私は宇宙一の価値がある。
本を読んでいて、「出逢った!」と感じることがある。
文章が心のなかの何かに触れ、「あぁ、こういうことだったのか!」とひらめくというか、衝撃を受けるというか。
先週出逢ったのは、次のような言葉だった。
お金をテーマにした引き寄せの法則(大好きなテーマ!)のKindle書籍で、「引き寄せの考え方は、自己肯定感をあげる、ただそれだけ」とあり、そのあとにこの文章が続いていた。
「自己肯定感をあげるといっても、おそらく今この本を読んでいる100人中99人が、できない。そんな自己肯定感の上げ方だとも思います。」と、わざわざ断り書きがあったように、こんなことを考えたこともなかったし、もちろん感じたこともなかった。
「私は、宇宙一、尊い価値のあるもの?」
頭の中で繰り返す。
確かに、私にとっては、私はかけがえのないものだ。
私が落ち込んで何もできなくなり、病気になって、収入も途絶えてしまったら、最悪、死んでしまったら、私はとても困る。
「生きて!」という声が響いた。
「この人が生きていくためなら、私は何でもする!」と心が叫んだ。
本当だ……。
私にとって、私は宇宙一の価値がある存在だった。
言葉がゆっくりと、腑に落ちていった。
と同時に、お腹の下のあたりがじんわりと温かくなった。
もう、誰とも比べなくていいんだ、と思った。
宇宙一価値がある存在は、誰と比べなくても価値がある。そもそも「価値がある」。
今までは他の人と比べて自分の価値を測ろうとしてたんだな、と自分をいたわりたい気持ちが湧いた。
気づきは、どんどん連鎖して起こる。
シナプスがつながっていくのか、考えるのではなく、勝手に気づきがつながっていく。
自分をありのままに認める、というのはこういう感覚なのか
Being に価値があるは、本当だった
自分を大切に扱うというのは、宇宙一価値がある存在として大切にするんだ
なんか、本当にわかった気がする!
不思議なことに、「私は宇宙一の価値がある」と腑に落ちたら、
他の誰もがみんな、宇宙一の価値がある
という感覚も起きた。
今まで頭では大切にすべきとわかっているけれど、まるで自分がされた嫌なことをやり返すかのように、あれこれと指図してきた母に対して、尊重しなければという気持ちが湧いた。
「運動しないと寝たきりになるよ」「寝たきりになったら施設に入ってね」と恫喝してきたのに、すべて母が決めることで、私はそれを尊重すればいい、と素直に思えた。
私は、ひとつ色眼鏡を外したのだ。
オセロがひっくり返るときのように、見えていた世界が違う色合いになった。