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4、いよいよ支局へ⑥  増える女性新人記者。「だから女はダメなんだよ」と、言わせるものか

4、いよいよ支局へ⑥  増える女性新人記者。「だから女はダメなんだよ」と、言わせるものか

春は新聞社でも、怒涛の異動の季節になる。
昭和63年も明けて、まずは、大変お世話になったKデスクが、本社社会部次長として戻った。本をたくさん読めと勧めてくれたり、先輩の入院により兵隊が2人になってしまった時も、とんでもないネタで無理やり多摩版のトップ記事を作ってくれたり。様々な人々が寄り集まる支局のバランスが何とか保たれていたのは、『スクール☆ウォーズ』大好きA支局長と、Kデスクのお陰と言っても過言ではない。

代わりに支局にデスクとしてやってきたのは、社会部で裁判所キャップだったTだった。入れ替わりのKもキャップだったので、後を追うような形でやって来た。髪型がなかなか男性にしては珍しいおかっぱ頭のおだやかなデスクだった。すれ違うと、これまた懐かしいポマードの匂いがする人だった。

支局の雰囲気は、やはりデスクで変わるのだと思った。大声で話しながら、クマのように支局内をグルグル歩いていたK。静かで、ちょっと粘着気質なT。どう変わったかは、上手く説明は出来ないが、空気が変わった。
更には、長い事、入院していたKも、社会部に戻った。驚いたのは、Kが上がっても、1カ月ほど兵隊の補充が無かった。これが、また、あえてこの表現を使ってしまうが大変“ヤバく”、Hと私の自転車操業が復活してしまっていた。この状況が続くと、残念ながら、支局での大切な時間が修行と言うより、枯渇してしまうような気がした。自分としても、本当に苦しい時期だった。

更には、力が認められて正社員として採用になったカメラマンKが、本社写真部に異動になり、代わりに、またアルバイトと言う形でOがやって来た。後に、彼も力を認められて本採用となる。多摩支局のカメラマンは皆、良い写真を撮っていた。写真企画の連載もあったのも彼らが力を伸ばす事に大きく寄与したかもしれない。

そして、その後、また一カ月ほどして、自分に辞令が下った。本社社会部への復帰だった。正直、驚いた。まだ、支局に来て10カ月。通常、支局での修業は3年はある筈。まだまだ、もがきながらも、自分は半人前だという自覚があった。
が、残念な事に、私の一期上から始まった、女性記者の採用で入社した3人の内、2人がすでに支局時代に退社してしまうという事態が起きていた。残っていた一人、横浜支局のOと私は同時に社会部に上がり、横浜の私の同期のTは文化部に上がった。
せっかく女性の活用を再開しても、すぐ退社されてしまう。まだまだ、女性活用の過渡期ではあったが、人事部の嘆きも聞こえてくるようでもあった。
様々なメディアで女性記者が溢れる現在とは、隔世の感がある。

せっかく手にした、自分らしさが存分に発揮出来るこの仕事を、簡単には手放したりしない。先輩たちの退社を横目で見ながら、固く決意した。せっかくの女性記者の採用の道筋も途絶えさせては絶対にいけないと、考えた。

「だから、女はダメなんだよ」
と、言わせるものか。

多分、当時はどんな職場でも、このような女性の活用に関して一進一退、企業側と社会進出する女性、それを活用する男性上司など間に様々な葛藤がありながらも、今日に至ったのではないかと。
産経新聞社では、全く男女差なく、仕事で人間を判断してくれたから、とてもやり甲斐を感じながら、仕事を続けることが出来た。心から感謝している。

何よりも、頑張らなければならないと感じたのは、先輩Kと私の後任として、多摩支局に異動して来た新人記者が2人とも、新卒の女性記者だったからだ。若くて、フレッシュで、本当に可愛かった。
武蔵野地区を引き継いでくれたのはK。小柄で目がクリクリとしていて、とても新聞記者と言われてもそんな風には見えなかった。引継ぎの時も「ハイ!ハイ!」と、テキパキと受け答えしてくれて、気持ち良かった。
安心してバトンタッチして、支局を後にする事が出来た。
もう一人Nは、立川地区の担当となった。色白でスラッとしていて、意外に頑固なところがある人間だった。この2人の後任にも、また、Iという女性記者がやって来た。
当時の多摩支局は、そんな場所となった。今はどうなのだろうか。

昭和63(1988)年5月、私は本社社会部に異動となった。
配属は警視庁第4方面、新宿警察署の記者クラブ。渋谷署よりははるかに大きく、方面の中でも責任あるポストに、気持ちが引き締まった。

昭和も残すところ、あと数か月のタイミング。もちろん、その時は誰もそんな事を予想すらしていなかった。
怒涛の昭和末期だったが、春はまだ静かだった―。
警察を担当していたが、思いがけず様々な仕事を担当させてもらえる事が出来た思い出深い時代のスタートとなった。

<写真キャプション>
殺人事件を追いながらも、多摩版の連載も担当していた。本当に良く書いていた時代。その中でも『マイライフマイタウン』は、多摩地区の地元出身で活躍する人々をインタビューする企画で、スキだった。浅井えり子さんはソウル五輪マラソン代表。トニータナカさんは、当時としてはまだ珍しい男性のメーキャップアーティスト。シャープ時代の最後に、会社単位で出演したテレビ朝日の『OH!エルくらぶ』にもレギュラー出演されていて、いつか話を聞いてみたいと思っていた。

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