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7、激動の平成の幕開け  ③新たな世界へ

7、激動の平成の幕開け  ③新たな世界へ

身体の異変に気が付きながらも、どうしたら良いか、どう切り出したら良いか、悩みながら日々を過ごしていた。とは言え、安定期に入るまでは、いや、入ってからも、無理は出来ない。一人の身体ではなく。確実に自分の中には、新しい命が育まれていた。

仕事はしっかりと続けていた。幸い、つわりもそこまでひどくなく、と言うか、正直、動いていると、いやでもつわりも飛んで行ってしまう感じだった。そんな中、実に残念なニュースが飛び込んで来た。何度も書いて来ているが自分はスポーツが大好きで、産経新聞社でも絶対に運動部の記者になってやると言う希望を持って働いていた。なので、自分にとってはとてつもなくショックな出来事だった。
ラグビーで日本選手権7連覇を遂げていた新日鉄釜石の高炉の火が消えると。それはイコール、長年、街を支えて来た基幹産業の消滅と同時に、栄光のチームが街から無くなる事も意味していた。
実業団ラグビーの雄、新日鉄釜石は1978年から84年まで、日本選手権7連覇を遂げて“北の鉄人”と、呼ばれていた。ラグビーが大好きな父に連れられて出かけた国立競技場では、釜石を応援する色鮮やかな大漁旗が大量に振られていたものだった。泥臭い、男臭いチームカラーも大好きで、常に応援し続けていた。スマートなライバル神戸製鋼に対して、どん臭く立ち向かっていく様に何度も何度も感動を貰っていた。
中でも、釜石の顔だった森重隆や松尾雄治よりも、名プロップの洞口孝治が好きだった。JAPANのキャップも24持ち、主将を務めた事もあった。釜石工業出身で、ずっと釜石に根付いていた彼が、何と、横浜に出て来て、トーヨコという都会のチームの監督になると言うのだ。
これはもう、黙ってはいられない。と、取材に出かけ、慣れないスーツ姿で、不器用に笑う洞口を取材した。口数は、予想通り少なく、でも、温かな人柄が滲み出ていて、思っていた通りの人物だったことが嬉しかった。
が、この後、本当に残念な事に、1999年、45歳の若さで逝去された。この時も、本当に驚かされた。

その後も、しばらくは社会部で気象庁の記者クラブ担当としても活動。今、記事を見ると、30年前の同庁は今の地球温暖化を既に予測していた。当時は、会見を聴きながら、そんな事あり得るのかなどと、真剣に考えた事も思い出した。

ところで、世の中が落ち着いて来ると、身近なところがざわざわして来るものだった。少し前から、社会部の先輩たち、いや社会部だけでなく他の部からも、同業他社への記者の流出が始まっていた。最初に、社会部を去った2人はT新聞社だった。また、中途の同期で入社した経済部に配属されていた高校の先輩は、Y社へ。その後、その流れは止まる事はなかった。A社が、大量の中途採用を始めたのだった。実に多くの先輩たちが、Aに移って行った。
「こんな事があるんだ」と、正直、本当に驚いた。が、多くの先輩たちは、経済的な理由を挙げていた。かつて、潰れかけた事もある産経とM社は、マスメディアの中でも給料が安いと言われていた。それでも、自分はシャープから転職して来た時、全く収入が下がったと言う意識は無かったので、当時のメディアの給与水準は、やはり高かったのだろう。産経とM社を除いて。
とは言え、去る者は追わずと言う気概も、社内では感じられたし、報道や考え方の軸はぶれなかった。私も、自分の人生を変えてくれた会社に多大なる恩義を感じていたので、その動きに同調する気はさらさら無かった。ただ、色々教わった多くの社会部の先輩たちが去って行った事は、寂しくもあり、やはり残念ではあった。
しばらくその流れは静まらなかった。

自分は黙々と、しかし、体調に気を付けながら取材を続けた。女性記者ならではの視点も求められたので、積極的に流行を追ったり、旧姓使用問題に取り組んだりもした。書いていて、これらの内容なら、何も社会部でなくても書けると考え始めていた。
そう、新聞の社会面の街ネタと生活(家庭)面の記事は、類似していて時に被ったりする。自分は街ネタが得意だった。文章を上手に書くと言う事に関してはまだまだ未熟で、修行が必要だった。が、自分で言うのも恥ずかしいのだが、何が面白いとか、今ウケているとか察知する感覚や、人一倍の好奇心を持ってパッとフットワーク良く動く事は、当時から得意だった。
そして、これらなら社会部でなくても書ける紙面がある、と。

いよいよお腹に、事件事故に備えたり、宿直を担当する事が厳しくなって来た頃、W社会部長に申し出た。自分の状況を説明して、この身体のためにも、突発に備えなくて良い場所へ移る事を希望した。

「文化部に私を、異動させてください」と。

産経新聞社に入社して2年と3カ月間(多摩支局も社会部管轄)、ずっと育ててもらった社会部が大好きだったし、自分にも合っていると思っていた。残念な思いも強かった。しかし、元気な赤ちゃんを産んで育てて、そして、同時に新聞記者という仕事を続けて行くための選択だった。

平成1年5月の編集局社会部の定例部会で発表され、私は文化部の配属となった。
そこは、それまでいた社会部とは全く違う世界だった。
同じ新聞社内でも、こんなに違うのだと、本当に驚いたものだった―。

<写真キャプション>
はにかんだような洞口監督の写真が大好きでした。温暖化の記事は、一面トップに。
懐かしい“渋カジ”。「ナウい」「ボディコンギャル」と、相変わらず死語が躍る記事に、つい笑いが止まりません。

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