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「勝手にスポーツ大臣」4 新しい「平和の祭典」を世界に提案しよう
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賞味期限の切れた五輪に代わる新しい《平和の祭典》を始めよう
オリンピックは「平和の祭典」だからこそ意義があった。
コロナ禍の2021年に東京2020を開催した強い根拠のひとつが、「オリンピックとパラリンピックの期間中は国連で《休戦協定》が結ばれ、一時的にでも地球上から戦争がなくなる。その間に紛争や戦争が解決に向かう可能性がある」という論理だった。でもいまそれは幻想に帰した。2022年の北京冬季五輪とパラリンピックの間にロシアがウクライナに侵攻、休戦協定は反故にされた。そして、戦争は終わらないまま、パリでオリンピックが開かれた。
IOCも、平和よりビッグスポンサーとの契約を優先し、五輪がもはやビッグビジネス以外の何物でもないことを天下に認めてしまった格好だ。
オリンピックから、平和の礎になる威光が消え失せた。
でも僕は「スポーツが平和の礎になる可能性」までは失われていないと思っている。だから、金儲けに成り下がった五輪には見切りをつけ、時代に合った、新しい《平和の祭典》を日本から発信したいとずっと考えてきた。
一部のエリートだけでなく、老若男女みんなが参加できる大会へ
昨夏のパリ五輪の期間中、五輪と同じコースで市民マラソンが行われた。国内外から4万人もの市民ランナーがパリの街を走った。素晴らしい企画だと思った。けれど、日本のメディアはほとんどこれを報道しなかった。メダル争いこそがオリンピックで、こうした未来に向けた動きには鈍感、報道しても商売にならないという判断なのだろうか。要は、商売になるかならないかが、スポンサーや広告代理店だけでなく、メディアが話題を選択する基準にもなっているのだ。哲学や社会的使命感はほとんど感じられない。
一部のエリート選手だけが競技し、市民はほぼ全員が「見る人」になる。それがいまの巨大スポーツイベントの構造だ。スポーツは見るだけでなく「する」ことにこそ意義がある。いかに多くの市民がスポーツに親しみ、スポーツで健康や生きがいを培い、国内外に友情のネットワークを結ぶか。それがこれからの大事なビジョンだと思う。《新しい平和の祭典》の主役はすべての世界市民だ。みんなが参加できる舞台。それこそ友情が広がり、平和の礎になるだろう。誰だって、友だちが住む国と戦争はしたくない、友だちやその家族が死ぬとわかって平気で爆撃できるだろうか。
大きなイベントでなく、小さな町で開催したっていい
僕が思い描く《平和の祭典》は、参加型のスポーツ・フェスティバル、音楽祭、芸術祭が一体になったものだ。街に音楽があふれ、スポーツの歓声がこだまし、絵画や写真、オブジェなどが街を彩り、人々を触発する。
スポーツは勝負を競うゲームである以上に、人々の眠った才気や感性を触発するアートだ。勝つか負けるか以上に、自分がどんな感情に出会えたか、どんな新しい自分と出会えたか、それこそが自分を震わせる感動だと僕は感じる。最近は、目に見える感動、共有できて商売にしやすい感動ばかりが優先されるけれど、感動ってそんなわかりやすいものばかりじゃない。一人ひとりの、それぞれにしかわからない発見や感激を無言で後押しする環境と包容力こそ大事だ。
だから、ひとつひとつの《平和の祭典》の規模は小さくてもいい。小さな町で、特定の種目の愛好者だけが集まるフェスティバルでもいい。それがオリンピックに代わる新しい名前で開催されたらいいと思う。その名前までは思いついていない。みなさんのアイディアを公募したい。
参加型の大会だから、新しいスポーツばかり集めてもいい
「エリートが主役でなく、愛好者たちの大会に」と書いたが、愛好者は愛好者で結構「熱くなる」のが、スポーツの現状だ。熱くなるのが悪いとは言い切れないけれど、つい勝ち負けや記録にこだわりすぎる傾向があるのは否めない。それは別の大会に譲って、《新しい平和の祭典》はできるだけ平和・調和で満たしたい。スポーツは真剣に勝負を競うから面白い、それを排除しない。そのための、ひとつのアイディアがある。
Jリーグ初代チェアマン川淵三郎さんと対談した時、「イギリスに面白いサッカーがあるんだよ」と教えてくれた。すでに日本でも愛好者がいる。それは「走っちゃいけないサッカー。ウォーキング・サッカー」だ。川淵さんは言った。「僕らはつい走っちゃうんだけど、それはダメ。歩いて蹴る。だからお年寄りも若者も子どもも、男性も女性も一緒にプレーできる」。走っちゃいけない、そういうルールを加えるだけで、老若男女が一緒に参加できる競技に生まれ変わる。この発想で、野球もルールを考え、バドミントンや卓球も新しい競技方法を考えられないか。そういう種目ばかり集めたスポーツ大会なら《平和の祭典》につながりそうだ。みなさんのアイディアを結集して、新しいムーブメントを世界に発信したいと願っている。
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