いつかこの日を振り返ったなら
時計に興味を持ち始めたきっかけはわからない。というか、今でもほんとうに興味を持っているのか、自分の心持ちがわからずにいる。
寿司屋で子持ち昆布を頼むときの心境と似ていて、そこには「さて、僕はほんとうにこれを欲しているのだろうか」とあらたまって考えるような留保はないのだ。ただ寿司屋のメニューに「子持ち昆布」の文字があり、僕の視線がそこに留まり、しばしの間をおいて目の前の皿に子持ち昆布が置かれている。疑問が入り込む余地はない。
では僕の時計史を振り返る。もぐもぐ。
Apple Watchが発売されたのが2015年3月で、僕はその年の秋ごろに初代のモデルを購入した。ステンレススチールのミラネーゼループモデルで、たしか8万円弱だった気がする。
ガジェットとして一定の面白さはあったけれど、いかんせん製品としては未熟で、なにより動作速度が快適とは言えなかった。たとえば節電機能。
一分ほど操作せずにいると節電のために画面が暗転するのだけど(そこまではいい)、処理性能の低さゆえ、目的のアプリをタップしてから起動するまでの間に普通に一分が経過し、ようやくアプリの画面が展開する頃には真っ暗になってしまうのだ。
純血の関西人がこの状況に遭遇すると、実家で新喜劇を見ているときの心象風景をなぞって思わず「うせやん」と自然に声に出してしまうのだけど、その次に思うのは、そもそもApple Watchで起動したいアプリも存在しないという事実。蚊が号泣するような声であらためて「うせやん……」と繰り返すことになる。
次に買ったのは同じくApple Watchの、Series 5。懲りない。
……かと思いきや、初代と比べれば快適さは天と地の差で、たとえ火星から見れば地球の天と地の差など誤差に過ぎないとはいえ、手ぶらで駅まで出向いてもSuicaやQUICPayが使える気楽さは、ちょっとしたパラダイムシフト感があった。腕に装着しているだけで自宅のMacにログイン出来るのも素晴らしい。
そのままApple Watchを使い続けていくのだろうと自分でも思っていたのだけど、なぜか不意に「あ、G-SHOCK欲しい」と思った。子持ち昆布でささやかなしあわせに浸っていたところへ、唐突に壁に貼られた「牡丹海老」の文字が目に入ったのだと考えてみて欲しい。
そうしたわけで、脈絡なくお皿に盛られた牡丹海老が、GM-5600B-1JFと、GW-M5610NV-2JF。後者は十年くらい前に買って、Apple Watchを使い始める前にときどき使っていたものなんだけど、牡丹海老を機に丸の内のG-SHOCK STOREでバッテリーを交換してもらった。
僕自身、ソーラー充電&電波受信式という仕組みをあまり理解していないのだけど、おそらく腕に装着して毎朝とっておきのアメリカン・ジョークを口にすれば、永遠に使い続けられる仕組みなのだと思う。
同じ時期にもうひとつ、なにかの反動のように購入したのが、スイスの新興ブランドSLOWが販売しているSLOW WATCH。「盤面を見るたびに正確な時刻がわからなくなる」という独自の佇まいが素晴らしい。
広く告知はしなかったけれど、「よくあるガジェット開封動画のパロディ」みたいなのを作ってみたりして遊びました。
一方、G-SHOCKを持ったことでもうひとつ気づいたのは、「……待って。あたし、タフネスな時計とか求めてない」ということ。
落とさない。濡れない。ぶつけない。だって職場についたら八時間座っている。場合によっては十三時間くらい座っていることもある。濡れる可能性があるとしたら、とめどなく溢れる涙だけだよ。
ということで購入したのが、ノモス・グラスヒュッテのタンジェント。一眼見て惚れこんで、それでも新品で買うのは贅沢すぎるように思えたので、ものすごく程度の良い中古を購入。未だに身につけるだけで気分が高揚するし、会話中の男性名詞/女性名詞を意識するようになります。
(注)ノモスの時計はドイツで作られている。ここではとっておきのジャーマン・ジョークとして述べられたもの。
これも地元の友人数名に向けて開封動画を作ったのだけど、前回のインパクトの弱さを反省し、今をさかのぼること二十年ほど前に母校から届けられた、自分たちの合唱祭の音楽CDに収められた校歌をBGMにしてみた。
その斬新なエディット・センスに対するリアクションは、これまでのところ特に得られていない。
とにかくはじめて買った機械式時計なので、ゼンマイを巻いてその機構を眺めているだけで、なんと健気な動きなのだろうと感じ入ってしまう。
ここで終わると思っていたら、最後に買ったのがセイコーのSBDC101。いわゆるダイバーズ・ウォッチ。
季節にもよるけれど、僕はしばしば入浴時に潜ることがあるので、考えてみればダイバーズ・ウォッチは生活必需品といえる。ぶくぶく。
というわけで、あなたと僕の旅は「もぐもぐ」ではじまり「ぶくぶく」で終わる。
もし終わらないのだとしたら、いつかこの日を振り返ったときに備えて、ゼンマイを巻いておこう。たとえ正確な時刻がわからなくても、正確な気持ちだけは思い返せるように。