
☆ダーウィン☆
キリスト教が全盛だった時に進化論を提唱した。その常識に囚われない発想が凄い。進化論以外にもたくさんの研究を発表した。
☆マザーテレサ☆
キリスト教にマインドコントロールされた人。
ガンの人にその痛みはキリストが授けているとか言ったり、患者を勝手に洗礼させたりした。
自分はペースメーカーの手術を受けた。
たくさんの寄付金の使われ方が不明。
とても不衛生な施設を運営していた。
☆ナイチンゲール☆
めちゃくちゃ金持ちなのに、看護師になって戦争で傷ついた人を助けた人。
統計学を使って、銃弾で亡くなった人よりも、不衛生な環境による感染症で亡くなった人のが多い事を示した。施設を衛生的にする事の大切さを広めた人。患者やその家族に対しての心のケアーなども精力的に取り組んだ人。生き方に覚悟が感じられる。
取り組む活動の中で自分も感染症になってしまった。
☆マインドコントロール☆
洗脳では暴力的行為などを用いて恐怖心を与えることで、行動を強制させる。
マインドコントロールには強制力がないため、自発的に行動しているという錯覚に陥る。
そのため、洗脳よりマインドコントロールの方が抜け出すことが難しい。
マインドコントロールされやすい人。
○人に心を開くのがはやい
○素直な性格で嘘を信じやすい
○人助けをしたいと考えている優しい性格
○楽な方法を選びやすい
○直観を信じるタイプ
○一目惚れしやすい
○一途な性格
○喧嘩をしても許してしまう
○ネガティブな言動
○コンプレックスがある
○一人行動が苦手
○好きな事にのめり込みやすい
○頼み事を断れず、意見が言えない
○人の話が聞けない
○自己肯定感が低い。
○孤独感が強い。
○プライドが高い。
○一人で意思決定ができず、周囲に合わせてしまう。
○プライドも高いため誰にも頼らずに一人で解決しようと考えるため客観的に物事を見ることができず、コントロールしやすい。
◇やるべきこととして疑問を抱かせる事が大切。
疑問を抱かせることで、洗脳を受けている人冷静に物事を見る事ができるようにする。
そこで重要となってくるのが、疑問を抱かせるような適切な質問を投げかけるのが大切。
例えば、それは人生にとって必ず必要なものなの? それは必ず儲かるものなの?
などの言葉をかけて、別の選択肢を考える機会を与える。
広い視野を持たせ、自分のしていることは本当に正しいのかと気持ちを変化させることに繋げる。
2024.01.04
母への面会。部屋のゴミが気になった。会話が大変そうだった。冷蔵庫が空だったのでオヤツと飲料水を買いにスーパーいった。
母はかなり老いているのを感じる。
2024.01.05
晴れ。フリースでも寒くない。
山の準備をする。今回の年始の山行は日数も少ないし、クライミングをしないので荷物が軽い。
母に時計を渡しに行くが入浴時間で会えなかった。
2024.01.06
のんびり。
19:00に相方とあって、
☆塩見岳☆
に向かう。
コンビニで車中泊。
高速代6730円。
2024.01.07
コンビニからゲートに向かう。ゲート前は5台ぐらいしか止まれない広さだった。2台止まっていた。
ズ〜と歩く。2段のストックなので少し長い気がしたがストックが有ると歩き易かった。
☆登山口
にようやっと着いた。
1人下山してきた。トレースはしっかりと付いているとの事だった。
途中でアイゼンを履いたがワカンは必要なかった。
☆三伏峠小屋2574m。
を過ぎて、森林が無くなる所で疲れたし、暗くなりそうだったのでテントを張る事にした。ヘロヘロだった。テントを張っているとランラン気分で下山してきたパーティーがきた。「いい所にテンバッていますね。」と声を掛けてくれた。とても足取り軽く下山していった。
明日はテントは張りっぱなしにして、ヘッデンを付けて下山する事になった。相方はビバークをしてもイイ様な事も言っていた。
ビバークはこんなに寒くては無理、無理と思いながら、餅ラーメンを食べる。今回はチャルメラにしてみたが、サッポロミソラーメンにかなわないと思った。
ビバークだけは簡便だなと思いながらシラフに潜り込む。
水分補給が少ないのかPボトルは1度だけ厄介になっただけだった。
2024.01.08
餅ラーメンを食べて、ザックには厚手の手袋とシラフカバーと水筒と行動食を入れて出発。ほとんど雪は積もっていなかった。
テントは張りっぱなしにして、ザックに水筒とシラフカバーと行動食を入れてアイゼンで歩き出す。
相方はガスカートリッジとヘッドと行動食とサーモスをザックに入れていた。
この寒さで、ビバークをしたら凍傷になると思うのだけれど、寝ないで、ガスを時々付ければなんとかなると言っていたけれど、そんな事は信じられなかった。夏なら何回かビバークはした事はあるが、シラフがない冬のビバークは自分に無理。
テントが張れそうな所が上にもあった。しかし、昨日のヘロヘロ状態でココまで来るのは無理だと感じた。相方はこの辺までは来たかったらしい。
☆本谷山2658m。
ズ〜と歩く。
☆権右右衛門山2682m
を巻いていた。
☆塩見小屋2766m。
に着いてからが森林限界になっていた。ビバークは出来そうだったが、残業をしてもテントまで降りた方がましだと思った。それにしても長い。とても冬山初心者ルートとは思えなかった。
青空の中に
☆塩見岳3052m。
が鎮座していた。360度のパノラマが広大だ。頂上から下山してきた人は1人だけだった。
ズ〜とひたすら歩く。途中、1箇所を権右衛門山を巻く様な感じのルートに入ってしまったぐらいで、後はトレースもあって問題なく頂上までいけた。
富士山やアルプスが迎えてくれた。青と白のコントラストはいつ観ても感動する。
懐かしい思い出がたくさん蘇る。
クサリが4箇所ぐらいあった。クサリがなかったらかなり怖そうだった。
☆塩見小屋2766m。
は2階のマドから入るのではなく、ドアから入る。雪が積もっていて入るのが大変だった。土間までしか入れないで緊急の緊急の時にしか利用が出来ない様になっていた。シラフが2個置いてあった。
ホントの緊急の為の小屋の開放だった。
相方のサーモスのお湯を戴いた。小屋から先はほとんど安全なのだけれど、相方は要所、要所で待っていてくれた。自分はヘロヘロで後半は歩いては休む、歩いては休む状態。完全にお荷物になっていた。
昔に、「山寺を案内してくれる人を紹介して欲しい。」と頼まれた事があった。リサ、ラザロ、相方を照会した。「何人ですか。」と聞かれた。リサはアメリカ人、ラザロはキューバ人、相方は宇宙人と応えたのを思い出す。相方は重力を調整出来るのではないかと思うほど体力が有り余っている。考え方もブッ飛んでいる。
70歳で5.13,エベレストをした人の話が出てくる。自分は最盛期でも5.13も5000mにも到達し得なかった。レベルが違う。
自分の体力の減退をつくづく思い知らされた。テントについた時は完全にノックアウト状態になっていた。
あまりに疲れて食欲がないので、水分補給をしたらシラフに潜り込んでバタンキュー。
熟睡。
2024.01.09
明るくなってから起きる。
食欲が何故かない。いつもの餅ラーメンをムリクリ食べる。
降りるだけなので熟睡が出来て、疲れがやや取れた気がする。
Pボトルの中身を捨てる。トイレも快便。
寒い。
テントを畳んで歩き出す。ズ〜と歩く。
☆ナンバ歩き
も体に染み付いてきた気がする。
あまり腰を振らなくても足が前に出て、自然と土踏まずに体重が乗っかって、フクラハギでも、太ももでも無く、腰に体重が掛けられる。全身で歩く感じなので、フクラハギや太ももだけに負担が掛かる事がない。
小さな雪の塊を口に放り込んでは解かして歩く。どうしても口で息をしてしまう。なかなか鼻から吸って、口と鼻から吐くことが出来ない。
ズ〜と歩いて、登山口まで歩いた。登山口のホワイトボードに「ありがとう。天気にも恵まれました。」の伝言を書き入れた。
登山口からは電池を気にしないでイイのでポッドキャストを聴きながら歩く。
便利な世の中だ。
ゲートにようやっと着いた。相方はテントを広げ、日向ぼっこをしながら待っていてくれた。
エブリに乗って温泉に向かう。道の駅で聞くと秘境の湯は日帰り入浴はダメなので、別な温泉に向かう。火曜日は休みだった。別な温泉に更に向かう。裸がヌルヌルになってイイ感じの温泉だった。サウナもあった。600円。
スーパーで肉とオデンとウドンを明日の朝食に買う。夕食は半額の笹ずし。半額がほとんど売り切れでいた。ガソリンを入れて、佐久まで下道をいって、佐久でガソリンを入れて、高速に乗る。ガソリンが180円もする。絶対にカルテを組んでいる。
雪道を避けて山のクネクネ道はパス。
高速のパーキングで割り引きも考慮に入れて車中泊。2860円。
外は寒いけれど、車内もシラフも快適。
半額の笹寿しが旨い。
熟睡。
2024.01.10
曇り。雨が少し降った様で道が少し濡れている。
おでんに牛肉とウドン入れた朝食。旨い。
☆大日岩☆
☆シャンデリア
☆マリアナカンテ
☆グレートテール
どれも落ちた。グレートテールは人工も入る。
山形と仙台からも3人来ていた。焚き火を楽しむ。
霊山からの無料の高速だけを通って、仙台まで下道を行く。
交通費は1人14000円ぐらいだったかな。
家族が夕食を始めていた。
お風呂に入って熟睡。
2024.01.11
山道具を片付ける。
母への面会。母の服などの整理。かなりゴチャゴチャになっていた。身体は元気。会話が少しアッペトッペな感じがするが92歳ならばこんなもんかな。
母をエブリに乗せて買い物に行く。お寿司も買ってみた。
施設に戻ってまた部屋の整理。
2024.01.12
曇り。
まだ身体がギシギシ。運動していると痛くないけれど、ユックリと動くとふくらはぎが筋肉痛。腰も痛い。それに寒く感じる。かなり身体が壊れている。
のんびり。
2024.01.13
のんびり。
家族の通院の付き添いをした。抱っこをするのが重かった。自分の体力の無さを感じる。体力の無さで「3歩あゆまず。」的な状態だった。
顔が腫れている。ウルシに触れた様に目が腫れてきた。身体が弱っているのだろうか。
2024.01.14
元気フィールドに行く。1000円。
疲れていたけれど、人が登っているのに刺激されて、指皮が痛くなるまで遊べた。
2024.01.15
のんびり。年賀状を描く。
まだ、顔が腫れている。
2024.01.16
アマゾンプライムが観れない。雪のためかな。
家族の通院の手伝い。家族を抱きかかえるのに慣れてきたが重く感じる。
年賀状を出す。
のんびりとアイスの用意をする。
家族に書簡が届いた。大変な世の中なんだな。
ヨークベニマルで車中泊。半額がたくさんあるので買い過ぎてしまう。
2024.01.17
ヨークベニマルで相方と会って6:30 発。
高速160円。朝の渋滞にぶつかってしまった。
リフトに乗ったのが9:30になってしまった。1600円。リフト代がかなり値上がりしていた。たぶん、去年は1000円。
氷はしっかりと繋がっていた。
下山報告の時間が18:30との事なので、時間を気にしながら登った。ほとんど食事も取らずに、休みもしないで、登ってはビレー、登ってはビレーになった。それでも結局、3回しか登れなかった。相方は体力バリバリなので休憩が無くとも問題ない様だった。自分は体力も腕力もなくなってきているし、回復力も遅くなっている。回復がめちゃくちゃ遅いのを感じる。もう少しのんびりと休み休み登りたい感じがしたが、明るい中に荷物をまとめる。
残置ロープを付け足したけれど、下山時刻を気にしての付け足しなので、長さ調整がしっかりと出来なかった。
腕力が落ちている。
ズ〜とクラックのオンサイトねらい的な登りばかりしていたので、引き付けが出来なくなっていた。バイルもスナップを効かせるタイミングが正確に出来なかった。アイゼンも爪の長さの調整が間違っていた。
なんやかんや落ち込みながら、16:00前の明るい中を下山しだした。シーズン最初なのだから仕方ないのだろうけれどかなり落ち込んだ。
下山報告のルールが決まる以前はヘッデンを付けながら荷物をまとめていたのを思い出す。
まだ明るい中のスキー場をトボトボと歩いた。TV局の方々が樹氷の取材をしていた。スノーモービルのデッカいのでやってきていた。その横を乗せて欲しいなと思いながらトボトボと歩く。以前はヘッデンを付けて斜面を登り返し、スキー場のスロープを安堵しながらトボトボと降りていた。街の夜景の美しさを長めながらヘロヘロになりながら、頭から湯気をたてながら下っていたのを思い出す。
こんなに明るい中に下山するルールは変だな。なんでこんなルールをみんなは文句も言わないで素直に従うのだろう。みんなで話し合って決めてもいないルールなのに!!!みんなはなんでこんなにも律儀に、文句も言わずに、守るのだろう。異議を発しても誰も無反応!!!誰一人も理不尽だと思わない。不思議だ。不思議だ。と明るいスキー場のゲレンデをモンモンとしながら歩いた。
✩クライマーズ・ファースト✩
「ルールの決め方を見直そうよ。」との提案をみんなにもう一度してみようかととも考えたが諦めた。
「個人情報の漏出を気にしない人は、ラインでも下山報告が出来る様にルールを変更するのがが現代的でイイと思う。」との提案を考えた。しかし、今さら事を荒げても仕方ないし、みんなはなんの不便も気にしていない様なので諦めた。
このラインを使用するか、しないかも全く話し合いがされなくルールが決められた。ミーティングをするかしないかもお伺いをして決まる様だ。
哲人政治は早くて効率もイイのかもしれないが、話し合いも必要に感じられてならない。民主主義は愚衆政治に成りがちかもしれないが、効率が悪いかもしれないが、話し合いは大切だと思う。
日山協に脱退する山岳会が多くなっているらしい。日山協は国体やオリンピックなどの大会しか取り組んでないらしい。リボルトやは全く山岳会でなく、ネットで繋がっていく時代なのだろう。日山協や山岳会を変えるよりも新しいプラットフォームを作ったり、利用した方が手っ取り早いのだろう。
因みに、日本山岳・スポーツクライミング協会は、「安全登山の啓発」「山の環境保全」「山岳文化の発展」のため、正しい登山及び山岳スポーツを指導・普及して、その健全な発展を図るとともに、登山を通して体育の振興、登山界の交流に寄与しているとはとても思えない。大会ばかりにお金を使っている。名前にスポーツクライミングを付け足したのは開き直る為にしか思えない。
昔の東北は登攀をするなら、山岳会に入会するしかなかった。パートナーも登攀技術の習得もズブの素人には情報や技術の習得はハードルが高かった。講習会も無いし、ガイドもいないし、登攀の技術書も実践的でまともな本は無かった。仙台には山のお店の人もほとんど鎌倉や丸森を知っていなかった。
東北では山岳会に入会しないで、パートナーも登山技術も得る事はムズかった。
東北の登攀をする山岳会はそんな感じの人が集まっていたので普通で無かった。所かまわず駐車場などでドンチャン騒ぎの宴会を遠征を連休には普通にしていた。サラリーマンを辞めて自営業者になったり、学生がほとんどだった。公務員も少しいた。連休でない時も休みは毎週の様に丸森や鎌倉、時には猿岩や黒伏に行っていた。山寺や青葉はまだ無かった。大日と三崎があったけれど、自分にはハードルが高かった。そんなので山岳会のメンバーは自然淘汰されていた。
休みの日の前夜に相乗りをして、明神や谷川、時には小川山や城ヶ崎にも行って、職場にそのまま出勤していた。遠征先きでは世間の常識からはかなりかけ離れた宴会になる事もあった。
駐車場でなく、糸魚川の定食屋さんの様な所で宴会をした時もあった。明神の雨かレストの日だったと思う。昼間からズ〜〜〜と定食屋さんのの様な所に居座って宴会をしていた。座敷で寝だす者も出てきたので、大将から「もうソロソロお開きにしませんか」と言われた事もあった。かなり呑んで食べたので儲かったと思うのだけれどそんな事もあった。
そんな雰囲気が苦手な人は解る気がしたが、自分はその雰囲気に慣れていった。世間の常識からはかなりかけ離れている気もしたがお構い無しだった。
会計は呑もうが、呑まなくても、後から遅れてきて一品でも箸を付ければ全て割り勘だった。割り勘負けしない様に呑んで、食べまくった。もちろん女性もみな一律に割り勘だった。なので女性は特に個性的な人しか残らなかった。
東北にクライマーが50人もいない頃はドンチャン騒ぎも有り得たのかしれないが、今のクライマーの人口の多さを考えるとあの様なクライミングは無理に思う。
あの頃を懐かしんでも仕方ない。
その内に人工壁が出てきた。飯豊の体育館、白石城、ガス局の近くの青少年の家、そしてBナッツが仙台の街に登場した。
東北はフリークライミングが出来るエリアが少ないかった。そして、なんと言っても東北には冬がやってくる。Bナッツのようなジムが無い頃の冬の期間は関東に遠征に行くか、厚手の手袋でアブミを掛け替えをするしかなかった。そんな冬を過ごすと、春には折角付けた指力は無くなり、また振り出しに戻ってのやり直しになる。このサイクルが東北でフリークライミングが育たなかった1番の要因だと思う。
東北でフリークライミングに目覚めた者は今まで歩んできた道を外して関東に向かうか、指力よりも総合力が要求さらるアルパインに専念していった様に感じた。
自分も東北にいたらフリークライミングよりは関東には無い、もちろん東京には絶対無い豊かな自然に溶け込むの方が楽しいのは判っていた。
しかし、何故か指力を必要とするフリークライミングから離れる事が出来なかった。仕事や家族を捨てる事も出来なかった。
借金もあった。
フリークライミングが意識されたのが、1970年代。自分は1985年にハーネスを着けたので15年も遅れてのスタートだ。
小さい頃にから近所の資材置き場で秘密基地を作ったり、自転車で明治神宮や多摩川に行って釣りをしていた。富山では北アルプスの登山をしたり、ゲレンデスキーした。仙台に来てからはイワナ釣りをしていた。なのである程度の登山技術は身に付けていた。
しかし、ロープを付けて登るのは別ものだった。ロープでの登山に憧れてはいたが、間違ったらとんでもない事になるので、とても自分ひとりでは真似事をする気に成れなかった。
イワナ釣りを深めようと沢登りに連れて行った貰った。ロープを付けての登攀に魅了された。直ぐに仙台RCCに連絡をして、丸森や鎌倉に連れていって貰って、後は普通にこの世界にハマっていった。
自分が就職したのが1981年。世の中の巨大企業だけでなく、中小企業もドンドンと週休二日になっていた。しかし、相変わらず自分の仕事は半ドンだった。更に日曜もほとんど部活をしていた。休日出勤も残業もなんの手当も出ないブラックそのものだった。
ロープワークを身に付ける時間も、師匠も見つけるのが大変だった。モンモンとした日々が続いた。体力をもて余し、発散する場所も時間もなかなか見つけられなかった。モンモンとした日々を過ごした。
自分が内定したが辞退した会社は入社まえからとっくに週休二日になっていた。学校もその内に週休二日になると思って、関東に行くのをズ〜〜と我慢していた。
しかし、なんと学校が週休二日になったのは2002年だった。11年もモンモンとしていた。その間にどんだけ東京に戻ろうと思った事か。
その間にドンドンと体力が落ちていった。初めからフリークライミングの才能が無いのに、体力まで落ちている。学歴も、終身雇用も捨てて関東に行っても、自分がまともにフリークライミングが出来るはずは無い。仙台に留まり、モンモンとした人生を続けた。白石の人工壁やBナッツなどのジムも出て来て、少しはモンモンもが解消されていった。しかし、仕事は退職までブラックのままだった。仕事とクライミングの二股を掛けるには様々な犠牲に耐えなくてはならなかった。クライミングも家庭も仕事もみんな中途半端になってしまった。
因みに、2002年にようやっと法律上で週休2日になった。
なのに安倍晋三政権はとんでもない事を言い出してきた。安倍教育改革の一環として、学力向上のための授業時間数増加を図るために、長期休暇の短縮、一日の授業時間数の増加のほか、土曜日の補習を検討した出した。
拳銃を作って国会議事堂の前で乱射したくなった。
世界遺産の
✩那智の大滝✩
で事件が起きた。2012年の事だ。
ルートが決まっている登山は「スポーツであっても自分たちの求める探検ではない」と否定して登山家の中でも異端の「社会不適合者」がいた。
宮司さんに怒られるだろうなぐらいのノリで、3人の社会不適合者が那智の大滝を登った。
3人の内の2人は大日岩や山寺で登っている姿を見た事がある。壁にはメチャ適合していた。
ネットにその時の事がニュースに速報としてあがった。世界遺産の那智の大滝を登った。正確には滝の途中で行き詰まったらしい。なので、登山界ではトップアウトできなかったので登ったとはいえない。
那智の大滝の事件以降は社会不適合なクライマーの話はあまり聞かない。
3人は自分らの事を「外道クライマー」と称して那智の大滝に向かった。世界遺産の御神体のその圧倒される姿を見て、どうしても登りたい衝撃に耐えられなくなって、白昼堂々と登り出たとの事である。そしてトップまであと少しの所、9割ほど登った所で行き詰まり、御神体に跳ね返されて敗退との事だ。
懸垂してきた所懸垂して取り付きに戻った時に3人は現行犯逮捕された。前科持ちになったらしい。そんな事件があった。
この事件の一般社会的なSNSを見ると、非難するコメントがほとんどだった。しかし、。でも中には完登を逃したのは残念だとの内容のがコメントもあった。
「外道クライマー」宮城公博著
にその時のメールが記載されている。
「メジャーデビューおめでとう」
「なんで最後まで登んなかったんだ!だせぇなぁ」
「ヤフーニュースでみたけど、あれ宮城君?」
本人が
「まだ誰も見ぬ世界に夢を膨らませた。はたから見たら馬鹿げたことなのかもしれないが、その冒険心・好奇心が私の行動原理の全てである。」
と記載している。
佐藤裕介もこの事件を振り返って「山を止めなければという思いは全くない。」とも述べている。
神々しい自然が大好きですし、だからこそ敬いながら登っていた。自然のものを自然に近い形で登る行為は、自然に対するリスペクトでもあって、一種の信仰のようなものだとさえ思っていた。自然に飛び込みたいとか、自然を感じたいと思ったとも述べている。
自分には「誰も見ぬ世界に夢を膨らませる。」ほどの技量は無いが、その冒険心や好奇心は共感する。クライマーだなと感じた。
自分もクライミングは信仰の様なものを感じる時がある。悟りにはほど遠いけれど、神々しい自然を感じる事がある。
あれから3人は登り続けているらしい。神さまも粋な計らいをするものだ。完登させなかったのが面白い。
それにしても日本の社会は厳しな。登ってもいないのにそれに関与した「ゴルジュ感謝祭」を主催した学生は停学にされ、それに所属していた山岳会も廃部にされたらしい。
そんな論理が成り立つならば、宴会をして酒酔い運転で捕まったら、その宴会の主催も懲罰を受ける事になる。
自分の放浪は先人たちの「後追い、」でしかない。著者の言う冒険にはほど遠いい。でも、職場と家庭を往復しているだけでは見る事の出来ない世界を少しは見てこれた。「後追い」だけれど自分はその景色を触れる事が出来ただけでも楽しかった。
社会の外側に半歩でも出てその景色から風を感じる楽しさを感じるのが好きだ。自分の世界がとても広がった様に感じる。
3人の1人が仙台の学生だった頃に冬の北穂に一緒に行った事がある。彼は北穂に行った時はまだ初々しかった。ロープを付けないで谷底を降りて行くのに躊躇していた。
そんな彼が大学を卒業したのか、大学を辞めたのかは知らないが、彼は学歴を捨てて、実力の腕一本、スネ一本、指一本の世界になんの躊躇も無く入っていった。彼は関東のジムに就職した。彼が道を外したのか、道を当てたのかは自分には判らないが、関東で楽しそうな生き方をしている人たちの1人に感じる。
話を戻して、山岳会について。
登山計画を出しても許可が降りない事が何回かあった。ルールが話し合いもない中、ドンドンと厳しくなっていく。ルールに従えないなら会をやめろとも言われる。もっとイイ方法があると思って意見を言うのだけらど、不満が有るなら会を辞めろと言われる。
挙げ句はお前が嫌いだとも言われた。
ルールを決めるには話し合いが大切だと思うのだけれど、会の人たちはなんの反応もしない。話し合わないので、賛成か反対なのかも判らない。話し合いをする事が大切だと思うのだけれど、誰もなんの反応もしない。
理屈ではない大きなウネリがあるのだろう。自分はそれを感じられないのだろう。他人を変えるよりも自分を変える方が楽チンだな。
「お前が嫌いだ。」と言われたときには、
ノブユキでなく、ヒロユキだったら、「それってあなたの感想でしょう。今は何も話し合われていないルールを勝手にルールだと言い張るのが可笑しい、可怪しい」と言うのだろうなと思ったが、誰も無反応なので、これ以上騒いでも仕方ないので諦めた。
「自分はお寿司が好きだ」と言いたかったが抑えた。
社会責任を問われる世の中なので、会の頂点に立つ人も大変なのかもしれない。とも感じたけれど、どうでも良くなった。
山岳会に属さなくとも、今はネットでたくさんの情報やパートナーに繋がる事が出来る。
拳銃も作ろうとすれば作れそうだ。
山岳会にかじりついている自分がいる。関東に行く道を外す事が出来なかった様に、今も仙台の山岳会にかじりついている。
学歴社会で、終身雇用による高度経済成長の社会で育ち、経済の発展とその物質素的な豊かさの代償に精神的な歪を感じながら、社会の歯車に組み込まれて、ひたすら回り続けていた。
道を大きく外しもせず、道を当てもせず、団塊世代を後追いしていた。それといった取り柄も無い自分の選択肢は社会にかじりつくしかなかった。今も外国や長野に住みたいと思うのだけれど、仙台にかじりついている。
那智の大滝の事件の続き。
3人がわざわざ登った日が那智大社の火祭りの日だったのはなんかの縁なのだろうと思った。
3人は頭を丸めて宮司に謝罪に行ったとの事だ。老宮司は凄まじい怒りをぶつけた後、いかに自分が滝を大切にしているか、いかに滝が貴重かをやさしく説いたらしい。これが外道クライマーにはこたえたたらしい。
2017年の夏の事だ。
和歌山地検は彼らを起訴猶予処分にしたらしい。
3人は社会から断罪を受けた。
那智の大滝の事件以降はこの様な一部のクライマーによる社会不適合の事件は聞かない。
日本の社会の懐が広くなったのか、クライマーが社会適応の術を習得しだしたからなのかは判らない。今は移住してきた長野に住むクライマーが多い様に思う。別荘を持っている人もいる。
窓拭きでなくクライミングの世界でやってもいける様になってきた。クライミングがオリンピックにも採用された。
ガイドの仕事は自分の登山を諦めた人がやるものだった。ガイドをやりながらでも、自分の登山を続けている人が少しずつ出てきて。やり方によってはクライミングでやっていける時代になっている。
クライマーの感想。
○何がいけないのか分からなかった。滝がそもそも誰のものかというのも分からなかった。歴史的に昔から宗教の対象だったと言われても、登山はもっと前からあったという言い方もできる。登るという行為が信仰を汚すとも思わない。山岳信仰の象徴である富士山も、みんな登ってる。命懸けで滝を登るほうが信仰の対象に近づいてるという言い方もできる。彼らはボルトで穴を開けるわけでもなく、ものすごくクリーンに登っている。
○大仏に登っちゃって、信仰を汚していると言われるのは分かる。でも、滝は自然の一部。彼らにとっては『山』。大社の人たちからしたら滝も『大仏』と同じ。そういう両者の視点のギャップがあった。そもそも登山なんて、大昔から、人間がつくった決まりごとの及ばない自然の中でやってきたこと。彼らは人間がつくったルールで前科持ちになった。那智の滝を登らないクライマーのほうがクライマーとしておかしい。
この様な意見も堂々と世界中に発信出来る。
自分がクライミングを始めた頃は世間では通用しない理論を掲げる社会不適合な登攀者がたくさんいた。仕事を持っていないく、社会ではなく、自然の中に適応していた登攀者は普通にいた。
しかし、まだまだ世間のほとんどの人の意見は
◇3人は残念ながら釈放されてしまった。
なんでも今回の愚行、蛮行は「ゴルジュ感謝祭」とやらを企画して行ったものの一部で、信仰上の聖域であることは承知の上で行った。
彼らだけでなく「ゴルジュ感謝祭」に関与した山岳人へ全て日本山岳会から除名、永久追放されるべきだ。
なんだろうな。
那智の事件よりも、それよりも更に時代をさかのぼってみる。もっと社会不適応な生活をしていた人たちがいた。
「世間には借金を何千万もしているがたくさんいる。しかし、俺は借金をしていない。」と言うヨセミテ帰りの貯金を使い果たしたクライマーがいた。それに対して「違う、お前は銀行がお金を貸せる条件がないのだ。サラ金に手を出さないのは褒めてやる。カムを買えなくて、ナッツでしか登らない。と言うのと同じだ。」こんな理論でクライマーは普通に会話ご展開していた。
カムもナッツも理解が出来ない一般人が全財産が1000円しかないクライマーがいる事だけでも普通でないのに、それを分けわからないクライミング用語で論破した気になっているクライマー同士の会話が普通に自分の周りにはあった。
家族が自分とクライマーとの電話での会話が全く理解出来なかったと言っていたのを思い出す。アックス、アブミ、カラビナ、クリップ、ビレーなどなど単語だけでも一般社会的は理解できないのは確かだな。
自分がクライミングを始めたのは「我々はいかに石にかじりついてきたか」に書いてある頃の時代ほど昔ではない。
自分は「我々」の仲間に入りたかった。、東北は奥の奥のほそ道だった。あの頃の関東のクライマーに憧れていた。クライマーは普通にみんな「社会不適合者」だった。ソニーなどの大企業は何週間も休めたが、普通のサラリーマンはほとんどいなかった様に感じた。メジャー級の有名な有名なクライマーも普通に谷川や城ヶ崎を普通にキセルしていたらしい。お金と時間とパートナーに悩んで悩んでいた。
自分が今の山岳会に入った頃はチーフリーダーと言う役職があった。チーフリーダーとは、ただひたすら登ればイイ役職だった。イケイケで登り、会の雰囲気を盛り上げる様な役職だった。
谷川にゴンドラや駐車場が出来て、出合いまで車で行けなくなった頃の時代の頃よりも少し昔の話だ。谷川の出会いまで車でいってドンチャン騒ぎが出来た時代だ。
冬の剣に入るには何週間か前までに申請して、馬場島で電波を発信するマメタンを受け取ってから入山する時代の頃だ。
バイルはストレートシャフト、アイゼンも2本歯でようやっとワンタッチが出てきた頃だ。カジタ全盛の頃にだ。ホエブスがブスで通っていた頃だ。
その頃の今の自分の山岳会は関東の雲俵クラブや山形クラフトと一緒登っていた。
雲俵クラブでは各自の山行に対して点数を決めて、1年間で登った山行の点数を加算してランク付けをしていた。ランクには「虫けら」とか、「人間」などのランクがあった。
今では炎上しそうな風習がまかり通っていた時代だ。
自分の今所属している山岳会でも総会の時にはランク付けまではしないが、誰をチーフリーダーにするとか、登っていなく総会にも来ないのは者は除名するとかしてみんなで話し合っていた。
会長よりもチーフリーダーの方のが影響が強かった。会長の判断で山行計画を却下する事が出来る雰囲気はなかった。イケイケだった。どんな山行も承認された。
谷川の登山届けに会長の捺印が必要だったが、会長のハンコを持って普通に文書を偽造していた。また、縫道石の登攀は禁止されていたけれど、普通に登攀して、それを批判する様な雰囲気は全く無かった。
冬の剣の入山禁止区域にも入山していった。「ルートミスをしてその尾根に入った事にすれば問題ないんじゃない。」「滑落したので、その尾根を登るしかなかった事にしてもいんじゃない。」などと言って入山禁止区域にも入山していた。国家権力もその入山禁止地区に入ろうとするのを察知してか、ヘリで飛んできて、スピーカーで注意されたと宴会の時の話題にして盛り上がった時代だ。
下山しても、国家権力は逮捕もしなかった。
国家権力は冬の剣で何日間も閉じ込められた時は小屋に泊めてくれた。
山形の方が高校生の時に何日間も小屋に閉じ込められて、自衛隊のヘリで救助された事も宴会の時の話題にしていた。新聞に奇跡の生還と報じられたらしい。2、3日だと避難されるが、長期だと英雄になると宴会で自慢していた。
自分らも国家権力を助けた事がある。自分らではない別のパーティーが冬のチンネで遭難した事があった。自衛隊がそのご遺体とパートナーを救助しにきた。ご遺体を搬送して、2回目にヘリが来た時に急に突風が吹き出してきた。救助に来た隊員をなんとヘリは置き去りにして飛んで帰っていった。天気は荒れていく予報なので隊員を馬場島まで引率してあげた事もあった。
隊員はなんとアイゼンもバイルも持っていなかった。自分らも、国家権力も試行錯誤の時代だった。登攀も山も未知の部分がたくさんあった。みんなで試行錯誤していた。意見を交わし、時にはケンカもしながらとても狭いコミュニティの中で切磋琢磨し合っていた。
山行計画が却下されたり、有事判断時刻が小学生の門限19時になったりする雰囲気ではなかった。どんな山行しても自己責任な事をみんな自覚していた。有事が起こっても、携帯も無いので、自分だけでなんとかするしかなかった。
社会不適応者と見られようとも、時間を削り、身を削って、重い荷物を背負い、細いロープに身を託し、みんなが高みを目指して四苦八苦していた。
クライマーズファースト
山岳会不適合者。
ソロで登って家路に向かう時にいつも思い出す歌がある。
「青空ひとりきり」
楽しい事なら何でもやりたい 笑える場所ならどこへでも行く
悲しい人とは会いたくもない 涙の言葉でぬれたくはない
青空 あの日の青空 ひとりきり
何かを大切に していたいけど
身体でもないし 心でもない
きらめくような 想い出でもない
ましては我が身の 明日でもない
浮雲、ぽっかり 浮雲、ひとりきり
仲良しこよしは 何だかあやしい、夕焼け小焼けは それより淋しい
一人で見るのが はかない夢なら、二人で見るのは たいくつテレビ
星屑、夜空は 星屑、ひとりきり
高みを目指して、パートナーを探し、時には議論を交わし、ケンカもした事もあった。みんなが暗中模索の中を「石にかじりついていた。」時代だ。
この世はひとりきりだけれど、お互いの目指す高みが同様なので、仲間意識がとても強く感じられた。仕事と家庭だけの往復ではなく、なんとか時間やお金をやりくりしながら同じ高みを目指す仲間がそこにはいた。未来よりも今を見つめ、高みを目指して四苦八苦して切磋琢磨していた。自分の高みが高くなる事によってコミュニティが小さくなる事はなかった。コミュニティは寧ろ広がった。視野も広がった。
さらなる高みを目指している関東の人たちや外国の人たちにも出会えた。
見えない未来よりも、今を生きている人たちに出会えたのが嬉しかった。
しかし、築き上げてきた過去を自分は捨てる事は出来なかった。家族や借金をチャラには出来なかった。
時間をやりくりして、時には社会不適応者の烙印を押されながらも、今を生きている人たちの生き方は退屈なTVよりも、遠いい未来よりもズ〜〜〜と現実的だった。
自分は大学や仕事や家庭を捨てて高みを目指す道に入っていた人たちをたくさん見てきた。
道を当てた人もいれば、道を外した人も見てきた。自分も外道の道を歩もうと思った事もあったが、仕事や家庭は捨てられなかった。クライミングに出会った時には既にたくさんのしがらみが自分の道をには打たれていた。しがらみを取り除けたとしても、高みに立てるほどの素養が自分には無いのは知っていた。
出家は出来ないけれど、今を生きる人たちの世界が眺められればイイかなぐらいのクライミングに落ち着いた。クライミングの質よりも継続は力なりを選んだ。大したクライミングはしていないのだけれど、何かしらの糧にはなっている気がする。
退職した。質も量もやる気になればいくらでも高みを目指せるのに、たいくつな時間を過ごす事が多い。
情けない。
2024.01.18
曇り。まだ、年始のクライミングの疲れが取れない。身体が壊れるギリギリだった様に感じる。
2024.01.19
家族の面会に行く。
2024.01.20
家族が留守番に来てくれた。
家族6人で
☆花巻温泉
に行く。
昔の宴会温泉的な旅館。少し古い感じの建物。とてもでっかい。
温泉は単純泉。
家族が昇進したのでそのお祝いを兼ねて、14名で近況を報告。なんとPowerPointを使っての報告会。便利なんだけれど、みんながスクリーンを観ているのが気になる。
学校の卒業式の打ち合わせで卒業式でスクリーンを使うか、使わないで議論になったのを思い出した。
食事はバイキング。イロイロな種類のメニーがあった。
温泉にまた入って熟睡。
2024.01.21
朝食もバイキング。6:30〜8:00までなので朝風呂に入ると少し慌ただしい。
雪が薄っすらと車の屋根に積もっていた。
ホールで家族写真を撮って解散。
のんびり家に向かう。早池峰神社はパス。
エブリを雨の中に洗う。屋根にサビが出てきていた。
2024.01.22
雨。せっかくの氷が解けてしまいそう。
Bナッツに行く。11時〜16時で1500円。
2024.01.23
のんびり。
元気フィールドを忘れていた。
家族の見舞いに行った。
JACCSカードを作った。1500円の商品券が貰えた。
2024.01.24
のんびり。
佐川に宅配を出しながら、家族の見舞いに行く。
2024.01.25
凄い雪だ。重装備で雪掻き。
✩泉ヶ岳スキー場
に行く。
雪が重い。回転がしにくい。
片方のシールが剥がれてしまう。グルーの貼り方の何が悪いかったのだか解らない。新しいシールを買うか、グルーを付け直すかを悩む。ハーネスも買い替えるか。
家族を送り迎えする。
満月だ。
会議。
人数が多いといろいろ大変だな。しかし、以前に住んでいた家に家族と2人キリだったらもっと大変だな。家族との2人キリでのあの家は自分にはでかすぎる。畑や田んぼも絶対に無理だ。
日本でも車中泊生活になるかも。
仙台でのクライミングパートナーがなかなか見つけられない。ジムに通えばイイのだけれど身体が重い。
2024.01.26
のんびり。
家族の通院の付き添い。1人でも立てる様になった。オンブをしないで良くなった。
2024.01.27
今日ものんびり。
絵を描く。
2024.01.28
晴れ。
元気フィールドに行く。
アックスの練習も掛けながら登ったので中級に行けなかった。指皮が痛くなったがなんとか休まず登れた。
ユウユウ館に行く。シールのメンテナンスの仕方を教わる。シール26000円とシールワックス19000円とハーネスを買う。
スキーのシールはかなりデリケートなので、この様にメンテナンスの方法などを教えて貰えた。
家族がインフルエンザ。
2024.01.29
曇り。
北中山。
アイスの準備。
二口に行く。
2024.01.30
相方2人と会って、
✩風の堂✩
に向かう。なんと橋までエブリで入れた。
3本登れた。明るいのだけれど身体が限界なのでお終い。
バイルを落としてしまった。アイゼンの爪を長くしたので前回よりは増しになった。
明るい内に駐車場に着いた。
半月。
秘密の温泉に入って家に戻る。
2024.01.31
のんびり。
寝てばかり。かなり疲れている。
ネット。
生物はその命が無くなる事によって進化してきた。生きて亡くなる事によって自己複製し、進化してきた。個体にも種族にも新陳代謝が起こる。川の流れはほとんど同じだけれど、絶えず川の水は変換している。
長い時間を掛けて、突然変異が起こって、環境に適した物が生き残り、適応出来なかった物は絶滅してきた。作っては分解して、効率よく増やせる様に自己複製しながら進化してきた。自然淘汰されて進化してきた。
自分が亡くなる事によって、他が生きる。
自利利他。
諸行無常。
人間は他の生物に比べて、共感力が高い。閉経になるなど、老いても生き残る価値がある。孫を育てたり、知識を伝える。
氷河期や火山活動や隕石などの環境の変化で生き残るには多様性が大切。恐竜は大きくなって強くなったが、環境の変換で食物が足りなくなるなどに対応できなくなり絶滅。
因縁果。
多様性。
単細胞の分裂では遺伝の多様性は少ない。メスがxx 、オスがxy の染色体を持つことによって、メス:オス=1:1 になる。更に多様性も多く保てる。自分の遺伝子の半分しか遺伝していない。
諸行無常。
多様性。
因縁果。
自利利他。
1月が終わる。暖冬なのかな。雪がほとんど振らない。積もらない。スキーもアイスもこれからやれるのだろうか???不安になる。自分の身体もなんとなく暖冬なのに寒さが堪える。