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【グループサウンズ ザフィンガーズの時代】

 テイチクレコード時代が終わり大学4年生になろうとしていたフィンガーズは、石井音楽事務所と契約を結びプロのグループサウンズ、ザフィンガーズとして、キングレコードからデビューした。
石井先生はフィンガーズが他のGSと違い実力派なのだと考え(なにしろ勝ち抜きエレキ合戦最終チャンピオンだから)その方向性が合っているかどうかはともかくとして売り方をきちっと考えた。それはキングレコードとの契約時にデビューシングルに加えて、フルアルバムを制作発売するという当時の新人バンドとしては考えられない条件を承諾させたのだ。それは素晴らしい話で僕たちは興奮した。しかし問題は3枚リリースされたシングルの方で、グループサウンズ時代の流れの中に入っていたからソフトロック路線と呼ばれたボーカルもので、キャッチフレーズも「グループサウンズの貴公子」(!)だったのだ。
 このプロ活動の1年間は不思議な時間だった。ラジオ局を回り、有線放送スタジオ回りなどでソフトロックの、その名も「愛の伝説」(村井邦彦作曲)という曲をかけてもらう宣伝活動をしながら、一方でジャズ喫茶や、ディスコクラブなどで生ライブをやると(まだ当時はライブハウスという形のステージはない)
シングルの曲など演奏しないでバリバリのハードロックをやりまくるという、硬派と軟派の2重性格のバンドだったのだから。普通、フルアルバムというのはシングルをヒットさせてそれを頭に曲を並べるのが当たり前なのに、『サウンドオブザフィンガーズ』というアルバムにはシングル曲が入っていないのだ!
 それを象徴する逸話を一つ。ある夜、池袋にあったドラムというディスコクラブで演奏中に、めちゃ怖い表情をしてあの内田裕也さんが突然現れたのだ。
ワンステージ、腕組みをして黙って演奏を見た後、楽屋へ来た裕也さんが何を言うのかと思ったら、「俺は、ソフトロックだなんてロックを舐めるんじゃないって、お前らをぶっ飛ばしに来たんだよ。何が貴公子だって。」どうも我らのシングル盤を見たか、聴いたかしてしまったらしい。当時裕也さんといえば、業界きっての硬派で有名だったから、こりゃ殴り込まれたと皆んな青くなった。ところがその後に続けて「でも今ステージを聴いたら、お前ら、なかなかやるじゃないか。気に入った。ロック仲間だ。」って上機嫌でお帰りになったのだ。
 忘れられない出来事だったけれど、いかにザフィンガーズが2面性のあるバンドだったかが分かる話でもある。
 それにしても裕也さん、わざわざ僕らをぶっ飛ばすために池袋まで来たんだろうか?ロックを愛する熱血漢だったからなあ、有り得たかもしれないなあ。
その後、いろいろな場面でお会いすることがあり、とても素晴らしい大先輩だった。フラワートラベリンバンドを見に行った時にバンドリーダーだった僕に「良いか、バンドっていうのはリーダーが偉いんじゃないんだ。リーダーを盛り立てるメンバー達が偉いんだ。」っていう話をしてくれたことをよく覚えている。
魅力的な人だった。
 
 このプロになる前の最後の大きなイベントだった渋谷公会堂のリサイタルの話も語っておこう。
 このコンサートは慶應風林火山主催で自力で企画制作をしたけれど、流石に当時のコンサート会場の聖地である渋谷公会堂で、日本一とはいえアマチュアエレキバンドが単独でリサイタルをやるのはちと心細かったので、当時注目していた話題のアマチュアフォークグループ、その名も「フォーククルセイダーズ」とジョイントコンサートを目論んだ。「帰ってきた酔っ払い」が入った自主制作アルバムが関西を中心に火がついていて僕もこれは面白いグループだと(不思議なことにフォークグループでフォークバンドとは言わない)調べて京都に連絡を取った。確かアマチュアだからセルフマネージメントで、加藤和彦本人と話したと思う。快諾してくれたな。ポスターデザインは風林火山メンバーの景山民夫で、彼はもう慶應を退学して武蔵美の学生でアートデザインを勉強していて、その時のモナリザをパロったコンサートのポスターは素晴らしいものだった。あれが残っていないのは本当に残念だけれど、そもそも僕は自分の写真とかのアルバムすら保存していないという奴なのでしようがないのだ。そのポスターにはフォーククルセイダーズの名前がちゃんと入っている。なぜそういうかというと、彼らはコンサートに現れなかったのだ。近くなっていろいろ打ち合わせをしようとしてもどうしても連絡が取れない。今でも大体そうだけれど契約なんかしていない口約束の出演話だから、どうにもならず当日の入り口に「本日フォーククルセイダーズは都合により出演いたしません。それによるチケットの払い戻しを致しますのでお申し出ください。」と張り紙した。今だったらもっと騒ぎになったのではないかと思うけれど、この時はさほどの大きなトラブルは起きなかったのがありがたかったな。確か、30数枚のチケットが当日キャンセルになって払い戻した記憶がある。その方々には会場まで来てもらっていたのに本当に申し訳なかった。
実にゆるい時代だったのだなあ。
 加勝和彦とはそののち知り合って、「トノバン、ノブさん」と呼び合う仲になってからこの話になったな。「トノバン、あの時は参ったよ」みたいに言ったら「そうだっけ?」と、とぼけてた。実はあの出演話から本番までの数ヶ月の間にフォークルは劇的な変化を遂げ、シングル『帰ってきた酔っ払い』が史上初と言われた数百万枚の売り上げを上げ始めて、フジパシフィック音楽出版の朝妻一郎氏に引っ張られて上京して大車輪の活動を始めていたのだ。
 トノバンとの思い出はその後山ほどあるのでまた語ることにしてフィンガーズのプロデビューに戻ろう。

 幸か不幸か(いや、やはり事務所としては不幸だけれど、僕としてはのちの人生を考えると幸とも言える訳で)、ザフィンガーズのレコードは全く売れなかった。これほど2面性のあるバンドで、一体どっちが本当のフィンガーズなんだと聞く側だって思ったに違いない。ただあの頃のグループサウンズで、自分たちの演奏でレコーディングをしてフルアルバムまで作れたバンドは少なかったから、演奏はプロ並みにちゃんとできるという評価を得られたのはありがたかった。おかげで(?)新人アーティストのステージのチャンスがあると、一緒に出るアーティストが譜面を持ってきてよろしくお願いしますと言われて、バックの演奏をさせられることが多かった。勘違いをしないで欲しいと思ったのは、演奏は上手かったつもりだけど、僕たちはピアノを弾けた成毛滋を除いて、コードはともかくスタジオミュージシャンのようにオタマジャクシの譜面は読めやしなかったのだ。直前まで成毛滋からひっちゃきになって教えてもらっていた。
 そういえば、旧赤坂プリンスホテルのプールサイドでそういう宣伝披露のステージでデビューしたての背の高いハスキーな声の新人女性歌手のバックをやった時のことを思い出す。若いのにとても礼儀正しい人で、低く頭を下げて「よろしくお願いします」って言われて「はい、どうも」みたいに挨拶してバックを演ったのだけど、名前が和田あき子で、大阪から上京してきた新人って話だった。どんな曲だったか覚えていないけれど、とにかくパワーがある娘だなと印象に残った人だった。
 実力があるバンドと言っても、キングレコードのスタジオでエンジニアの千葉精一さんとディレクターさんに「1曲でテーク96まで録ったのは初めてだ」と言われた程度だ。前にも述べたけれどテイチク時代のイージーな録音が我慢できなかったので、納得できるまでと何回もお願いするうちにそうなってしまったのだ。マルチレコーディングではない時代だから、誰かがどこかちょっと間違えたりすると(間違えていなくても、もう少し良いプレイをしたい時も)そこだけ差し替えられないんだからしょうがないのだ。また、歌もオケに被せるわけだから、またそこからテイクが増える。キングレコードさん、ありがとうございました。
おかげであのアルバムは今聴いてもそんなに恥ずかしくない。

 大学卒業後の翌冬、単身母の故郷能登半島に向かった。既にプロとしてデビューしたザフィンガーズはその前年の夏頃、事務所との契約を解除され、バンドも解散しており、就職をしていない僕は、いよいよ親父の言う「まともではない社会人」になっていた。そして僕は、つまり真の覚悟をしたかったのだ、そういう人間になることを。うまく行かなければ家族からも、周りのまともな同窓生たちからも相手にされなくなることを。なんだか青春時代の悲壮なヒーロー気取りだった。

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