見出し画像

5、昭和最後の暑い夏 ①熱い男の取材が始まる

5、昭和最後の暑い夏 ①熱い男の取材が始まる

さて、昭和63(1988)年5月、私は産経新聞社社会部に異動になった。配属は警視庁第4方面新宿警察署。署は、新宿駅西口から徒歩10分ほど。青梅街道沿いに白い4階建ての建物だった。記者クラブはその4階。エレベーターで上がると、時々逮捕された犯人とエレベータ内で(もちろん警察官に取り囲まれてはいるが)一緒になり、ぎょっとしたものだった。突然飛び降りても、逆にコワいので、平静を装った。

記者クラブは、遺体安置所と言われていた渋谷警察署と違って、署の4階。広さにしても5倍くらいはあっただろうか。原稿を書くためのデスクも倍の4セット。今回は、身体を休めるために用意されていたのは、二段ベッドではなく畳に敷かれた布団セットだった。こちらも4セットだったが、万年床だった。いつ干してるのかなあ、と思いながら、馴染むのには時間がかからなかった。
ここでとても世話になったのが、国営放送のT記者。とってもジェントルマンで真摯に取り組んでいた。「コーズ、コーズ」と、可愛がってくれて、仕事も教わった。そして、同社には収まりきらなかったのか、私と同じころに離職され、フリーランスとして活躍。八重洲ブックセンターで著書を見つけた時には、鳥肌モノだった。

ところで、新宿署に詰めて事件事故を追いながらも、この年開催されたソウル五輪国内取材班にも組み込まれ、取材に飛び回った。運動部志望であることを、当時の社会部W部長がしっかり頭にいれてくれていたのが嬉しかった。
そんな一つが、当時のテニスの貴公子、今ではむっちゃ熱い男の代名詞、松岡修造の取材だった。しかも単発ではなく、10回連載。当時、都庁記者クラブを担当していたA先輩が、チームのパートナーに指名してくれた。松岡はご存じの通り東宝松岡功会長の二男。五輪出場を決めたサラブレッドとして、脚光を浴び始めていた時だったが、まだ海のものとも山のものともわからず、そこをじっくり掘り下げようという企画で、夕刊で10回に渡って展開された。
ベテランA先輩が当然の事ながらキャップとして仕切り、私は新人として指示の下、東奔西走した。西は、福岡県柳川まで飛んで行ったが、そのなかなかなエピソードは、また後にして。

自分が担当したのは、それ以外に松岡の母親、ジュニア時代のコーチ、東京都調布市にある桜田倶楽部の飯田藍だった。
Aが担当した功会長の許可をいただき、翌日に都内一等地にある高級マンションのペントハウスを取材に訪れた。元タカラジェンヌである母・静子の物腰は実に優雅で美しい。受け答えもしっかり的を得ていて、ありがたかった。しかも、場所は超高級マンションの最上階独占の広さと、ゴージャスさ。キョトキョト眺め回したい気持ちを抑えつつ、取材を進めた。調度品一つだって、手にして1つ1つ見つめていたいレベルで困ったものだった。
この環境、ファミリーにして当時の貴公子ありなのだなと、改めて確認した時間。話も弾み、予定をオーバーしての取材になってしまった。が、いやな顔一つせずに対応いただいた。

終わって、席を立とうとした瞬間。いきなり、めちゃくちゃ長身で品のいい若者が目の前に現れた。修造そのものだった。
「おお!」
なかなかリアル修造は、感動的な姿だった。身長180㎝以上の長身の身体の上に、ちょこんと乗った小さな精鍛な顔。
「こんにちは。はじめまして。松岡修造です」
うん、知ってる!!
きちんとした挨拶に、好感度急上昇。益々しっかり取材せねば。一番印象的だったのは、きちんとしたマナーもだが、えもんかけのような(何故だか、ハンガーというよりえもんかけという印象)物凄く広くて、がっしりした肩幅だった。何だか、カッコ良かった。しっかりと育てられた様子が良くわかったので、今でもあの熱い修造のノリはどこか作られたもののように感じられて仕方ない。
もちろん、修造が自分のアイデンティティとして確立したものに間違いないのだが。

修造企画のエピソードは尽きない。この後、まだまだ続く。
(文中敬称略)

<写真キャプション>
連載は産経新聞夕刊に10回に渡って続き、大変好評を博した思い出の記事の1つとなった。写真を集めるのがかなり大変で、松岡家から何枚もお借りした。

いいなと思ったら応援しよう!