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5、昭和最後の暑い夏 ③一流企業の社長は、ここが違う
5、昭和最後の暑い夏 ③一流企業の社長は、ここが違う
テニスプレーヤーとして、更なる高みを目指す修造青年は、慶應義塾高校を飛び出した。何の苦労もなく歩み続けられる筈が、あえて茨の道を選択した。
目指した先は、テニスの名門中の名門、インターハイで14連覇の偉業を成し遂げている福岡県にある柳川高校だった。福井烈などの母校としても知られる。
柳川は美しい水郷の街としても有名だ。取材を終えた後、渡し船にも乗り、その素晴らしい景色も堪能した。いつかまた訪れてみたい。
おっと話を取材に戻す。
まずは修造が通った柳川高校を訪れた。数えきれないほどのトロフィー。かつてはテニス部監督でもあったK校長に話を聞いた。編入を渋った同校を説得したのは、何と修造の母親だった。
「修造は、ただ強くなりたいのです」
最愛の息子が遠い地に行ってしまうにもかかわらず、強く願った。思いは通じた。
その後、私は当時のテニス部の田島幹夫監督に紹介され、修造の柳川での頑張りをについて取材した。話がひと通り終わると、何と田島監督は、とても美味しい鰻の店に連れて行ってくれた。鰻の懐石料理を食べさせてもらった。初めての体験だった。白焼きから、小骨の唐揚げから、どれも感動的に美味しかった。どうも、柳川の話になると、本題からそれがちだ。
鰻でお腹いっぱいになると、今度はお自宅に招いてくださり、奥様を紹介していただいたり、取材を離れて色々な話をした。その中で、実は自分はシャープの広報担当をしていたという話をすると、田島監督はおもむろに携帯電話を取り出し、ピッと短縮ダイヤルを押した。しばらく、電話をかけた相手と楽し気に会話を交わしていたが、
「ここに、お知り合いが来ていますよ」と、先方に伝えると、私に携帯を差し出してくれた。
え、監督と私に共通の知り合いなどいる筈もないのに。恐る恐る携帯を受け取り、
「もしもし」と自分が声を発すると、向こうから明るくて元気な中年男性の声が飛び出して来た。
え、まさか。
「Tだよ、T。神津さんだよね、元気か?」
何と、当時のシャープのT社長だった。
驚いた。
新年初頭の社長会見や、取材で何度か立ち合いはしたものの、一介の単なる女性広報担当者を覚えているとは。しかも、大阪本社と東京支社で、そこまで何度もご一緒したわけではなかった。秘書らの間では、細かくお茶出しの作法まで指示される事で有名だった。
そんな細やかな面からこのような素晴らしい記憶力までお持ちとは。流石、一流企業の社長は違うと、改めて感心したものだった。
更にこうも続けて
「活躍していてくれて、本当に嬉しいよ。是非遊びにいらっしゃい」と。
何とT社長の息子も、柳川高校で田島監督の指導を受けていたことがあったのだ。驚くべき共通点。しかも、時折部の合宿所を抜け出すと、父親であるT社長が、柳川に連れ戻すという事も繰り返していたと。だから、監督とT社長の関係も深い。
この松岡家にも劣らない、もう1つの父と子のドラマに関しても、連載が終わってから『社会部発』というコラムにまとめさせてもらった。
T社長の言葉は、ありがたかった。
どんな事情があるにせよ、自分の会社を辞めた人間になかなかこうは言えないものではないかと思う。シャープを辞めてから、新天地でずっとは頑張って来たものの、やはり申し訳ないという気持ちは、頭の片隅にあったような気がする。
でも、この瞬間、その思いから初めて解放されて行く自分がいた。
遠い柳川の地で、このような機会に巡り合えるなんて。自分は本当に恵まれていると心から感謝をした。
「社長、ありがとうございます。これからも頑張ります!!」
田島監督の携帯を、何度も強く強く握りしめた。
<写真キャプション>
産経新聞夕刊『追跡 ’88 ソウルへ―修造の青春』の連載は、10回続きました。この後の連載分は、週末に掲載します。