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【映像と音楽の関係】

西宮正明さんという人が何故広告写真家として超一流かというと、この人の撮る「もの」(商品)はまるでアートのように美しいのだ。だから、スティールからムービーまで、それだけでハッとさせられ、じっと見てしまう迫力がある。
その本領が現れた映像に音を付けろという仕事が来た。
東レのCMで白いワイシャツが一枚、ただワンカットでアップになっている。
それが美しくて、30秒の間、黙って見ていられる感じがする。思わず「西宮さん、これ、音を付けられません」と言ってしまった。付けるだけ映像を損ねる感じがしたのだ。「信之、お前はそこまでか」と言われた。
そりゃあ、僕より力がある音楽家がいればその映像と戦ってよりすごいものを作ったかもしれないけれど、僕だとどう考えてもアートの世界に行ってしまいそうで、商業広告にはならないと思ったのだ。
TV CMだからサイレントというわけにはいかない。結局西宮さんは他の人に頼まないで僕にその仕事を続けさせてくれて、どんな音を付けたか今だに覚えていないけれど、つまらないただの CMになったのは間違いない。西宮さんから仕事が来なくなったのはあの後からじゃないだろうか。忘れられない仕事だ。
 完璧な映像は、音楽を拒否する、というのが僕の持論だ。映像には隙間が欲しい。そこに音楽が入って相乗効果をあげて情感に訴えてゆく。ここで、そのテクニックのイロハを語るつもりはないけれど、少なくとも僕はそれを必死に研究した。楽しかったのは美術館に行って、展示されている絵を観ながらそれにどんな音楽を付けるかをトライしてみた時だった。一日中美術館にいた。劇バンのように状況、感情を説明する付け方、ニューシネマから始まったミスマッチで表す付け方、いろいろ試せる。動かない絵には勝手に音を付けられるけれど、やはり例えばピカソの絵につけようと思うとCMにはならないでアートっぽくなってしまうのだ。でもモネの絵には不思議に綺麗な音を付けたくなる。アマチュアの展覧会にゆくと、隙間だらけで音を付ける気にもならなくなる。
 CMとアートの境目がどこにあるのかはわからないけれど、これだけは言えるだろう。「アートは、本当に解る人に伝えられればいい。CMは、解ってもらいたい人に(ターゲットね)伝わらなくてはいけない」
 今でも忘れられない仕事の一つが味の素の企業広告だ。監督があの市川崑さんで、CMもやるんだ、と緊張した。映像は30秒間ハイスピードで女性の白い手のアップがゆっくりと、確か水を汲むような動きをするだけものだった。この映像はとても綺麗で、何かシーンとした光景を打ち合わせで見た瞬間、僕は日本庭園の鹿おどしのイメージが浮かんだ。
 そこでピアノのかなり高い部分を単音で(Cだったと思う)思い切り強く叩き、それを倍速で録音して深いリバーブをかけてから回転を戻すと、[ピーン]と言う音がオクターブ下がって[ポーーン]と30秒間響く、という音を作った。
監督はこれを気に入ってくれてOKになり、そこにひと言男性のナレーションで「君の手は素敵だ」と重なって味の素のロゴで終わるものになり完成した。
僕が映像につけた音楽(?)の中で好きな仕事の一つになった。
スポンサーにも通って無事オンエアになったこのイメージCMは、企業広告だし、まだTV CMにサブカルチャー的な要素が許される余裕がある時代だからできたもので、今だったらこれは通らないのではないかと思うけれど、どうだろう。

 この、映像に音を付けるという作業は完全に僕の中に刷り込まれ、やがて山本耀司さんからパリコレクションのステージに音楽を付けるという仕事に繋がった。約10年間、ファムとオムのショーに、春秋の2回づつ年4回、音楽を担当してパリに行った。映像ではないけれど、視覚に入る生のシーンに、どんな音を付ければ服が活きてくるか。どんな相乗効果が生まれるシーンができるか。そして一番大事なことは、音楽が強すぎて独り歩きをしては絶対に許されないということで、肝に銘じていた。耀司さんとのパリコレではまず打ち合わせでその回のテーマの説明から始まってコレクション本番に至るまでに色んなエピソードが生まれたけれど、それはまたあらためて語りたい。
 
 映像と音楽の関係から話は少し変わるけれど、耀司さんのビジネス パートナーの林吾一さんという方にパリでショーの準備中に、「ノブさん、本当は音楽が好きじゃないでしょう」と言われたことがある。彼に言わせると、本当に音楽が好きならそんなに我慢したくない筈だから、というのだ。もっと自分の主張を出したがる筈だと。自分にとって音楽とは何かを改めて考えさせられた言葉だったな。そして、音楽すると言うこと、音楽をビジネスにすること、とはどういうことかを自分の中にしっかりと確立させた時期だった。
 自分の中に二人の音楽する人間がいる。二人とも音楽が何よりも好きなのだけれど、一人は職人的に自分の表現力をフルに使って人に何かを伝えようとする、だけれど、もう一人は前に述べたように「誰かに伝えたい、この僕のひとり言」という、自分が心の奥底で考えている、思っている気持ちを人になんとか伝えたいという欲求を吐き出したいという、人間だ。どちらも、それがある程度出来たなと思う時の喜び、満足感があり、どちらが大きいかは比べられない。いわば、職人的な歓びと、アーティスティックな歓びということなのだろう。僕にとって、CM音楽と、レコード音楽の違いと言っても良いかもしれない。
 話はどんどん飛ぶけれど、そういえばJRAのキャンペーンCMで小田和正くんに作ってもらった曲でコンペに勝ち、その制作に向けて録音スタジオでの作業の休憩中に、彼が「曲を作るのはあまり苦労しないけれど、詩を作るのは苦しいよね」と言っていたことがある。曲はある意味、表現技術を高めてゆけば作って行けるけれど、詩は、自分の心の中にある伝えたいことを描き出してゆかなければならないからだ。そういう自分の曲を作る時の苦しさはアーティスティックなもので、何を歌い、何を伝えたいのか、というテーマのところから取り組む時の苦しさはアーティスト皆共通のものだ。アマチュアは一生に1曲、良い曲を作れれば良いと言われるけれど、プロは音楽活動を続ける限り1曲だけでは済まないのだから、数多く世に送り出してゆくと次第に苦しくなり、絞り出すような思いをすることになってゆくわけだ。空になったチューブのようにペッタンコにつぶれた自分の心を想像するとゾッとする。
 自分が作曲家になれるだろうかと考えた時にそれが一番怖かった。溢れるほど多くのテーマを持っている天才と思うほど自惚れてはいなかったから、やがて涸れてしまい、何も出てこなくなったら、無理に捻り出してもつまらないものしか作れなくなったらどうしようと悩んだわけだ。プロになるということは恐ろしいことだと思った。
 そしてある時、大好きな詩人三好達治の詩集を読んでいて、その中に随筆のような文章を見つけた。
「自分が言いたい事、伝えたい事は一つしかない。それを繰り返し表現しているだけだ」という、言葉は正確では無いけれどそういう意味の文章だった。
 あ、それだったら、自分でも出来るかもしれない、と目から鱗が落ちる思いだった。それが僕が迷うのをやめて突き進むことになる引き金になった。
プロの音楽家になろうと思った高橋信之、22歳の青春じゃ。
そういえば冒頭の西宮さんや耀司さんも、伝えたいことのベースはずうっと一つで、色々な方法で形を変えてそれを表現しているのだと思う。
誰の中にも心は一つしかない。そしてそれが確固としたその人のものであれば一つで良いのだ。
 話はどんどん飛ぶなあ・・・

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