瞳をとじて
長いわりに淡々とした夏が終わり、ようやく秋の訪れを覚えた土曜日の朝、僕は生まれてはじめて自発的に眼科を訪れた。
「ふん。こいさんどないなってるんか見て頂戴。人間ドックいうたかて診察結果はEかFばかりなの御覧なさいよ。うふふ」と思わずネイティブな谷崎潤一郎文体で心に留めるほど、このところずっと「眼底」の診察結果が悪かったのだ。
かいつまんで説明すると、「もし緑内障の場合、放っておくと目が見えなくなります」と機嫌の悪いSiriみたいな口調で人間ドックの診察結果を告げられて、僕が「I see.」とアイロニカルな返事をしてから五年が経過していた。
そうしたわけで、よく晴れた土曜日の朝、僕は地元の眼科を訪れた。
目黒川沿いの小さな飲食街を抜け、見慣れないエレベーターで上がった先のドアをくぐり抜けると、建物の入り口からは想像できない清潔感のある心地良い空間が広がっていた。簡単な問診票を提出し、サコッシュから『極夜行』を取り出して時間を潰す。
そういえば僕は昔から、エレベーターとエスカレーターの名前は逆の方が似合っているような気がしている。どちらかと言えば、ギターとバイオリンも逆に命名されていた方がしっくり来るだろう。バイオリンの音色の方がギター的と感じるし、ギターの音色の方がどことなくバイオリンという呼称に寄り添っている。そこには本来的な語源とはべ
「差し支えなければこのあと瞳を開くことになりますが、本日はお車を運転される予定はありますか」と、僕の極めて建設的な思考を無慈悲に遮る受付の女性の声が聞こえた。
「ひとみを、ひらく」と僕は声に出して言った。自覚している限りにおいて、僕はそれほど平井堅さんと親しいわけではないので、必要以上に瞳を閉じて生活を営んでいるわけではない。しかしだからと言って、車が運転できなくなるほど瞳を開こうと思ったこともないはずだ。否応なく『時計じかけのオレンジ』のワンシーンが浮かぶ。
「点眼です。目薬を差して頂いて、ここでしばらくお待ち頂くことになります」、そう告げた彼女の唇は、誰にも気づかれないほどささやかな動きで「Your love forever.」と歌っているように見えた。
点眼後に待ち時間を挟んで撮影された写真には、視神経の寄り集まっているところが白く濃く映されていた。「たぶんこの辺りが、緑内障の傾向として指摘された部位です」と表情の引き締まった女医から説明を受ける。
「今のところすぐに問題になるとは思えないけれど、確定診断をご希望でしたら、またご予約をお取り頂く形になります」と説明は続く。年内の土曜日はすべて予約が埋まっていたので、また改めて連絡させてもらうことにして僕は会計を済ませた。
お礼を述べて診療所を出た瞬間、車を運転する予定の有無について尋ねられた意味がようやく理解できた。
見慣れた駅前の交差点が、誰かの絵空事で作られた薄っぺらい天国みたいに眩しく輝いて見える。なぜ佐野元春のアルバムを一枚も持っていない僕が、なんの違和感もなく佐野元春的な比喩表現が出来ているのかもわからない。とにかく前を見たままではまともに歩くことができないので、飼っていた金魚が全滅した小学生のようにうつむいた姿勢で、往路の倍以上の時間をかけて帰宅した。
そうしたわけで、僕の瞳はまだ今のところ、この世界を捉え続けている。
世界が濁るのが先か、僕の視界が濁り始めるのが先かはわからないけれど、いつかその日が訪れたら、ギターの音色を耳にしてバイオリンと呼んでも誰にも叱られることはないだろう。その時にはきっと、あなたも瞳をとじているだろうから。