人の見極めかた
数年前の吉本興業の入社式で、岡本昭彦社長が訓示を述べられました。
端的にいうと、「誰に相談するかで人生は変わる。だから、相談する人を間違うな」というものでした。
僕はそれを役員の席で聞かせてもらったのですが、「その通りだな」と思ったものでした。
人生って結局、「誰と」「誰に」「誰の」という部分でほとんどが決まります。
純真無垢な赤ちゃんが、20年後に「シャブ中になる」なんて誰も思わないと思うんです。
その時点では、可能性の塊であり、白にも黒にもなれる…というか、白にしかなりようがないように思えます。
でも、親がシャブ中なら、高確率で大人になってそういう機会が増えて、シャブ中になるでしょう。
「嫌なことがあったら、これを注射すれば良い」
というわけのわからないソリューションを提示されたり、あそこで誰々と会って荷物をもらってこい…とか指示されたりして、いつのまにか「そういう環境に染まる」ものです。
東大卒の親の元で生まれたら、本を読むのが当たり前の環境で育つでしょう。また、公務員ではなく起業家を目指しなさい…と、自分の果たせなかった願望を背負わされるかもしれません。(それが良いか悪いかはわかりません)
親や恋人がタトゥーを入れていたら、子どもはそこに違和感を覚えません。(それが良いか悪いかはわかりません)
いずれにせよ、人間は「近くにいる人」「信頼する人」「好きな人」の影響をかなり強く受けます。
それによって、人格も経験値も知識も倫理観も大きく変動します。
人はビックリするほど変わります。たった一年半で、偏差値が40伸びて慶應に行き、その後コロンビア教育大学院でオールAをとって人前で「学習論」を語るようになる金髪のギャルもいます 笑
もちろん、その逆パターンもいるでしょう。
いずれにせよ、「人との出会い」「人との繋がり」「人とのご縁」で、天国にいた人がわざわざ地獄に行くこともあれば、地獄から天国に行く人もいる。
基本的には、「不幸」を自認する人のそばにいてはなりません。
その人が本当に不幸かどうかは関係ありません。
本人が自分は不幸だと思っている人です。
そんな人のそばにいると、「間違いなく」人格が大きくマイナスの影響を受けます。
何より、そういう時に、「自分のそれまで身近だった人を遠ざけるようになる」のです。
自分がこれまで積み上げてきた人生において大切な人が邪魔になり、避けるようになります。
「社会的に良いとされてきたこと」に囲まれていたのに、急に「社会的にダメなこと」をやり始めて、それを心配する人を疎ましく感じてきたら、もうそれら地獄への第一歩どころか戻れないギリギリの位置にきていることを自覚する必要があります。
あなたのそばにいる人が「社会的に許されないこと」に誘ってきたらどうするか?
これに関して、最高の返しを前に見たことがあります。
「私、めちゃくちゃ口軽いですけど大丈夫ですか?」
というものです笑
悪いことに誘う人は、これはまずいとなります。
とはいえ、そうやって誘う時点では、もう既に詐欺師の術中にいますから、現実的には無理なんですけどね。
身の上の不幸話で同情を誘い、相手を褒めて、承認欲求を見たし、「仲間」感を植え付けてから悪事に誘ってきますので、現実的には「私めちゃくちゃ口軽いですけど大丈夫ですか?」なんて言葉は吐けません。
ではどうするか?
「不幸話」をしてきた人がいたら、その瞬間に距離を置くことです。
「かわいそうだなぁ」と思うかもしれませんが、その時点で相手の思う壺。
「良い人」であれば、自分が助けてあげたい、話を聞いてあげたいとなるはずです。
「可哀想な人」を助けるのは、「サービスとして」対価をもらってプロフェッショナルとして行う人です。
もちろん、「身内」なら話は別です。
「あまり知らない人から声をかけられたら、応じない」
これが全ての基本です。
知らないおじさんから「お父さんが病気になったらしいって。だから連れてこいって言われたんだよ」と言われたら、子どもは動揺します。
あるいは、苦しそうな姿を見せているおじさんがいたら、「大丈夫ですか?」と声をかけたくなります。
そういう場合は、「救急車呼びますよ!」の一言で良いです。で、誰かに「すみません、救急車呼んでください!」と声をかければ良いのです。
自分で対応する必要はありません。
世の中には良い人がたくさんいますが、悪人は良い人ヅラしています。
その人は、必ず自分の不幸話をして同情するように仕向けるか、相手を褒めちぎって(飴を渡して)善人の顔をして近づいてきます。
どんな人なら「良い人」なのか、
シンプルにいえば、自分の人生を誰かに捧げている人です。
それに一生懸命な人です。
そういう人を見極めて、近くにいる。
そうすれば必然的に、自分の人生も明るくなります。