なぜリンゴは戦後歌謡のモチーフになったのか?|唄は農につれ農は唄につれ②
『季刊地域 vol.57』から始まった、前田和男氏(ノンフィクション作家)による連載「唄は農につれ農は唄につれ」。このたび公式Webサイト「季刊地域WEB」に加え、「農文協note」でも読めるようになりました!どちらもお楽しみください。
*第一話はこちら*
前田和男(ノンフィクション作家)
日本人が好む三大果物はバナナ、ミカン、リンゴ
日本人が好んできた果物と「はやり唄」とは、いったいどんな関係にあるのだろうか?
ひょっとすると、ここには、日本の農をめぐるありようが映し出されているかもしれない。そこで、このテーマについて数回にわたって検証を試みる。
日本人の果物消費動向を、総務省統計局家計調査の「1世帯あたりの購入金額」でみると、昭和の末まではミカンが1位を独走、少し離されてリンゴが2位をキープする展開が続いていた。それが、1963(昭和38)年の輸入自由化を受けて3位にバナナが入るや、その後もぐんぐんと追い上げて2015年には2位に浮上、ついに18年には1位に躍り出る。そのいっぽうで、かつて1世帯あたりの購入金額ではミカンはリンゴの2倍から1.5倍ほど高かったが、現在は両者の差がほとんどなくなっている。
では、この日本人の果物消費動向と「はやり唄」とは、どう相関しているのだろうか?
「唄は世につれる」の公理に従えば、こうなるはずである。戦後しばらくはミカンをモチーフにした流行歌が多産されるなか、リンゴをモチーフにした流行歌もその半数ぐらい誕生。そして、戦後20年をすぎた1960年代後半あたりからはバナナをモチーフにした流行歌が登場、その後数をふやしていく――と。
リンゴをモチーフにした「はやり唄」がぶっちぎり
ところが実際はそうはならなかった。
商業ベースの楽曲をほぼ網羅しているJASRAC(日本音楽著作権協会)のデータベースをタイトル検索したところ、「唄は世につれる」公理を大きく裏切る以下の結果となったのである。
なんと三つ巴の闘いを演じてきたリンゴのぶっちぎりである。なお、作詞・作曲者が同一でも歌手が異なると1曲にカウントされるので実数は半分以下だろうが、それでもこの傾向に変わりはないと思われる。
また、タイトルにはないが、歌詞にミカンやリンゴやバナナをうたい込んだ曲もあり、これはJASRACのデータベースからは検索できない。そこで、昭和の代表的歌謡曲を収録した資料にあたってみたが、ここでもリンゴのほうが優位である。たとえば――
がそれである。
ミカンについても同様にチェックをしてみたが、それと思しき唄は小柳ルミ子の「瀬戸の花嫁」(昭和47年)ぐらいだ。この唄の歌詞にはミカンはないが、「♪段々畑とさよならするのよ」が瀬戸内海の島のミカンを連想させる。
そして、バナナに関しては、それらしき歌謡曲はみつからなかった。
「唄は世につれる」公理への“裏切り”
しかし、モチーフがタイトルに含まれていようと、歌詞に盛り込まれていようと、最終的に重要な指標となるのは、その唄がどれだけ多くの人々に受け入れられてヒットしたか、である。その点でも、リンゴはミカンとバナナを圧倒している。
タイトルに「リンゴ」が含まれている唄ですぐに思い浮かぶのは、
これに先のタイトルにリンゴが含まれていない春日八郎「別れの一本杉」と藤島桓夫「お月さん今晩は」を加えた5曲は、いずれも戦後を代表する歌手によってうたわれ、大ヒットしたものばかりである。
これに対して、ミカンをタイトルに含む唄で大ヒットしたのは、「♪みかんの花が咲いていた」の「みかんの花咲く丘」1曲だけ。これに先のタイトルにミカンのない小柳ルミ子「瀬戸の花嫁」を加えたころでわずか2曲にすぎない。
つまり、リンゴは果物の購入量としては昭和の末まではミカンに大きく水をあけられていたが、唄のモチーフとなると、戦後歌謡史に燦然と輝くヒット曲ぞろいなのである。
この「唄は世につれる」公理への“裏切り”を、いったいぜんたいどう考えたらいいのだろうか。
終戦直後、リンゴは“高嶺の花”だった
すぐに思いついたのは、並木路子の「リンゴの唄」が藤山一郎の「青い山脈」とともに、戦後復興のシンボルソングとして大ヒット、荒廃の極にあった当時の日本人を慰撫したからではないか。これで「戦後日本を元気にするのはリンゴだ」となって、リンゴを主題とした「はやり唄」が量産されるようになった、という立論はどうだろう。
ちなみに、「リンゴの唄」も「青い山脈」も映画の主題歌(前者の映画タイトルは「それから」、後者は歌のタイトルと同じ)だが、前者のロケ地は、秋田県旧増田町(現横手市)のリンゴ農園で並木路子も出演、「リンゴの唄」をうたって大ヒットに貢献した。いっぽう後者の「青い山脈」のロケ地はリンゴを主産地とする津軽である。これで平仄があう。すなわち戦後日本の復興の勲一等の応援団はリンゴであったと。
もうひとつ有力な仮説がひらめいた。それは、当時リンゴはミカンに比べて“高嶺の花”だったことだ。
敗戦直後の1945(昭和20)年の闇市では、リンゴは3個10円(翌46年には2個10円)、ミカンは20~25個10円で売られていたという。当時のサラリーマンの平均月収が500円ほどであったというから、現在の価格にするとリンゴ1個が2000~3000円、みかん1個が250~300円になろうか。高嶺の花としては、リンゴのほうがミカンよりはるかに上である(『年表で読む日本果物文化発達史』西東秋男編、食料経済分析研究会、2008年)。
おかげで「リンゴの唄」にはこんな替え歌がつくられたという。
高嶺の花は「憧れ」に通じる。そこから、往時の果物消費動向ではミカンの後塵を拝していたリンゴが、唄のモチーフでは主役となったのではなかろうか。
リンゴ主役説の立論に難あり?
われながらなかなかの立論だと思ったが、よくよく考えてみると、この二つの仮説には難がある。
リンゴが戦後のはやり唄のモチーフで主役となったのは、「リンゴの唄」がすさんだ戦後の日本をチアアップしたからだとしたが、ミカンだって負けてはいない。46年、NHKラジオ「空の劇場」で、童謡歌手の川田正子が「みかんの花咲く丘」(作詞・加藤省吾、作曲・海沼実)をうたって大ヒット、荒廃の極にあった戦後の人々の心をいやして国民的歌謡になっている。
とりわけ当時の日本人の心をうったのは3番だったと思われる。
戦争で死んだのは徴兵に応じて戦場に赴いた男たちだけではない。銃後に残された母親たちも190万発超といわれる米軍による焼夷弾で命を落とし、多くの孤児をもたらした。たまたま孤児とならなかった多くの人々にとっても「わが身にも起こりえた悲劇」であった。また、ミカンからは瀬戸内海を、さらには広島の原爆を連想させたことだろう。その意味からすると、「みかんの花咲く丘」は、ひたすら明るく陽気な歌詞が横溢する「リンゴの唄」よりも、戦後の日本人の琴線をふるわせたかもしれないのである。
もう一つの仮説――リンゴの希少性が庶民の憧れだったことで、リンゴが果物をテーマとした「はやり唄」の主役となった、という立論にも難がある。
46年のミカンの生産量は15万2954tで前年を44.9%下回るが、リンゴは前年の1.4倍の9万680tと回復に向かったとされている(前掲『年表で読む日本果物文化発達史』)。リンゴは早くも高嶺の花ではなくなりつつあった。
つまりこの仮説は、敗戦直後の45年にはあてはまるが、それ以降はあてはまらない可能性がある。美空ひばりの「リンゴ追分」などリンゴをモチーフにした「はやり唄」のヒットは昭和30年代にやってくる。その頃に小学低学年だった筆者の体験からしても、高嶺の花はバナナであって、秋には国光や紅玉が、冬には温州ミカンが、季節の果物として、東京の中流サラリーマン家庭であったわが食卓にものぼっていた。
であれば、リンゴが高嶺の花だったことをもって、ミカンが「はやり唄」のモチーフとしてリンゴにこれほど水をあけられた根拠とするには弱い。別にこれぞという理由があるはずだ。
いやはや弱った。さて、どうしたものか。しかし、さらに資料にあたっていると、決定打がみつかった。
それは、ミカンとリンゴをめぐる「北高南低論」あるいは「東高西低論」――つまりリンゴの主産地が「北と東」に対してミカンの主産地は「南と西」であり、それが日本の歌謡曲を根底で支えている「原理」とシンクロしているから、という仮説だ。
今度こそ自信があるが、紙幅が尽きたので、その検証は次回に譲る。(この項つづく)
著者:前田 和男(ノンフィクション作家)
1947年東京生まれ。日本読書新聞編集部勤務を経て、ノンフィクション作家、『のんびる』(パルシステム生協連合会)編集長。近著に『昭和 街場のはやり歌』(彩流社)。
*本連載は、季刊地域WEBにて毎月掲載されます。本誌では3回分を一部要約してお届けします。