
「47年経ってもキミが好き」#5NICOLEのベストが夜空に舞った
小林信也スポーツライター塾、開講! 詳しくはHPをご覧ください。
https://nobuya2.wixsite.com/mysite/blank
そのころ、僕の最高のお気に入りはモノトーンのニコルのベストだった
ネクタイを締めて仕事に出る機会は多くなかったけれど、たまに正装して出る時、そのベストを着たら、なんだか自分が一段上の人間になったような、いまで言う「テンション高め」の気分になった。20代の後半。
それなりの価格だったから、僕としては奮発して手に入れた一着だ。
ところがある晩、理由は忘れたが、K子の逆鱗に触れる出来事があった。いつものように、激しい諍いが続き、僕も意地を張らなきゃいいのに折れることができず、K子を責め続けたのだろう。堪忍袋の緒が切れたK子は、僕のクローゼットから手当たり次第に衣服をつかむと、ちぎっては投げ、ちぎっては投げ、マンション6階のベランダから景気よく放り投げたのだ。
僕は、あ、ああ、と、声にならない声を発し、夜空に舞い飛ぶシャツなんかを見送った。見下ろすと、すぐ向かいの木造アパートの屋根に一枚、また一枚と、イカの干物みたいに着地していた。
そしてついに、K子はニコルのベストにまで手をかけた
ニコルのベストがK子の手を離れ、ひらひらと夜空に舞った時、僕は懸命に行方を追った。後で拾いに行く、絶対に回収する、固く誓って暗闇を凝視した。そんな僕を見て、K子がなじった。
「男らしくない! もう捨てたんだから」
一喝され、僕は外に出る選択肢を阻まれた。未練はあったが、もしそのベストを回収して、うれしそうに着たりなんかしたら、また地獄が待っているだろう。
諦めた、諦めるしかなかった。けれど翌朝、信じられない出来事が待っていた。
K子と一緒にマンションの入り口を出ようとした時だ
外から、共益スペースの掃除をしてくれるおばあさんが入ってきた。
その姿を見て、K子と僕は顔を見合わせた。
K子はもちろん腹を抱えんばかりに声を殺して笑った。僕は笑えなかった。
お掃除のおばあさんが何食わぬ顔で、僕のお気に入りのニコルのベストを着ているのだ。掃除用の作業着の上から。あんまり嬉しそうだったから、僕は「いいことをした」ような気持ちになった。
K子は、気が晴れたと言わんばかりに清々しい表情を浮かべた。
未練がましい僕は、なんとか取り返す方法はないかとまだ考えた。
あの時のおばあさんのニコル姿は、いまもはっきり脳裏に浮かぶ。
新刊《武術に学ぶスポーツ進化論》~宇城憲治師直伝「調和」の身体論~
発売中です。ぜひご購読ください!
https://www.dou-shuppan.com/newbookdvd/