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家族の話「47年経ってもキミが好き」#1

バス停にて

「今日からノブヤのことを〈とん大僧正〉と呼んであげる」
 妻のK子が、停留所でバスを待っている時、言った。
 よく晴れた冬の午後だった。
「とん?」
 意味がわからず、曖昧に答えると、弾んだ声でK子が続けた。
「うれしいでしょ!」
 うーむ、〈とん〉のどこがうれしいのか……。
「だって、大僧正だよ!」
 すごい出世だと言わんばかりにK子は顔を覗き込んでくる。その勢いに圧されて後ずさりしながら、僕はつぶやく。
「K子は、どうしてそういう、わけのわからないことを考えつくの?」
 するとK子は首を少し傾け、人差し指を一本、頭に立てたかと思うと、空に向かって威勢よく撥ねあげた。
「ここからピーンと!」
 つられて、K子の人差し指の先に広がる冬の青空を見上げた。雪国生まれの僕には、いまも冬の青空は眩しい。幼い頃、初雪が降り始めたらずっと空は鉛色で、低く垂れこめていた。お日様を見るのはごくまれにだった。だけど、暗い、寂しいとは思わなかった。それが雪国の日常だったから。ところが、高校を卒業し東京に来てみると、冬になればほぼ毎日青空が続く。寒いことは寒いけど、雪国の、足元から凍り付く寒さに比べたらずっと暮らしやすい。同じ日本とは思えない。そして、雪国にはいなかった、K子のような天然の女性がいる……。

(ナンセンスだ)
 そう、K子の発想はナンセンスとしか言いようがない。だがK子は「ナンセンス」と呼ばれると激しく抵抗する。バカにされた、と思うらしい。でもどう考えても論理的じゃない。ある晴れた冬の午後、バス停で急に妻から〈とん大僧正〉と命名され、「うれしいでしょ」と念を押される。
 僕ならたぶん、相手が納得していなければ、理由を説明するだろう。K子は説明なんてしない。自分さえ納得していれば、それで世の中は回るのだ。
「とんって、どういう字?」
 気を取り直して僕が聞く。
「たぶん……、英語かな。タイのお坊さんだから」
「あ、タイなんだ」
 頭の中に、TONGというアルファベットが浮かんだとき、吉祥寺行のバスが来た。

 僕はこんな風に、K子との日常を過ごしている。こういう女性だから、いつも刺激的に、ずっと一緒にいられる。出会って今年47年目になる。飽きる、ということはない。少なくても僕はね。K子は飽きているかもしれないけれど。

 僕たちは、会った瞬間に赤い糸で結ばれた。恋に落ちた、と言うべきか。
1977年の7月9日の夕暮れだった。
 吉祥寺の〈エアエース〉というフリスビー・プロショップにお客さんとして彼女が入って来たとき、僕は稲妻に打たれた。
(なんて綺麗な人なんだ、なんて高貴なんだ、なんて聡明なんだ)
 僕には絶対手の届かない高嶺の花だ、それだけはすぐ理解できた。でも、なぜか、ためらう気持ちがその時に限ってなかった。
 たぶん……、そこがフリスビー・プロショップで、僕は店の看板プロ。そこではずっと、「コバヤシ君、フリスビーの日本チャンピオンでさ、今度《ポパイ》に出るんだよ」
「えっ、ポパイ? すっごーい」
「来月はアメリカのローズボウルに行くんだ、世界選手権の日本代表!」
 とか、店長のニシムラさんにさんざん持ち上げられて、気が大きくなっていたからだろう。虚勢を借りてちょっと自信めいたものを纏っていたのに違いない。僕は一世一代の勝負に出た。ニシムラさんに促されるまま店の外の脇道でフリスビーの握り方や投げ方を簡単に教えてあげた後、
「明日時間があったら、代々木公園に来ない? 大会があるんだ」
 軽い調子でK子を誘った。「行く」とは言わなかったが、なんだか来そうな勢いだった。
 翌日、代々木公園でフリスビーを投げていると、そこにK子が現れた。ちょっとはにかんだ表情、長い髪を手櫛で上にかきあげながら、何も言わずにK子は僕を見ていた。とにかく、その瞬間から二人は付き合い始めたような感じになった。ここから先の顛末はちょっと面倒すぎるのでまたいずれ書くことにするが、アメリカかぶれしていたせいか、
「僕のことはノブヤと呼んで」
 と彼女に言った。アメリカのフリスビー・プレーヤーはみんな僕をそう呼んでいた。まあ当然ね。それがしっくり来ていたから、K子に「コバヤシ君」とか「ノブヤ君」とか言われるのは違うと思った。新しい出会い、新しい恋愛。名前で呼び合うのは僕らに相応しいと思ったのだ。
 思えばそれが運のツキ。完全に「対等」もしくは「K子が上位」の人間関係が出来上がった気がする。そもそも彼女の年齢を聞いて驚いた。大人っぽい仕種、顔立ち、同い年か年上かもしれないと思っていた。僕は大学3年生の21歳。K子は、なんと高校3年生だった。
(おくさまは18歳!?)
 岡崎友紀と石立鉄男か。まさか、自分があのドラマを現実に演じるとは思いもよらなかった。当時の小林少年は、固く、一本気だった。
(付き合う以上、セキニンを取らなくてはいけない)
 と思った。つまり結婚だ。男女交際に厳しい母親に育てられた小林少年は「手をつないだら結婚」と刷り込まれていた。母親は高校教師で、校内では泣く子も黙る生活指導の春子先生と怖れられる存在。小学生のころ、家の外にいたら、近くの通りを楽しそうにじゃれ合って歩く制服姿の男女がいた。母の高校の生徒だ。僕がアッと思う間もなく、母親は脱兎のごとく駆け出し、そのカップルに近づくといきなり男子生徒を平手打ちした。僕は唖然とした。翌日、その男子生徒が自宅に謝りに来た。頭を垂れる彼に納得し、母は満足げにうなずいた。その一部始終を見れば、高校生が二人で歩くのはすごく悪いことで、絶対にあってはならない行為と思い込まされる。母親に従順で素直な子だったし。手を繋いで歩くのは「不純異性交遊!」。

(K子と結婚したい!)
 細かい経緯はすっ飛ばして書くと、K子と知り合って1週間後、僕は彼女の自宅を訪ね、
「K子さんと結婚を前提に交際させてください」
 相手の両親に申し出た。当然、K子の両親に呆れられ、「母親は頭の固い生徒指導の教師なので、高校生と付き合っているなんてわかったら発狂します。必ず責任を持って付き合います。時期が来たら両親にK子さんを紹介しますから、それまでは僕を信じて、連絡はしないでください」とくれぐれもお願いし、K子の父親は「わかった」と言ったはずだったのに、次の日には電話を飛ばし、僕は発狂した母親から「すぐ帰って来い」と命令される羽目になる。
 実家に帰ると、母親がそれまで見せたことのない鬼の形相で、「高校生のくせに大学生と付き合うなんて、あばずれに決まっている!」と会ったこともないK子をなじった。これにはひどく傷ついた。K子が可哀想と言う以上に、
(母親ってこんなもんか)
 と思ったら情けなくなった。それっきり僕は母親に心を許さなくなった。それなりに付き合いはしたが、心がつながるわけもなかった。この衝撃は、その後、自分の子どもと接する上で、貴重な教訓になっている。
 交際10日足らずにして、僕らは両家の猛反対に遭うことになった。まあ、そんな始まりの二人が、47年後のいまも一緒に暮らしているのはメデタイ、と言っていいだろう。それがあったから、と言えるのかもしれない。
そうだ、なぜこの話を先に書いたかと言えば、飽きる・飽きないってことを話したかったからだ。
 K子の実家を訪ね、両家の大反対の嵐が吹き荒れて数日後、
(大学生だからダメ、高校生だからあばずれに決まってるって、そんな理不尽な決めつけを受け容れてたまるか)
 と反発する一方、
(だけどなあ、僕は飽きっぽいしなあ)
 ふと自分の性格を思い出したのだ。それまで、女性と付き合った経験はあるにはあるが、せいぜい1年程度で、10年なんて経験はもちろんなかった。テレビや映画で素敵な女性は次々と現れる。ひとりに決めるなんて出来るんだろうか。例えば50歳になってもK子が好きって、そんな奇跡はあるんだろうか? そう思ったら、心許なくなったのだ。こういう気持ちをマリッジブルーというのか(まだ当時そんなお洒落な言葉はなかった)、その不安をK子に相談して今度はK子に呆れられた。
 運命に身をゆだねる、という発想がそのころの僕にはなかった。よく言えば「いい加減」というのか、高田純次のテキトー人生観みたいなものは持ち合わせていなかった。すべては自分が考え、自分で選び、自分で判断するものだと思い込んでいた。未来なんて自分でコントロールは不能だと、いまはわかるけれど、その頃の小林青年は違った。

 世の中には、時間だけが証明できる、というものがある。
 あの時、飽きないだろうか、と心配した僕への答えは、47年の時間が答えを出してくれている。飽きなかった理由こそが、僕らの人生だ。
 いろんな出来事があった。僕よりも、K子が傷ついたことの方がきっと多かった。それでもK子は僕を見捨てなかった。それはなぜだろう? よくわからない。
 幸運にも僕らは二人の子宝に恵まれ、長女と長男がいる。いずれも波乱万丈、そのおかげで飽きもせず、スリリングな日常を楽しんでいる。こんな僕らの揺れ動く日常が、もしかしたらいまを生きる仲間たち、若者たちに、ほんの少しでも希望の灯になるならば、いやいや、僕らの話で笑ってもらえるならば、それも物書きの務めのひとつかなあ、なんて思い、筆を進めることにした。(次回に続く予定)


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