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登山におけるウルトラライト(UL)の精神性について

ここ数年だが登山シーンにウルトラライト(軽ければ軽いほどいいという考え方、以下ULと略)という考え方が広がっている。

荷物が軽ければ疲労が少なくなり怪我が少なくなる。
さらに、速く動ける分、山行時間の短縮ができ、天候リスクを回避することにも繋がる。

理屈は正しいと思う。

ただ、人生も登山も経験が浅い者が、ULに傾倒することには賛同できない。

なぜか?

ULの装備は、ペラいからだ。
ザックひとつとってもデニール(引き裂き強度)が極端に弱い。
ちょっと転けて、何かに引っ掛ければ一瞬で破ける脆さ。
食糧や水も抑え気味になる。

そして、なによりも、
山で困っている人を見つけても何もしてあげられない、のだ。

この記事では、登山での合理性の話はしていない。
登山における人間の精神性の話をしている。

例えば、山行の荷物を1つの基準としてある7kgに抑えられたとする。
テントも何もかも含めて7kgだ。

そんな山行を続けていると、体力もそれなりにしかならないし、
山ではアクシデントがつきもの。
自分に起こることもあるし、
他人に起こるかもしれない。

そのようなアクシデントの際、特に他人に対して何もすることができないのだ。

分けてあげる食糧も水もない、肩を貸して移動させる体力もない、電波が繋がれば救助を呼べるが、長い待ち時間も何もできない。

山での責任は、常に自己にある。
これは間違いではない。

だが、「アクシデントにあった人に対して、何もできなかった自分」というのは、一生残ってしまう。

「それで構わない」というのであれば、「だからなに?」であるが、
「それで構わない」というポジションをとりたくなるのは、この私の意見に対して上の立場を取りたいからであって、なんのバックボーンもないことは認識しておいた方がいいように思う。
ULに禅の思想(心身ともに執着を捨てる)を持ち込むこともたまに見受けられるが、「登山という娯楽しながら何言ってんの?」である。
小言

軽いことは正義だ。安全につながることは間違いない。

だが、「最も軽い」を追求するにあたって数字だけに捉われると、
思いの外、重たい思い出を持つことになるかもしれない。

そうならないためには、
山で得たい体験、得たくない体験を想定し、
それを踏まえたULを目指すことが重要だ。

※この記事上の登山は、ハイキング、トレッキングを指し、危険を伴うクライミングは含まない。
※自分の身を守ることだけが重要な登山もある(5000mを超えるような場合)。

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