リンゴとミカンをめぐる異国の唄模様|唄は農につれ農は唄につれ④
『季刊地域 vol.57』から始まった、前田和男氏(ノンフィクション作家)による連載「唄は農につれ農は唄につれ」。このたび公式Webサイト「季刊地域WEB」に加え、「農文協note」でも読めるようになりました!どちらもお楽しみください。
*第一話はこちら*
前田和男(ノンフィクション作家)
リンゴとミカンは日本人の二大愛好果実にもかかわらず、なぜかリンゴをモチーフにした唄がミカンのそれを圧倒している。その歴史的経緯と理由について、前号では日本人の心奥にある「北・東志向」と「舶来信仰」の合わせ技で一本とする有力な仮説を提示したが、海外ではどうなのだろうか?
筆者の直感では、日本と同じく、リンゴのはやり唄がミカンのそれを圧倒してはいるが、そのありようは日本とはかなり違っていて、それが日本の「農のはやり唄」のありようをも逆照射しているのではないかと思えるのだが……。
そこで本稿では、資料にあたりながら、わが直感の検証を試みる。
海外でもリンゴがミカンを圧倒
リンゴをモチーフにした“異国の唄”で、誕生した地でもよく知られ、かつ日本でも愛唱されて即座に口からついて出るのは、アメリカ生まれの「リンゴの木の下で」とロシアの「カチューシャ」の2曲ではないだろうか。
前者はタイトルのままの「♪リンゴの木の下で~」、後者は「♪リンゴの花ほころび~」と、どちらもいきなり冒頭からリンゴがうたわれる。
もう一つ、先の2曲のように即座に口からついては出ないが、メロディは日本人なら耳に馴染みのある曲がある。アイルランド民謡の「ロンドンデリー・エア」だ。かくいう筆者もそうだが、多くの読者は音楽の授業で習ったきり忘れてしまっているであろうから、以下に歌詞を掲げる。(訳詞・近藤玲二)
これに対してミカンはどうだろう。
そもそもミカンは日本在来種なので(厳密にいうと、温州ミカンの“遠い親戚の一人”にあたるカンキツ類が、遅くとも卑弥呼の時代に中国大陸から渡来したとされる)、日本以外では、はやり唄のテーマにはなりようもない。そこで、比較条件をミカンからカンキツ類一般に広げてあれこれ探してみたところ、やっと1曲に行き当たった。
イタリア民謡の「帰れソレントへ」である。これまた「ロンドンデリー・エア」と同じくメロディに聞き覚えはあっても歌詞はおぼろげな多くの読者のために、以下に歌詞を掲げる。(訳詞・徳永政太郎)
冒頭からリンゴで始まる先の2曲に比べると、おそらく「言われてみればそうだったか」程度の印象で、「ロンドンデリー・エア」といい勝負だろう。となれば、日本人好みの異国生まれの唄としては、数では3曲対1曲で、「リンゴの圧勝」であることは間違いなさそうだ。
ただし、これで日本と似ていると見るのは早計である。その趣きはいささかどころか大いに違う。すなわち、リンゴは「陰」で、ミカン(オレンジ)は「陽」と、じつに両者は対極的でメリハリがはっきりしているからだ。
と、読者から、こんな反論が返ってくることだろう。たしかに、オレンジの花を背景に香らせた「帰れソレントへ」は間違いなく「陽」そのものだが、「リンゴの木の下で」も「カチューシャ」もひたすら明るい青春のラブソングで、同じく「陽」ではないか、と。
「リンゴの木の下で」はラブソングにあらず
ところが、この二つの「異国生まれのリンゴの唄」がラブソングとして、歌われ続けているのは、じつは日本だけなのである。
まずは「リンゴの木の下で」だが、1905年、当時アメリカで流行していたラグタイムの1曲として大ヒット。こんなストーリーの歌詞である。
つまり、「亡き恋人への追慕」であり、「陽」どころか「陰の唄」である。しかし日本では、
と、現在進行形の若い男女のラブソングとして、戦前にディック・ミネがカバーして以来、戦争をまたいで今に歌い継がれている。
コロナ禍の渦中の2022年、高齢者は75歳で「死の選択」を迫られるという“現代の姥捨て山”を描いた近未来映画「PLAN75」が公開され、主役の倍賞千恵子が人生最後にして究極の選択に悩むなかで「♪リンゴの木の下で~」と歌うシーンが、観客の琴線をふるわせた。歌詞は「陽」のままだったが、倍賞の歌いぶりには「追憶の果ての死」を予感させるものがあったからだろう。それが結果として、日本人に原曲本来のメッセージをようやく気づかせる契機となったという意味では、まことに感慨深いものがある。
「カチューシャ」はロシア版「出征兵士を送る歌」
ついで、「カチューシャ」である。日本では、「リンゴの木の下で」よりもオリジナルとの乖離がさらに激しいかもしれない。
この唄は、日本で知られているのとは違って、微笑ましい「若い男女の愛の交歓」でもなければ「ロシア民謡」でもない。まさかと思われるかもしれないが、1933年、独ソ戦に向けてスターリン体制下の1億4000万人の国民を総動員するためにつくりこまれた「軍国歌謡」である。
論より証拠を示そう。歌詞の最後はその唄のメッセージの総仕上げがあるにもかかわらず、日本で歌われている「カチューシャ」の最後の4番は、
と1番のリフレーン。オリジナルの歌詞がなぜか割愛されている。それを忠実に訳すと、こうである。
ヒトラーの侵攻によって、建国まもない世界史上初の労働者と農民の政府に崩壊の危機が迫るなか、「カチューシャ」は祖国防衛のために戦場に赴く兵士たちを見送る国民的シンボルソングとなる。さしずめ戦前の日本でいえば「♪わが大君に召されたる~」の「出征兵士を送る歌」のロシア版である。
さらに「女兵士カチューシャ」など50以上ものバリエーションを産み、独ソ戦の最中に開発された新型多連装ロケット砲の愛称ともなった。ロケット砲カチューシャは、その迫力ある轟音から「スターリンのオルガンによる“死の葬送曲”」と恐れられ、当初劣勢を強いられたソ連赤軍を挽回させ、勝利に大いに貢献した。
わずか4年間の独ソ戦で、旧ソ連は人口の2割近くにあたる2000万~2800万人が戦死したとされる(第2次世界大戦における民間をふくむ日本の死者は300万人弱で当時の人口の3~4%であった)。逆説的にいえば、「カチューシャ」は人類史上空前絶後の犠牲者を熱源として祖国防衛戦争を勝利に導いた“血塗られた唄”なのである。
ウクライナ侵攻でもうたい継がれる
さらに着目すべきは、「カチューシャ」は愛国軍歌として現役復活していることだ。
日本では、今にいたるもまったく報道されないが、プーチンによるウクライナ進攻とともに、ロシア各地の村では、80年前と同じく若者が村人から「カチューシャ」で送られる光景が見られるようになった。そして、ウクライナ侵攻から1年1カ月後の2023年3月22日、モスクワ中心部に近いルジニキ競技場に若者や軍人など20万人が参加して、ウクライナへの軍事行動を鼓舞する大規模集会が開催されたが、その冒頭を飾ったのは兵士たちによる「カチューシャ」の大合唱だった。その映像は日本のテレビでも流されたが、それを指摘するニュース・コメントはなく、翌日の全国紙の記事にもそれへの言及はなかった。
なんとも能天気なことに、日本において「カチューシャ」は、今もって青春のラブソングのままなのである。
「ロンドンデリー・エア」はレジスタンス・ソング
日本人に愛唱される「異国生まれのリンゴの唄」最後の3曲めは「ロンドンデリー・エア」だ。
そもそもこの唄のタイトルの末尾にある「エア」とは、後の人々が好きな詞をつけることを前提にしたメロディだけの古謡、日本でいえば「〇〇節」のようなもので、アイルランドでは長い歴史をもつ。先に紹介した「リンゴをモチーフにした失われた恋の唄」は、その代表歌の一つにすぎない。
17世紀にジェームス1世によってイングランド初の植民地にされるや、その強権的支配に対する抵抗が歌いこまれることになる。もとは「デリー」と呼ばれていた北アイルランド古都の名にイギリスの首都の名を被せられて「ロンドンデリー」と改称されたことこそが、屈辱のシンボル的事件であった。
1910年に生まれた新しい「エア・バージョン」が「ダニー・ボーイ」だ。日本では、1947年に文部省の「新訂尋常小学唱歌」に掲載され、ジェリー藤尾をはじめ多くの歌手によってカバーされたことから、先の「リンゴをモチーフにした悲恋バージョン」よりも間違いなく知られている。しかし、この唄が、長年にわたるイギリスによる抑圧からアイルランドを解放する独立運動に参加する息子ダニーへの、母親の複雑な心境が仮託された曲であると気づいている日本人はほとんどいないだろう。
アイルランドとイギリスとの確執は、北アイルランド紛争をめぐっていまも続いている。1972年、過激派IRA(アイルランド共和国軍)のテロ報復が続くなか、ロンドンデリーでイギリス軍によって多くの市民が殺害される「血の金曜日」事件が勃発。それを悼んで歌われたのは「ロンドンデリー・エア」であり、今も完全に独立を果たせないでいるアイルランド人にとっては、“第二の国歌”であり続けている。
唄は国情にもつれる?!
さて、冒頭で「異国生まれの唄」について「リンゴは『陰』で、ミカン(オレンジ)は『陽』」とする提起への読者の疑念は、これで解けたことだろう。
検証と調査を進めるなかで、異国生まれのリンゴの唄たちの「陰」が、筆者の想定を超えてかくも深く、いっぽうミカンの“代役”であるオレンジをモチーフにした「帰れソレントへ」の底抜けの「陽」とのコントラストがかくも対極的なことに、改めて驚かされた。
ひるがえって、日本はどうだったか。
第2回で示したように、1945年の敗戦直後の日本は、♪赤いリンゴに唇よせて~の並木路子の「リンゴの唄」による「陽」の歌声に元気づけられ、そのいっぽうで、翌年の1946年の日本は、♪何時か来た丘 母さんと~と、川田正子の「みかんの丘」によって戦争がもたらした「陰」の国民感情が慰撫された。リンゴとミカン(オレンジ)をめぐる「異国の唄模様」とは、まったくの真逆であった。
「唄は世につれ」というが、どうやら「唄は国の内情にもつれる」ようだ。ここから戦後日本のありようも浮かびあがってくる。
それにしても、日本と「異国」とを比較して、戦後日本の「リンゴの唄」たちは「カチューシャ」や「ロンドンデリー・エア」にならなくてよかったと思う半面、できれば「ミカンの唄」は「帰れソレントへ」であってほしかった。いやいや、瀬戸内海と地中海の規模の違いを考えたら、小柳ルミ子の「瀬戸の花嫁」の♪(ミカンが実る)段々畑とさよならするのよ~レベルの「陽」でよしとすべきなのかもしれない。
著者:前田 和男(ノンフィクション作家)
1947年東京生まれ。日本読書新聞編集部勤務を経て、ノンフィクション作家、『のんびる』(パルシステム生協連合会)編集長。近著に『昭和 街場のはやり歌』(彩流社)。
*本連載は、季刊地域WEBにて毎月掲載されます。本誌では3回分を一部要約してお届けします。
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