《47年経ってもキミが好き》#2 「東京はどっち!」と叫んだK子の母性愛
福岡・海の中道海浜公園で
娘のLisaが3歳になった頃、どうしてもK子に同行してほしい出張があって、娘を実家の義父母に預け、夫婦で福岡に出かけた。それがK子にとってLisa と離れて過ごす初めての夜だった。当時僕は《ヒーロー工房》という会社を主宰し、名前のとおり〈ヒーロー〉と〈新しいムーブメント〉を世に送り出していた。ソウル五輪で水泳の鈴木大地選手と柔道の斉藤仁選手、結果的に金メダルに輝いた二人のアスリートのケガの治療とコンディショニングを担当したのがヒーロー工房だ。実際にケアするのは1984年ロス五輪でカール・ルイスの治療も担当した白石宏トレーナー。僕は彼のプロデューサー兼エージェントの役割を担っていた。
同時に、〈ディスクゴルフ〉の普及振興に情熱を注いでいた。フライングディスクを投げて18ホールのスコアを競うディスクゴルフはアメリカで生まれ、ヨーロッパにも普及し始めていた。僕はフライングディスク競技の中で〈7人制のアルティメット〉とこのディスクゴルフが日本でも普及の可能性が高いと感じ、〈JPDGA日本ディスクゴルフ協会〉を設立。会長としてプロデュースの先頭に立っていた。
福岡に行ったのは、国営海の中道海浜公園で開催する〈JPDGA九州オープン〉というトーナメントを準備し、トップ選手のひとりとして出場するためだ。広大な芝生が広がる海の中道海浜公園にディスクゴルフコースをデザインし設置したのはもちろん我々だ。アメリカから専用のバスケットを輸入するのは、特許の関係もあって思いのほか大変だった。さらに建設省(現国土交通省)の承諾を得て公園管理財団と契約するまでかなり骨が折れた。それだけに花を咲かせたい、九州でも愛好者を増やしたい、その一心で半ば私財を投じて普及に熱を注いだ。日曜日の決勝ラウンドは、公園に居合わせた来場者が目を留めてギャラリーになってくれるようショーアップを工夫した。最終ホールにたどり着くころには、結構な群衆を引き連れて盛り上がることが多かった。まだ選手が少なかったから、決勝でギャラリーを魅了する人材が必要。それで当時、女子トップ選手のひとりだったK子に福岡行きを懇願したのだ。
初日の予選ラウンドが終わり、夜が明けて最終日の朝。海の中道海浜公園で準備を始めた時だった。Lisaの様子を案じたK子が東京の実家に電話を入れた。途端にK子の表情が暗転した。会話の様子から、どうもLisaが熱を出し、昨夜から元気がないらしい。僕の脳裏をよぎったのは、
(困ったなあ、K子がすぐ帰ると言い出さなきゃいいけど)
という心配だった。決勝進出の4人の中にK子がいてくれないと、選手のレベルが心配だ。けれどK子はそんな、こっちの都合で動く人ではない。電話が終わらないうちに、K子はもう勢いよく走り出していた。あの時の、ももの上がりの高さ、背筋を伸ばして走る姿の美しさが今も瞼に浮かぶ。駆け出しながら、K子は僕に向かって叫んだ。
「東京はどっち!」
訊かれて唖然とした。
(K子、東京まで走って帰る気?)
本気だ、K子はそのまま東京に走って帰ろうとしている。
「あのさ、これから試合でしょ、K子がいなきゃ困るよ」なんて言葉が耳に入るはずもなく、「東京はアッチだけど、帰るならコッチにバス停があるからまず博多まで行って、そこから空港へ……」なんて説明もK子の耳には届かない。
アッという間に遠ざかるK子を懸命に追いかけ、背中から抱えるように誘導し、友人の車に乗せるのが僕にできる精一杯のことだった。
その日僕は、K子の並外れた母性愛を目の当たりにした。それが、自分のお腹を痛めた母親の、わが子への愛の深さなのだ……。申し訳ないけど、父親の僕にはそこまで動転するほど衝動的な愛情はなかった。しかも、心の中には、冷静な判断が出来なくなるK子を呆れる思いで見やる気持ちがあった。けれど、「東京はどっち!」と叫んで駆けだすK子に圧倒され、認識を覆された。
本来はK子の感覚と行動が当然で、頭で考えて妙に冷静な自分こそ麻痺しているんだ、と感じた。頭が邪魔をして、瞬時に行動できない……。
理屈抜きに行動する、先に身体が動くのは重要な人間の資質だ。この時のK子を見て、惚れ直したのは言うまでもない。「人を信じる・信じない」の尺度というか、心の深い部分での共感、〈絶対的な信頼〉がここに存在する。K子のような無償の愛を体現する女性と人生を共にする安心感、幸福感。それこそが47年経ってもK子が好きでいられる底流ではないだろうか。
さよならも言わずに立ち去った長嶋さん
おまけの話だが、そう言えば、言うより先に動き出した人の記憶はもうひとつある。
雑誌『ナンバー』333号の表紙撮影とインタビューのため、麻布のスタジオで長嶋茂雄さんとご一緒した時のことだ。1994年2月発売号だからちょうど30年前。
撮影の後、スタジオ脇の応接セットで長嶋さんにインタビューした。時間はたしか「16時まで」といった約束だった。長嶋さんの話はいつも面白い。熱がある。居合わせたスタッフはみな興奮する。「面白かったねー」と口々に言うが、
「いざ原稿をまとめようとすると、まったく原稿にならない。その場では面白かったのに、言葉にならないから気をつけろ」
と、編集長に釘を刺されていた。実際その通りなのだ。擬音が多い。言葉に勢いがある。その勢いが文章にするとなかなか読者に伝わらない。僕は長嶋さんインタビューが初めてじゃなかったので、その点は重々気をつけて訊いた。さてもう少し具体的な言葉が必要だなと感じて次の質問をと思ったら、スッと長嶋さんが立ち上がった。僕らに笑顔を向けたかと思うと、颯爽と階段を降りて行った。3階から1階まで、吹き抜けのらせん階段になっていた。時計を見るとちょうど16時。編集長も僕も、呆気に取られて見送るしかなかった。
(もう少し聞きたかったけど、仕方がない)
溜息をついて苦笑いを浮かべていたら、階段の下の方から長嶋さんの叫ぶ声が聞こえた。
「小林さーん、話はもう大丈夫ですかあ?」
あれ? 一応、僕を気遣ってくれている。だけど、
(そう言うアナタは、もう階段を降りて行ったでしょ)
僕はただ静かに笑うしかなかった。それが長嶋茂雄という人だった。
K子には〈意外な願望〉があった……
さて、本題はK子の話だ。K子に理屈は通用しない。しかも、非常時にも冷静で状況判断してから行動しようとする僕のような人間を〈心のない人〉〈冷たい男〉と断じる。それなのに、K子が僕を見捨てず、47年もずっと一緒にいてくれるのはなぜだろう? K子なりに僕に魅力を感じているのだろうか? そもそもK子に「僕のこと好き?」と訊いたこともないし、結婚する時だって、思えば承諾を得た記憶がない。僕が結婚しようと決めてそうしただけで、K子はそれを拒まなかったにすぎない……。
知り合って40年近く経ったころふと、K子の気持ちを確かめなければ、と思うようになった。そんなある日、K子の意外な潜在意識を間接的に知る機会に恵まれた。こんな僕にも、K子が一緒にいてくれる秘密というか魅力があったのだ。それはまったく僕の想像にない事実だった。その話はまた次の機会にお伝えしよう。(続く)