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街より人の寿命が長くなったから

今日、新宿は武蔵野館で中川龍太郎監督の『わたしは光をにぎっている』を観た。

きっかけは友人が、俺達と同世代で超すごい監督がいるんだよ!作品二回も観て、すごすぎて感動したから、監督に連絡取って、今度映画観た後に監督と少人数で話せる場を設けたから!来てよ!と声をかけてもらってのこと。その友人の半端ない行動力についても語れることは沢山あるけれど、映画に話を戻す。

『わたしは光をにぎっている』がどんな作品かと言うと、監督の言葉をそのまま借りれば、

翔べない時代の魔女の宅急便

であるが、具体的なストーリーは是非公式サイトと予告編を参照して欲しい。ただし、『魔女の宅急便』とは物語の流れが大きく異る。何故『魔女の宅急便』を引き合いに出したかを意識して観るとまた面白いかもしれない。中川監督が『魔女の宅急便』の名前を使って、ふんどしを借りて相撲を取っているかというとそうではなく、むしろジブリを愛し、その背景までをも確りと理解しているからこそ、がっぷりよつに組み入っている、そんな発言であることがわかる。

この作品を観て思ったことは、とにかく映像が美しい。冒頭の湖も、澪が上京した先の下町風情の残る町並みも、銭湯のお湯も、ワンカットワンカットが写真で並べただけでもストーリーを感じ取れるぐらい、力を、メッセージを持っている。表情や感情を強調する為のアップもなければ、街の雰囲気を過度に伝えるようなドローン映像もない。わざとらしさを一切排除した、人の目線・視野に基づいた映像に、気が付いたら自分もそこにいるかのような没入感を覚える。

どうしてそんなにも映像の美しさが重視されていたのか、鑑賞後の監督の話でストンと落ちた。それは監督が映画の”アーカイブ性”を非常に強く意識していることに起因する。

映画の”アーカイブ性”とはつまりどういうことかと言うと、映画には町並みを空気感と共に切り取っておく力があるということ。戦後の東京の様子は今や跡形もない。バブル期の東京ですら、ネオンは街に残れど、その熱気を感じることは出来ない。だけれど、『東京物語』を流せば1950年代の東京の町並みとそこで暮らす家族の様子が、『ロスト・イン・トランスレーション』を流せば20年前の東京の空気感がそこにある。

昔は人の寿命も今ほど長くなく、また情報社会に入る前で、今ほど競争にさらされた社会ではなかった為、昔通ったあの喫茶店も学生の頃にお世話になった定食屋さんも、日焼けした壁と傷んだ調度品、そして年取った店主や2代目の姿とともにそのままそこにあった。でも今の時代は、競争・再開発・拡大が街を跋扈し、久しぶりに訪れたあの町は高層ビルが乱立しているか、シャッター街になっているか、どこでも見るチェーン店に入れ替わっているか、という状態になっている。

僕の作品は、「この街にいる、この人。」が常に起点なんです。

その場所を再訪し、あのときの空気を吸うことが難しくなった今、映画が持つ”アーカイブ性”の果たす役割は益々大きくなっている。その力を最大限に活かす、エンターテイメント性とアート性、その絶妙なバランスを保った稀有な作品が中川監督の創作物であるということを、ご本人の語りを聞く中で感じる事ができた。

それを知った状態でもう一度『わたしは光をにぎっている』を、そして中川監督の他の作品も観てみたいと思った。

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