僕の夢物語3 名人の系譜7(最終話) 第7話 夢の途中の棋王位
いよいよ対局の日がやって来た。
舞台は整っている。
上座には、すでに藤棋王が正座し、僕の登場に軽く会釈して、お茶を口に含んだ。
先手は振り駒の結果、僕の先手に決まった。
初手76歩に、藤棋王は、少し考えた後、呼吸を整え、84歩と静かに駒を動かした。
定石型の振り飛車対居飛車で中盤まで互いに言い分を通しながら指し手が進んでいった。
昼食は、ホテル夢野渾身の地元食材を使った海鮮丼が提供された。
だるま夕日をコンセプトにウズラの卵を配置した様には思わず微笑んでしまったが、夕べ見た幸運のだるま夕日を彷彿させた。
その刹那、僕の頭の中に指しかけの盤面が現れ、思いもよらない指し手が閃いた。
「これだ!」
思わず僕は独り言ちた。
昼食休憩中断後の第1手、僕は渾身の力を込め、駒音高く飛車を自陣に打ち下した。
藤棋王は、僕の気迫に多少驚き怯んだかのような素振りを打ち消すように頭を振った。
何とも不思議な一手である。終盤に差し掛かる局面で、攻めに取っておきたい飛車を自陣に打ち放つ。
「一手前に受ける」大山十五世の将棋の本髄を彷彿させるような一手であった。
指された一手の意味を確かめるように藤棋王は長考に沈んだ。
思いがけない一手にその真意を慮るがどうにも理解できず苦悶する藤棋王の素振りが感じ取れた。
1時間を超える長考の末、藤棋王は意を決したように呼吸を整え、攻めの一手を静かに盤上に落とし込んでいった。
藤棋王は、攻めを誘う一手に引き込まれていった。その後も動き始めた攻めの歯車を止めることはできず、藤棋王は攻めを続けていくが、ついに、自陣飛車の真意を知ることとなった。
自陣に打ち下された飛車が、二十数手後の藤棋王の攻めを見事に防ぐことになっていた。
藤棋王の攻めをしのぎ切り、勝ちが見えてきた。それからの指し手はもはや自然の流れ、逆転の契機もないままに、藤棋王を投了に追い込んだ。
外は冷たい雨が降り始めていた。
昨日の晴天から一転して、2月の冷たい雨がそぼ降る。
僕は感想戦も漫ろに、一人になりたかった。
地元の人々の盛り上がりには感謝しつつ、彼らの前に出る前に、今一度この10か月間を振り返ってみたかった。
冷たい雨は対局後の身体の火照りを取るにはこの上もなく、自然の中に溶け込むような心地良さを感じた。傘越しに遠く佇む海を暗闇に眺めながら夢のような日々を思い起こした。
退職の日に大山十五世が夢に現れ、十五世に導かれて将棋の世界に歩を進め、将棋漬けの日々を送ってきた。
日に日に、いや一局ごと一刻ごとに向上していく棋力は、想像を遥かに超え、驚きと歓喜の日々を抱き起していった。
勝負の世界の厳しさを横目に、一気に頂上に向け駆け上がり、アマチュアにありながら、棋界ナンバーワンの藤棋王に挑み、地元の町で棋王位を獲得した。
夢のような日々
いやこれは、夢なのだろう
僕の妄想の世界での出来事なのだろう
もう現実の世界に帰っても良いだろう
そう思った刹那
ふっと吹いた一陣の風に傘が舞う
傘は、高台から広がる夜の海に向かって舞い上がり
落陽のごとくに消えていった
振り返れば、遠目に僕を見守っていた人々が僕に呼び掛けている
僕は軽く会釈する
彼らが、僕に向かって駆け寄ってくる
どの顔も笑顔に満ちている
歓喜に迎えられ、僕も彼らに向かって一歩を踏み出した。
夢はまだ続いているらしい。