老年慕情


   
 家を出る前から、洋介の気持ちは高ぶっていた。今日もあの人に会える。自然と足も速くなる。
 向かうのは、駅の近くにある市立文化センター。毎週水曜日、そこで開かれる生涯学習講座に洋介は通っているのである。
 洋介は五年前、六十五歳で会社を定年退職した。中堅の食品メーカーで、そこの営業部長まで勤めあげた。退社後三年間ほどは、後輩から仕事の相談があって会社に出向いたり、定年退職した同期の仲間たちとの飲み会があったりして、外出する機会が多かった。
   しかし、三年が過ぎるとその誘いもなくなり、一日中家で過ごすことが増えた。毎朝七時頃に起き、新聞を読み、朝ご飯を食べる。その後は何もすることがないので、テレビばかり見る。それを何日か続けているうちに、定年退職後の男が見て楽しめるテレビ番組があまりないことに気がついた。
 洋介は、報道番組と刑事ドラマを見るのが好きである。ニュース報道は、午前も午後もワイドショーという形で放送されることが多い。そこに出てくるコメンテーターと称する芸能人たちは、ニュースの背景をよく知らないままにわけ知りのような発言を重ねて、洋介は腹が立つことが多かった。ニュースの真実を詳しく解説してほしいと洋介は思うのだが、それをきちんと語れる人がいない。取り上げるニュースも、大衆受けする週刊誌ネタ的なものばかりだ。昔の報道番組はこんなものではなかった。賛成反対両方の論客が議論を戦わして、ニュースの実相が掘り下げられて報道されていた。そうした刺激は今はない。テレビ番組の質がそれだけ低下したのだろう、と洋介には思えた。
 
 また、昔からミステリー小説を愛読していた洋介は、それを原作にした刑事ドラマを見るのが好きだった。原作がどのように映像化されたか、比較するのが楽しかったのである。見たいドラマの放送時間が重なったときは一方を録画して、翌日見るようにした。家にいることが多くなると、午後の時間に再放送の刑事ドラマがあることを知った。以前見たことのあるドラマでも、時間つぶしで見る機会が増えた。ストーリーを忘れていたものもあるので、再放送でも新鮮に見ることができた。
 だが、そんな毎日も度重なると飽きてくる。変わりばえのしない生活で、洋介は空しさを感じるようになった。そんなとき、市の広報誌で生涯学習の講座があることを知ったのだった。
 講座は、俳句、短歌、絵画、朗読、読書、研究などいくつかのサークルに分かれていた。どのサークルも、毎週一回二時間程度講師の話を聞きながら学ぶ、というものであった。参加するには費用がかかるが、洋介にとってはたいした負担ではなかった。週一回でも外出する決まった用事ができれば退屈な毎日から抜け出せるかもしれない、と洋介は思った。
 洋介は、研究サークルの中から「百人一首の世界」という講座を選んで参加することにした。文章を創作したりたり絵を描いたりすることは自分に向かない、百人一首ならば学生時代に少し学んだことがある、と親しみが持てたからである。
 
  講座はすでに何回か開かれていたので、洋介は途中からの参加ということになった。初めて教室に行ったとき、洋介は驚いた。教室には三〇名ほどの人がいて、何人か若い人もいたが、七割は年配の老人で、それも女性がほとんどであった。男性は、洋介を入れて五人しかいなかった。
 最初の日、洋介は遠慮がちに後方の席に座った。講師は歌人でも有名な男性の大学教授で、その人の名は洋介も知っていた。洋介よりも一〇歳以上若い年齢のはずである。
「今日は第五十七首め、紫式部の歌から始めましょう」
 講師の講義が始まり、出席者が一斉に聞き耳を立てた。洋介は後ろから教室の中を見回した。どの人も講師の講義に合わせてメモを取っている。
「めぐり逢ひて見しやそれともわかぬ間に雲隠れにし夜半の月かな。久しぶりにめぐり逢って、幼いころの友だちであったかどうかもわからないうちに、あっというまに雲に隠れてしまった月のようにあなたは去ってしまった、という意味ですね」
 室内を見回しているうちに、洋介はふと一人の老婦人に目を引きつけられた。前方に座った後ろ姿だったが、他の女性たちはみな洋服を着ているのに、その人だけ和服の着物姿だったからだ。
 講師は、紫式部の歌の解釈から始まって、歌が生まれた時代背景、彼女の生涯、清少納言との比較など、多岐にわたってわかりやすく解説してくれた。ユーモアを交えた語りで、時折教室に笑い声が起こる。ここなら続けられるかもしれない、と洋介は思った。
 
 翌週も洋介は出席した。その日も、教室での和服姿は先日の女性一人だけだった。前方に座って、講師の話に熱心に聞き入っている。先日とは色も柄も異なる着物であった。
 洋介には着物の良し悪しはわからない。だが、派手ではなく、かといって地味でもなく、落ち着いた年相応に似合っているように思えた。年齢は七〇歳ぐらいだろうか、すっかり白くなった髪を染めることなく、そのまま首の真ん中あたりまで垂らしている。婦人の回りだけ空気が澄んでいるような凜とした感じがあった。
 その日の講義が終わったあと、洋介は教室の世話役をしている女性に尋ねた。
「あの和服の女性はどんな人なのでしょうか」
「ああ、秋山さんね。あの方はこの教室のずっと前からの会員です。もう三年ぐらいになるでしょうか」
「いつも着物なのですか」
「そうですね。着物以外のお姿を見たことはありません」
「どちらにお住まいなのでしょう」
「さあ、私は存じません。ご本人にお聞きになったらいかがですか」
 腹の中を見透かされたような気がして、洋介はそれ以上尋ねるのをやめた。
 
 次の週、洋介は講義の途中の休憩時間にぽつんと一人席に残っていた秋山に近寄り、おそるおそる声をかけた。
「失礼ですが、秋山さんですか」
「はい、そうですけど」
 秋山に真正面から見つめられて、洋介は慌てて目をそらした。秋山は、そんな洋介を警戒する様子も拒絶する様子もなく、洋介の目を見続けたままだ。
「はじめまして。私、大西と申します。つい最近この教室の会員になったばかりです」
 遠慮がちに言うと、秋山がかすかに微笑んだ。薄く化粧をした顔に品の良さが感じられた。
「いつも熱心にノートに筆記しておられますね。百人一首、お好きなのですか」
「講師の先生が主宰している短歌の会に入っているので、この教室で勉強しているのです」
「いつもお着物を着ておられますね」
「ええ。母の形見です」
 秋山はさらりと言った。
「お母様はいつお亡くなりに?」
 洋介が訊くと、秋山は視線を逸らして黙り込んだ。訊いてはいけなかったかと洋介は思い、話題を変えた。
「百人一首ではだれの歌がお好きなのですか」
「ショクシナイシンノウですね」
 ショクシナイシンノウ。洋介は胸の中でつぶやいた。初めて聞く名前だ。
 秋山が続けた。
「百人一首の八十九番にあります。玉の緒のよ絶えなば絶えねながらへば忍ぶることの弱りもぞする」
「どんな意味なのでしょう?」
「わが命よ、絶えるのならばいっそ絶えてししまえ、生きながらえていると、自分の中に秘めていた恋心が弱って、想いが外にあらわれてしまいそうだ、ということのようです」
「ずいぶん激しい恋の歌ですね」
 あなたもかつてそんな想いをしたことがあったのですか、と訊こうとして、洋介はやめた。秋山の隣の席の女性が戻ってきたからだ。
洋介はその場を離れ、自分の席に戻った。
 
 秋山の後ろ姿を見つめる。和服に身を包んだ秋山からは、そんな激しい感情は全く感じられない。穏やかで、物静かな印象だ。語り口も、自分の知識を自慢するような気配はなく、何も知らない洋介にやさしく説いてくれる気遣いがあった。母親の形見を着続けている親思いの深さ。秋山という人間の性格を垣間見た思いであった。 
 洋介はもっと秋山と話がしたいと思ったが、講義が終わると秋山は親しそうな女性とさっさと教室を出てしまい、その機会を失った。
 自宅へ戻ってから、洋介はインターネットでショクシナイシンノウのことを調べてみた。
 ショクシナイシンノウ=式子内親王。平安末期・鎌倉初期の女流歌人。後白河天皇の第三皇女。七歳で賀茂神社の斎院となり、十七歳まで奉仕し、後に出家。
藤原俊成に和歌を学ぶ。病のため四十九歳で死去。
 斎院とは、天皇が京都の賀茂神社の祭祀に奉仕させるためにつかわす皇女で、未婚の皇女または王女の中から占いにより選ばれる、とある。
 式子内親王は斎院として十七歳まで未婚を通した。その後も、生涯結婚しなかったという。男性と交渉のなかった女性が、なぜあのような激しい恋の歌を詠むことができたのか、洋介は不思議に思った。
 
 次の週、洋介は休憩時間に秋山と二人だけで話をする機会を持つことができた。
「式子内親王について、少し調べました。生涯未婚のままで、彼女は女性として幸せだったのでしょうか。どう思われますか」
「生涯未婚だと、幸せではないのでしょうか」
 秋山の意外な反論にあって、洋介は当惑した。
「いえ、そんなことはないと思います」
と、あわててつけ加えた。
 その日も、秋山は着物姿であった。そのもの静かなたたずまいは、洋介をさらに引きつけた。
「今日のお着物もお母様の形見ですか」
「ええ」
「お母様はいつ亡くなられたのでしょうか」
 秋山はしばらく黙っていたが、
「五年前です。体が不自由になってから、ずっと私が介護をしておりました」
 と言って、ふと悲しげな表情を見せた。だがそれはほんの一瞬のことで、すぐにもとに戻った。
「お母様とご一緒に暮らしておられたのですか」
「はい」
「理解のあるご主人ですね」
「私は結婚はしておりません」
 秋山が鋭い口調で言った。どうしてですか、と訊こうとして、洋介は言葉を飲み込んだ。
「失礼なことを申しました。どうかお気を悪くなされませんように」
 秋山は黙り込んだままだ。嫌われたのかと洋介は思ったが、秋山はすぐにもとの柔らかい表情に戻った。
 
 その日から、教室に来るたびに洋介は秋山と短い会話を交わすようになった。といっても、話しかけるのはいつも洋介ばかりで、秋山は言葉少なであった。百人一首の話になると洋介の疑問にていねいに答えてくれたが、秋山自身のプライベートな話題に触れそうになると、巧みに話をそらせて無口になってしまう。他人が自分の中に踏みこんでくることを拒否するようなバリアがあった。男としての洋介へ警戒心があるのかもしれなかった。いつかそのバリアがなくなってくれることを、洋介は願った。
 洋介は、妻の百合子と秋山を比較した。百合子は、話し好きで社交的な明るい性格である。若い頃、洋介は会社の仕事や人間関係で悩んだことが何度かあったが、そのたびに百合子の屈託のない明るさに救われたものだった。百合子は百人一首には全く興味を示さず、洋介をほったらかして近所の奥さんたちと旅行へ出かけることを、日頃の楽しみにしているほどだ。
 それに比べて、秋山は正反対だった。内向的で、奥ゆかしい。百合子が活動的な赤色だとすれば、秋山は静かな青色。その青色が、今の洋介にはひどく新鮮で、魅力的に思えた。これまでそんな女性に出会ったことがなかったからだ。
 教室に通い始めて一ヶ月が過ぎ、今では教室で秋山に会えることが洋介のひそかな楽しみになっていた。久しぶりに味わう胸の高鳴りであった。
  
 今日も、洋介は秋山に会える期待で浮ついていた。教室へ向かう足が早くなる。今日こそは、講義が終わったら秋山をお茶へ誘ってみようと意気込んでいた。
「あなた、このごろ教室へ行くのがずいぶん楽しそうね。なにかいいことでもあるの?」
 先日百合子にそう言われて、洋介はひやりとさせられた。秋山のことは百合子には話していない。
 いつもより早く教室に着いた。中には二、三人しかいない。秋山の姿はまだなかった。
だが、講義が始まっても秋山は姿を見せなかった。いつも秋山が座っている席には別の婦人が座っている。洋介は寂しさと不安を覚えた。胸がざわつき、講師の話も上の空であった。
 休憩時間に、洋介は世話役の女性に尋ねた。
「今日秋山さんは欠席のようですが、なにかあったのでしょうか」
「秋山さん? ああ、あの方なら先日退会されましたよ」
「退会?」
 洋介の声がうわずった。
「どうしてですか」
「なんでも、急に遠くへお引っ越しをされることになったとかで」
「どちらへですか」
「さあ、私は存じません」
 世話役の女性は素っ気なく言った。洋介の胸のざわめきが激しくなった。秋山は、先週は教室に来ていて、洋介とも言葉を交わしていたのだ。そのときは引っ越しのことなど一言も言っていなかった。この一週間でばたばたと決まったのだろうか。
 一週間だから、まだ引っ越しの準備の最中かもしれない。家へ行けば会えるだろう、と洋介は思った。
 
 文化センターの事務所に行き、職員に尋ねた。
「生涯学習講座の教室におられた秋山さんのことでお訊きしたいのですが」
「はい。なんでしょう」
 若い女性が応対した。
「退会したそうなので、連絡先を教えていただけないでしょうか」
「え?」
 女性はさぐるように洋介を見た。
「個人情報をお教えすることはできません」  
「じつはその方からお預かりしていたものがあって、大切な資料らしいので、お返ししたいのです」
 嘘である。住所を聞き出すための方便だ。
「近々引っ越しをされると聞いたので、その前にどうしてもお渡ししたいのです。住所を教えてください」
 洋介は重ねて懇願した。その真剣ぶりに、職員の女性は同情したらしい。入会届に記されていた秋山の住所を教えてくれた。
 そこは、良介の家からは駅を挟んで反対側の隣町だった。文化センターからは歩いて行ける距離だ。地図で場所を確かめ、洋介は向かった。

 住居表示を頼りに、家を探した。しばらく歩き回って、やっと見つけた。古い神社の裏手にある、二階建ての一軒家だった。それほど大きくはない。両隣の家に挟まれて、窮屈そうであった。入り口の表札には秋山と書かれている。洋介の胸の動悸が早くなった。
 玄関のチャイムを押した。だが、何度押しても人が出てくる気配はなかった。たまたまいまは留守にしているだけなのか。それとも、もう引っ越しを終えてしまったのか。三〇分ほど待ってみたが、秋山は現われなかった。敗北感のような空しさを感じながら、洋介は引き返した。
 歩いている途中で、ふと思いついた。引っ越しの手続きで、秋山は郵便局に転居通知を出しているに違いない。それならば、さっきの住所へ手紙を送れば引っ越し先へ転送されるはずだ。
 自宅へ戻ると、洋介はすぐに手紙を書き始めた。

「突然こんな手紙を差し上げて、申し訳ありません。百人一首の教室でご一緒した大西です。覚えておられますか。
 私は今も教室に通い続けています。いつもなら教室の前のほうの席で、熱心にメモをとっておられるあなたの姿があるのに、今は見られません。寂しい思いがしております。
 短い間でしたが、あなたとお会いできて楽しかったです。もっといろいろお話を聞かせてほしかったのですが、退会されたそうで残念です。
 式子内親王について、あれからさらに調べてみました。百人一首の歌以外にもたくさん歌を詠んでいるのですね。どれも熱い想いがあふれていて、式子内親王の人生を哀れに思いました。
 幼いころから斎院という閉鎖的な生活を送り、生涯独身を通してあのような激情の歌を詠んだ女性。きっと、何かに耐えるようなつらい思いを秘めて暮らしていたのではないでしょうか。
 失礼かもしれませんが、そんな式子内親王の姿があなたの印象に重なりました。いつも和服に身を包んで、凜としておられた。あなたが今までどのような人生を送ってこられたのか、私は何も知りません。私がそちらへ話題を向けようとすると、あなたはいつも避けておられた。だから、なおさら興味を持ちました。
 あなたには不思議な魅力があります。もう一度ぜひお会いしたい。遠くへ引っ越しなされたということですが、今はどちらへお住まいなのでしょうか。もうお会いすることはできないのでしょうか。
 ご迷惑でなければ、お返事をください。心よりお待ちしております」
 まるでラブレターだな、と洋介は苦笑した。もし返事がきたならば、手紙のやりとりをずっと続けよう。そうすれば、いつかまた会える機会がくるだろう。だが、返事がこなかったならば……そのときはそのときだ。仕方がない。
 洋介は、淡い期待を抱きながら、手紙をポストに投函した。
                 (了)

2

いいなと思ったら応援しよう!