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8、社会復帰は波乱含み  ②変わりゆく文化部

8、社会復帰は波乱含み  ②変わりゆく文化部

平成3(1991)年1月、満1歳を過ぎた長男の慣らし保育を経て、私は新聞記者の現場に復帰した。朝はバタバタと保育園に自分で送り届け、迎えは私の母が行ってくれた。1時間の延長保育を頼んでいたものの、当時は午後6時が限界だったのでかなりの負担をかけてしまった。迎えに行くだけでなく、孫と私、実家の父の夕食の準備を毎晩してくれていた。
本当に今でも頭が上がらない。そして、自分は実家のサポートがあり、本当にラッキーだったし、だからこそ仕事が続けられたのだと、改めて思う。
親が地方にいたり、何かしらの事情で援助を受けられないケースの方が多い。また、昭和初期に生まれている親の考え方も、女は家に入って子供と旦那の世話をしろ、世に出て働くなんて、というものも少なくなった。
かく言う我が家も、私が大学卒業当時の母も私も、せいぜい自分が勤めるのは子供を出産するまでだろう、なんて、気楽に考えてはいた。転職にも母は大反対だった。が、仕事に一心不乱に打ち込む自分を見て、母は大きく考え方も変わり、何より、私が書く記事の1番のファンになってくれていた。ありがたかった。
自分は自分で、子供を預けてまでも続けたい仕事に巡り合えた事に心から感謝し、周りの全てのサポートしてくれる皆に、いつか今度は必ず自分が恩返ししようと思いながら、懸命に働いた。夫も、元々はね返りと分かっていた私と結婚したので、理解はしてくれたが、物理的なサポートは今の若いパパたちとは雲泥の差だった。が、子供を風呂に入れてたり、洗濯を担当したり、やれる事はやってくれていた。
今のパパたちが、毎朝、子供たちを保育園に送って行く様を横目で見ながら、本当に時の流れ、意識改革、企業の理解(まだまだとは思うが)など、感じずにはいられない。
当時は、本当に大変だったと、改めて。

そんなこんなで、復帰に漕ぎつけた初日に、W文化部長に呼び出された。まあ、大変だけど頑張りなさいの一言でもあるのかと、楽観していた。
が、全く予想だにしなかった話だった。

「生活面に異動して欲しい」

「え、でも、演劇の仕事がまだまだやりたいですし、修行中でもあります」と、返した。
が、無駄な事はわかっていたし、どこか頭の片隅で、「やはりな」と言う思いはあった。

「ママさん記者なんて、ウチにはいない。存分にその立場を利用して書いてくれ。働く母親の気持ちがわかるのは神津クンしかいないんだ」と、部長に力説され。

そりゃま、そうだよな。わかるよ、わかるけど…

まだまだ歌舞伎の勉強も続けたかった。道半ばで、いや、半ばまでも到達していなかったと。しかし、よく考えたら、自分がボスでもこの異動指示はあるのだろうなと、言い聞かせた。それほど、当時の社内には子連れ記者なんていなかった。存在そのものが稀有だったのだ。周りを見回しても、編集局内にそんな女性記者はいなかった。昭和末期から平成初期なんて、まだまだそんな時代だった。
同じ時期に、一緒に産休に入った同期のMは、もういなかった。それも、本当に寂しかった。共に勝ち取った育児休暇だったのに、新設された休暇を利用して戻ったのは私だけだった。
諸事情で退社してしまったMの分も、自分が頑張らねば。そして、気持ちを引き締め直した。今は、自分に望まれている事を、自分が出来る範囲でやろう、と。

それにしても、復帰して驚いたのは、たった1年間休んだだけだったのに、文化部内に若い記者が随分増えていた。私が、ほぼ2年前に異動して来た時は、え、同じ編集局内とは思えない程、文化部は高齢者というか、ベテラン記者が多かった。まあ、社会部のように機動力が求められるところには、さすがにもういれないだろうなあ、という人間が多かった。まあ、ジャンルも生活面以外は、文化面、読書面、囲碁・将棋面と、知識が深い人間が担当すべきではあったのだが。
私が戻って来た時には、支局から直接上がって来た若い男女の記者が増え、やはり活気づいていた。若いとは、それだけで素晴らしいと感じる出来事だった。また、生活面は社会面の街ネタ担当に似たところもあるので、より若い人間が配置されていた。
担当デスクも、社会部から次々やって来た。
文化部も変わって行くのだなあと、ぐるりと眺め回したものだった。

<写真キャプション>
1、志摩スペイン村にお出かけ取材した時に、同行してくれた写真部Tカメラマンに撮ってもらった1枚。
2、まだまだ田島センセもお若い。当時は人気者であちこち引っ張りダコだった。
3、企業が、社員の健康作りに取り組むなんて当たり前の事もニュースになる時代。え、おたくの会社は、今もまだですか!?笑

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