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虚構の青春 学生時代 前編

 夢にうなされて目が覚めた。実体のない不安が脳裏から離れない。まだ覚めやらぬ脳内はうすぼんやりと霞のかかったような朦朧とした状態が続いている。
 「上野雄介」
 40年も思い出しもしなかった友の名前が突然に思い出された。
 それは実体を伴ったものではなく、ただただ、学生時代の思い出の断片として、まさに青春時代の亡霊の如くに現れた。

 1970年代は、学生運動も下火になり、高度成長期から安定成長期へと日本経済は発展をつづけ、将来に何ら不安はないかのごとくに、日本中が沸き立っていた。
 豊かな社会では、学歴こそが将来を保証するものだと、こぞって大学進学をめざし、受かれば後は天国とばかりに、受験地獄を乗り越えた。
 学生達は、世の中を斜に眺め、エコノミックアニマルと揶揄される大人たちの働きぶりを横目で見ながら、自由を謳歌していた。大学は自由な空間であり、時間と空間を手にした学生たちは、勉強を捨て去り、有り余る時間を浪費することに夢中になっていた。

 文学部に入学した僕は、講義の時間も文庫本ばかり読んでいた。とにかくたくさんの書物を読みたくて、四六時中本ばかり読んでいた。高校時代に読んでいた文豪の作品はもちろん、小説ばかりでなく哲学書や散文も、とにかく手当たり次第に読んでいた。ただただ、活字を読み飛ばしていた。
 本を読むことが目的であるかのごとく、読破した冊数を友人と比べあっていた。数日もすれば、内容も登場人物の名前も薄らぼんやりになるくせに、いっぱしの書評を友人に披瀝して悦に入っていた。
 いつか自分も何某かの文章をものすることができると、未知なる才能を信じ込んでいた。それが希望的に過ぎる幻想であることは心のどこかで分かっていたが、若さの特権であろうか、夢は果てしなく希望を紡いでいた。

 文学をやる人間は、社会的に評価される生産的な労働を忌み、精神的な自由こそ最も重要なものであると、愚弁を弄して、自堕落な毎日を過ごしていた。
 授業に出ても、講義には関係のない本を読み、出席を取らない授業はほとんど出ず、文学部の教室で、たばこを吸いながら、時間を過ごしていた。
 大学受験の反動からか、とにかく勉強はしなかった。時間があれば、本を読み、恋愛ごっこに現を抜かせていた。
 精神的な恋愛を求めることで、自分の精神世界を広げるのだと、恋愛こそが文学には欠かせべかざる大切なものであると自分に言い訳をしながら、恋愛ごっこに可惜時間を使っていた。
 学生の時間は、とにかく夜が遅い。深夜まで、友人宅で訳の分からない文学論や人生論を戦わせ、それこそ喧嘩になることもたびたびであった。
 酒を飲み、荒れ狂い、大学の池に飛び込み、けがをしたことも一度や二度ではない。
 とにかく狂いまわっていた。
 時代の中で自分の存在を持て余していた。
 自分は何者かになりたいと何かできると思ってはいるが、その実何もできないジレンマに、持って行き場のない熱い思いのほとばしりを酒の力を借りて、友人たちとたけり狂いながらさまよっていた。
 その行為こそが若さの証であり、学生の特権であり、自分たちの社会に対するアンチテーゼであると思っていた。
 豊かさは、どこまでも人間を堕落させ、豊かでないことが尊いのであるとどこか嘘くさいセリフを吐き散らしては、その実、空腹に切ない思いを抑えきれない自分がいることに、矛盾を抱きながら、自嘲していた。
 貧しい生活の中でも、進学を許してくれた両親に感謝しながら、バイトに明け暮れながら、青春を謳歌していた。

虚構の青春 後編


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