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【五分一 勇という人】

  話は少し戻る。大学のフィンガーズ時代、2年先輩に五歩一 勇という人がいた。学内に慶應風林火山という顧問の教授がついた正規の独立団体を立ち上げた人で、何とも豪快な人だった。
 彼は今で言うエンタメの先駆けの人で、風林火山は慶應の名のもとにイベント、コンサートを企画、制作、主催までやってしまう、当時としてはすごく珍しい活動をする部だった訳でそこには景山民夫もいたし、面白い人材が集まっていた。
民夫についてはあらためて語る事にするけれど、今回は五歩一さんね。
 その五歩一さんが卒業する時に、その団体の2代目として「ノブユキ、お前がやれ」と言われ、引き継ぐ事になった僕は、その後バンドと慶應風林火山の掛け持ち活動となって行くのだけれど、その彼からフィンガーズがエレキ合戦で優勝した後に連絡があり、フィンガーズのコンサートをやろうと言ってきた。
 日米対抗合戦で(合戦が好きだなあ)在留米軍の息子たちが組んでいるロックバンドで(残念ながら名前を忘れてしまった)えらいカッコ良かった。
会場は虎ノ門ホールで、ステージを半分に分けて、代わる代わるに演奏をして
会場のお客様の人気投票で勝ち負けを決めるという、山っ気のある企画だったけれど、面白そうだと乗ってしまった。
 何せこちらは『ゼロ戦』という曲があるくらいだから、アメリカ何ほどのものよと、対抗意識丸出しにイキがって演奏したね。こちらは全部インストだったけれどあちらはボーカルもので、いきなり[Louie Louie]って歌い出されたひにゃあ、あまりのカッコ良さにぶっ飛んだ。こちらが得意の『荒城の月』をやると、あちらは[Wooly Bully]を歌い出す。あちらの曲はコピーだけれど、原曲の洋楽っぽいルーズなリズムと、なんと言っても本物英語のネイティブさには(当たり前だけれど) 脱帽したな。成毛滋と蓮見と3人で「こりゃ負けたな」と言い合った。ベースの高須とドラムの関口さんはそのカッコ良さが判らないらしく、ケロッとしていたな。
 付け加えると、その時に観に来ていた幸宏は、はっきりと「ノブさん、あっちの方が良かったよ」と言いおった。
しかし結果はフィンガーズの勝利だった。悪いけど、虎ノ門ホールに集まったお客様は殆どフィンガーズのファンだったから、しようがないのだ。ごめんね。
でも、あの時に本当に洋楽がわかった気がした。ロックは日本人のものではないのだと痛感した。あんなアマチュアバンドでもあれだけの感じを出せるのだ。
ショックだった。前述の2曲、『ルイ ルイ』と『ウーリー ブーリー』は(わざとカタカナで)その後しっかりレパートリーにして、ダンパでは受けたなあ。
 あれから時代は進んで、遂にYMO(イエローマジックオーケストラ)は世界に飛び出した。細野君はあの時からそう言うハンディが解っていて、同じ土俵で勝負をする気はなかったわけだ。わざわざ[イエロー]と断ったところが確信犯としての計算が感じられるなあ。
このグループの結成時には多少関わったので後で語る事になる。
 その次に五歩一さんが持ち込んできた話は、小川未明の『赤い蝋燭と人魚』という童話をエレキの組曲にしないか、というものだった。日米対抗合戦はどちらかというと成毛滋のエレキテクニックを打ち出したものだったけれど、今度は僕の作曲能力も打ち出したいというのだ。ボクはのったな。「やります!」
 平河町に都市センターホールというキャパが1000人ほどのコンサートホールがあった。慶應風林火山主催『イエルサレムへのエレキ』というフィンガーズのソロコンサートがそこで開催された。
1部ではフィンガーズレパートリーの『荒城の月』『ツィゴイネルワイゼン』や、成毛滋が本来クラシックギターの曲をエレキで実に繊細に演奏する『アルハンブラ宮殿の思い出』や、クラシックの曲をあえてクラシックのままのアレンジで演奏したりする、言わばエレキの道を追求する巡礼者のごとくを五歩一さんはテーマとし、その極め付けが2部の『赤い蝋燭と人魚』だった。
静かなバラードのメロディにのせて、童話の最初の出だし「人魚は、南の海にだけ住んでいるのではありません」という女性アナのナレーションがライブで流れ、物語が始まるこの曲は、のちに石井好子先生に作曲家として認められるきっかけになった作品だった。
 大学アマチュア時代のフィンガーズが世に認められたのは実にこのリサイタルからだったと思う。そしてこのような企画を生み出した五歩一さんも、この頃から音楽番組を制作するプロフェッショナルに向かって自信を持って進み始めた。
 
 さて、話は戻って日劇『秋のおどり』のバイトが終わった後、仕事はないけれども作曲家のつもりで、でも殆ど無収入で悶々としていた僕は、この五歩一先輩のところへ相談に行ったのだ。この先輩はちゃんと新卒で日本テレビに入社後、しっかり制作部のエンタメ分野に配属され、あっという間に偉くなっていて、この時には既に『マチャアキのガンバレ9時まで‼︎』という番組の現場を仕切っていた。僕が作曲家を目指しているという話をすると、「じゃあ今食えないだろう、仕事をあげよう」と言って、いきなりその番組でやる楽曲の編曲の仕事をくれた。嬉しかったなあ、いきなりテレビ番組の音楽担当だもの。ところが、その仕事というのはそんなに甘いものじゃなかったのだ。
 実はこの番組の音楽担当は宮川泰さんがクレジットされていて、僕の仕事というのは録画前日にようやく決まった番組の中で歌う曲や、コントの合間に入る10秒間のフレーズまでの延べ20曲程を、ステージに控えているフルバンドの生演奏の為にスコア(総譜)を書き、それをできた傍から家のまえに待機している車の中で写譜屋さんがパート譜にして行くという恐ろしいもので、毎週火曜日の夜はほぼ完徹して朝、番組録画会場の中野サンプラザに届けるというものだった。
 ご存知だろうけど、ジャズのフルバンドというのは管楽器がメインだから殆どが(フルートやピアノ、べースを除いて)移調楽器で、しかも楽器によって移調が違うのだから譜面にする時に気をつけないとならない。今はスコアに原調で書けばパソコンが自動的に各楽器の移調をしてパート譜にして出してくるのでそんな苦労はないけれど、この頃はアナログだった。
 慣れている編曲家ならともかく、駆け出しの僕は四苦八苦しながら譜面にして行くのだけれど、現場で音を出した途端に不協和音が蔓延するのだ。トランペットはb♭管なのにフルートの気持ちのまま書いてしまい、ステージのリハでそれをわざとそのまま吹いて、その場で若い僕を冷ややかに笑うような場面が何度あっただろう。流石の五歩一さんも、その1ヶ月間で苦笑いをしながら僕を馘にせざるを得なかったのだけれど、プロの厳しさを察することができる良い経験だった。
 五歩一さんは音楽を中心としたバラエティ系の番組で次々とヒット作を飛ばしていたけれど、こんな番組も作るんだ、と思ったのは『欽ちゃんの仮装大賞』だった。この番組は好きだったなぁ。
アマチュアのみんなを引っ張り上げる力を五分一さんが発揮する番組だったと思う。フィンガーズも景山民夫もその力のお世話になったのだと思う。
 
 五歩一さんは52歳で亡くなった。吉祥寺のお寺の告別式に一人で参列した。
豪快な親分肌の人で、とにかく人の悪口を決して言わず、人を育てることが生き甲斐みたいな人だった。魅力的な人って何故早く逝ってしまうんだろう。
最近、あらためてつくづく思うよ。そして僕はこうして残っているのだ。

 
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