叔父さんの「8月15日脱出記」 今だから伝えたい 戦争のこと、終戦のこと
アメリカ合衆国カリフォルニア州オレンジ郡に住む、叔父さんが、地元の日本人会 コミュニティー情報誌 Orange Network の終戦時の記録を残す企画 "今だから伝いたい 戦争のこと、終戦のこと" に 2017年5月 に寄稿した内容です。
文中の姉が、私の母(当時8歳)となります。文中にある、終戦を知った8月16日の夜、私の母が泣いて居た理由は、一家心中を口にした私の祖父に、母が 「私は死なん」 と言ったからだと、私は叔父さんから聞きました。母に確認すると覚えていないようでしたが。
母の一言、助けに来てくれた将兵さん、もし、予定通り引揚船に乗っていたらなど、一つ一つに感謝の言葉しかありません。
そして、二度と、このようなことが、私の子供や孫達におきないことを願い、繋ぐことも私の役割だと考え、note に残したいと思います。
8月15日脱出記
幼い頃の記憶は一片の画像として残る。その一つ一つについて両親に尋ねると、その答えが画像を繋ぎ合わせ、一連のドキュメンタリーが出来上がる。
私の8月15日の記憶もそういった類のものである。
それは8月16日昼過ぎに数人の見知らぬ韓国人が玄関口に現れた時に始まる。
これが終戦の第一報であった。
当時父は日本統治下の朝鮮半島南部の山奥で鉱山を経営していて、日本人家族は小学校長と警察署長を含めた3家族だけというその小部落には終戦の報は一日遅れで届いた。
話を聞くと母は布団を出して8歳の姉と5歳の私を覆い隠し、私はただ震えていた。
”客人”が去ってからしばらくすると、韓国人従業員や村人が心配して来てくれたが、彼らの情報は"警察署長のいち早い逃亡"とか"他の部落での騒乱"といった悪いものばかりであった。
その夜暗いランプの下で両親は短い会話を交わし姉が泣いて居たのを思い出す。
何十年も後の母の話では、父は一家心中も考えたようで、それを聞きつけた姉が泣き出したらしい。
旧制中学に通う兄が祖父母と住んでいた日本人社会のある港町までは百キロ以上ある。
治安の悪い中を幼い子供を連れて徒歩で行くのは危険極まりない。
受けるかもしれない恥辱は、明治気質の父には死ぬ以上に耐えられないことであったのだろう。
しかし、その夜は死を思い止まった。
夜が明けると小学校の一室に連行された。
そこが臨時の収容所だった。
部屋の窓は板で覆われ外が見えないだけに、静寂の中に聞こえる廊下の足音が恐怖を煽った。
突然解放された。
日本軍の小隊が救出に来てくれたのである。
家は何の被害もなかった。
両親はすぐに家の整理を始め、急ぎ手荷物を作る。
手紙書類写真の類は庭で焼却した。
その時アルバムから剥がした3枚の写真が今も手元にある。
あがる炎を不安げに見ている私を、帯剣した若い将校がサトウキビ畑に連れだした。
並んで木箱に腰掛けてサトウキビを嚙みながら青い空を見ていたのが、一連の出来事のなかで唯一の楽しい思い出である。
夜明けとともに軍用トラックで港町に向かって出発した。
トラックの荷台に乗った私達の周りには約10人の兵士がいて、全員が常時銃を外に向け発砲態勢をとった。
到着した時の記憶がないのは、疲労で眠って居たのだろう。
危険を省みず救出に来てくれた将兵にお礼を言いたい。
港町に着いても日本行の船が無い。
9月に入って、日本人居住地区にも危険が迫ってくる頃、知り合いが日本から親戚が船で迎えに来たと言うので、便乗させてもらうことになった。
同乗者は8家族位居た。
後で母が46トンの貨物船と教えてくれたが、本来なら材木でも積んだであろう狭い船倉に家族ごとに茣蓙を敷きテリトリーを決める。
仕切りは無いが、プライバシーなどと言っている場合ではない。
船に乗れるだけでも運が良いのだ。沿岸用の貨物船は外洋に出ると大いに揺れ、おまけに夕刻から暴風雨になった。
1945年9月17日鹿児島県に上陸した大型の枕崎台風に遭遇したのだと思う。
船底を打つ波の音が未だに耳に残っている。
エンジンはポンポンと気丈に頑張っていたが(本当に焼玉エンジンのポンポン船だったのかもしれない)、それもブスブスと絶望的な音を立てて止まると、もはや波任せ風任せとなる。
幾度エンジンが止まり、沈没を覚悟したか。
やっと対馬の漁港に遭難して台風をやり過ごし、北九州小倉湾にたどり着いた。
幸運だった。
実際、後で知ったことだが、母が高熱で動けず乗船し損なった引揚船は、機雷に接触して爆破したという。
船首に出てドンヨリ曇った港を見詰める大人達の顔には、命が助かった喜びとこれからの生活の心配が交叉していた。
その時44歳だった父は、半生をかけて築いた総てを失い、夜露を凌ぐ場所さえ探さねばならない。
どの家族も同じような境遇であったのだろう。
後年父は終戦時の事は一切語らなかった。
私も聞くのは憚られて、母にこっそりと尋ねたが、母も口が重かった。
だから私の8月15日のドキュメンタリーは不完全なものである。
不完全なそして辛い記憶は自分の胸にだけ収めておくべきなのだろうが、それをあえて文章にしのは、亡き父母への供養になればと思ったからである。
プロフィール
井上元道氏
1939年12月北九州市(門司)生まれ。
1962年名古屋大学理学部科学科卒。理学博士。
名古屋大学准教授、メキシコ・ソノラ大学教授兼研究所長を歴任。その間フロリダ大学、アリゾナ大学客員教授。
現在、ソノラ大学学術顧問。Irvine在住。
Orange Network Vol.314 掲載内容
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