遺言 私の生きた時代 1961 - 2024
1995年は Windows95 PC元年 とも言うべき時代だった。京都大学の研究室に私が選定した富士通のFMV-SEが採用され、学科の全講座全研究室に同機種のPCが導入されることになった。何が凄かったか?1GBというとんでもない大容量のハードディスクが搭載され、テキスト入力で文字数に制限なく論文が執筆できるようになり、シャープやNECのワープロ時代とは一線を画した新時代になった。現在この記事の執筆に使用中の富士通ノートパソコンは1TBだから記憶容量は千倍になったわけだ。当時はフロッピーディスクにHDDで旧式TVのようなブラウン管の大型のディスプレイだったが、現在のストレージ:記憶媒体はフラッシュメモリとSSDだ。
そして2024年は、PCで生成AIと簡単にいつでも対話できる時代に突入した。大学教授の専門分野は狭いのが普通だが生成AIはすべての分野と事象に対して開かれている。どんな分野のどんな話題にも瞬時に応えてくれる。凄い時代だ。学生は大学院の授業の前に生成AIとリハーサルを済ませてゼミに臨むことも可能で、教授陣も同様に授業前には生成AIと対話しておくのが賢明な時代だ。恥をかかないためにもね。私が現役の教授だったらそうするよ。大学や大学院に行かなくても生成AIと大学・大学院レベルの学問的対話・対質が可能な時代になったんだ。「2001年宇宙の旅」で宇宙飛行士がHALと対話するシーンが何度もあったが、PCと向き合えば、家庭でもそれが可能な時代になったわけだ。
Windows95の1995年と汎用人工知能元年の2024年。現在、私は終活中で自分の六十数年の人生を振り返っているんだが、まず最初に現在のネット時代を切り拓いたコンピューターにおける20世紀末からの2大革命を取り上げることに何の躊躇もなかった。
アポロ11号の月面着陸が小2、月の石が展示された大阪万博が小3。図工の時間に画いたアポロ11号は今日もなお鮮やかに脳裡に甦る。「太陽の塔」の岡本太郎は東京青山に「こどもの樹」も建立。こども時代、岡本太郎と並んで特に印象に残った芸術家が作曲家で指揮者の山本直純。「大きいことはいいことだ」他のCMで大活躍だった。渥美清の唄う 「男はつらいよ」を作曲したのも山本直純。1998年のオーチャードホール、東京フィルだったか中高生向けの名曲コンサートで山本直純自身の指揮で「男はつらいよ」を聴いたことがある。マーラー5番、第4楽章「アダージェット」を山本直純の指揮で聴いたことのある人はそうそういないのではないか。岡本太郎の巨大壁画「明日の神話」は、メキシコシティ近郊で埃を被っているのが奇跡的に発見され、愛媛県東温市での修復作業を経て現在は渋谷駅で展示され、世界各地から訪れる多くのインバウンドを含め、行き交う人々の度肝を抜いている。森永エールチョコレートのCMには、背景に「霞が関ビル」が映っていた。1998年4月、50年ぶり大改正の児童福祉法が 施行され、中央児童福祉審議会の総会で34階の霞会館を訪れた際、眼下には山手線がぐるっと一望できる絶景が拡がっていた。日本では、常にM9.0の巨大地震の可能性が付き纏い、超高層ビル建設の技術を持ちながら、サンシャイン60、横浜ランドマークタワー、あべのハルカス、麻布台ヒルズ森JPタワー程度の高さに制限された。それらは世界の超高層ビルの半分程度の高さであるが、日本で大地震に遭遇し長周期地震動に見舞われた高層階では悲惨なことになる。日本の超高層建築の代表は、1958年竣工の東京タワーと、2012年竣工の東京スカイツリー、新旧2つの電波塔だ。
令和の天皇、平成の皇太子が特に印象に残る大会は「1969年夏の決勝:延長18回再試合の 松山商業×青森三沢高校」と甲子園で式辞を読んだことがあるが、小2の夏私もNHKでその試合を観戦していた。
高度成長の結果GNPが西ドイツを追い越しアメリカに次いで世界2位となったのが小学校に入学した1968年。東京の名門小学校と同じ名前の番町小学校。東京の番町小学校は作曲家の中田喜直と作家の吉行淳之介が有名だが、私の母校は小川正孝と正岡子規、伊丹万作等が特に有名だ。小川正孝は松山藩士を父に江戸で生まれる。明治に逸早くロンドンに留学した化学者で東北帝大総長を長く務めた。日本人として初めて元素のニッポニウムを発見したことで知られ、2006年理研チームが発見したニホニウムで再評価されることになった。近代日本の最初期に世界に通用するノーベル賞級の研究を成し遂げた「日本自然科学の父」である。正岡子規は俳句・短歌の短詩系文学、中興の祖で「現代日本語創始者」の一人。自らユニフォーム姿で野球に興じる傍ら、野球用語の翻訳にも努め「日本野球の父」として殿堂入り。伊丹万作は伊丹十三の父で、下積み時代:若き日の黒澤明の脚本を評価した脚本家、映画監督。黒澤組の脚本家:橋本忍は日本一の脚本家:伊丹万作の門を叩いた。映画「国士無双」「赤西蠣太」、脚本「無法松の一生」等の伊丹万作は「日本映画の父」である。伊丹は「無法松の一生」で、橋本は「羅生門」でヴェネツィア映画祭「グランプリ・金獅子」を受賞した。伊丹万作は文筆家としても卓越した才能の持ち主で、戦後間もなく書き遺した「戦争責任者の問題」における「『だまされていた』といつて平気でいられる国民なら、おそらく今後も何度でもだまされるだろう。いや、現在でもすでに別のうそによつてだまされ始めているにちがいないのである」は、いま現在も、我々に突き付けられた「アクチュアルな問いかけ」となっている。新型コロナウイルスは 99.9 % の 確率で人工ウイルスであると断言した分子生物学・免疫学者の荒川央博士も伊丹万作の問いかけを出発点に、新型コロナワクチン接種を巡っての騙し・騙される関係についての考察を行い、厚生労働省の責任を追及していた。
松山市から届いた新型コロナワクチン接種の案内書には、一か所のみ小さく「mRNA」と記されていたのだが、この単語を「キーワード」として mRNA の危険性について多角的に検討した結果、新型コロナワクチンは接種すべきではないという結論に至り、集団心理を利用した圧力にも負けずに接種を見送り、父と私は「きれいな身体」を守ることができた。接種を見送った多くの人々が荒川央博士の名前を挙げているが、私もまた荒川央博士の note を拠り所としたのだった。
司馬遼太郎が「坂の上の雲」を執筆する動機ともなった正岡子規と秋山真之が共に学んだ同窓の学舎 旧 勝山学校 (番町小学校)は、東京の番町小学校に優るとも劣らない歴史と伝統を誇る名門小学校として私の在校時も全国からの視察が後を絶たなかった。
1973年の第1次オイルショックで一時的に日本経済は停滞したが、トヨタ・日産に代表される日本車はアメリカ向け輸出を順調に増やし、粗鋼生産量や造船高も過去最高を更新し続けた「右肩上がりの時代」だった。電卓はある程度の大きさの方が使いやすいのだが、持ち前のトランジスタ技術とICチップで小型化と廉価を競った時代でもあった。当時、学研が「科学」と「学習」を毎月1回学校内で販売し購読させていたが、「捕鯨」特集号では附録に捕鯨船の模型を厚紙で作成するキットが付いたことがあった。学校給食にも鯨の竜田揚げがあった。なぜ学研という一企業が公立の小学校でこのような販売方式を許されたのかは全くの謎だが、多くの家庭が学研の百科事典も学校で配布されたパンフと申込書から購入することになったのではなかったか?
3年の終わり高学年担当の音楽教諭に呼び出されて歌唱のオーディションを受けた。高学年の音楽室には前方の黒板前にグランドピアノが載せられる大きさの1段高いステージがあり、そこで彼女の伴奏で気持ちよく小学唱歌のメドレーを歌ったのだった。「今すぐにでもコンクールに出られる。4月からコーラス部に入りなさい」と勧められ、4年の夏独唱パートのソリストとして湯山昭の「四国ばやし」を歌いNコン(※当時は全国学校音楽コンクール)の全国大会で2位に相当する「優秀校」に選ばれることになった。その年は年明けの1972年に札幌冬季五輪が控えており、札幌市立創成小と北海道教育大学附属札幌中が最優秀校に輝いた。当時は録音による放送審査で全国大会が実施され、今日のようにNHKホールで実際に演奏を披露することは叶わなかった。文化の日に教育テレビでNHKホールで事前に開催収録された小中高の「最優秀校演奏会」の模様が放送された。
彼女とは清水令子先生。愛媛大学教育学部特設音楽課程の出身で、ライバル校の附属小学校教官の小川俊彦先生と同期生だった。学生時代からの好敵手の小川先生を打ち負かしての全国二位、その後突然の悲劇に見舞われ、一人娘を交通事故で失うことになった。ライオンズ・クラブの松山少年合唱団では、指揮者の小川俊彦先生と伴奏者の阪本佳子先生、久米孝義先生にお世話になった。久米先生は高3、横浜での全国大会にも同行した。愛媛大学教育学部附属小中学校は明治期の師範学校に遡るが、司馬遼太郎によれば、それ以前に松山に師範学校の前身の「教員伝習所」が置かれ、教員伝習所の附属小学校として勝山学校が誕生している。「勝山では新しい教育をする」と評判になり、子規は末広から勝山へ転校、真之も後を追い、明治12年卒業、旧制松山中学へ進学する。勝山学校は現在の松山市立番町小学校。松山の番町小は師範学校創立以前、実質的に愛媛初の師範学校附属小学校としての役割を担っていたのだった。(NHK出版「坂の上の雲」歴史ハンドブック 96頁)
年度末に催される学年単位の器楽演奏会では毎年指揮者を務めたので一度も楽器を演奏したことがない。コーラス部はNコンで全国優勝を目指すクラブ活動だったのでコンクール前のプールはご法度、授業も見学となった。この記事を執筆中、松山市が大雨のため倒壊した愚陀仏庵を番町小のプール跡地に再建するというニュースがあった。NHKの「みんなのうた」は私の生まれた1961年から。全校生徒が斉唱する「トレロカモミロ」の模範演奏を体育館のステージ上で行ったので下級生からはヒーロー扱いされた。6年1学期級長バッジを付けて別府へ修学旅行に。Nコンの終わった夏休み後、2学期になって受験の準備を始め、塾や家庭教師の世話にならず独力で国立の中学に合格、進学した。「コーラスを続けたい」の一言で、親も担任も級友も受験先の面接官までもが納得した。どのように準備したか?過去問は担任から入手できたので、傾向を分析し電話帳のように分厚い国私全国各校の入試問題集を解きながら小学校の全課程の総括を行ったのだった。父の母校の渋谷小学校は神南小学校に統合されて早々になくなってしまったが、番町小学校も松山都心部のドーナツ化で私の学年から40人学級2クラス編成となってしまった。私のクラスからは3人が愛光中学に進学し、3人とも国立の医学部を経て医師となった。クラスの総代は私が務め卒業式では記念品目録を読み上げる役目を果たした。振り返るに、このクラスの小学6年生は今と較べて遥かに大人であり、しかも決して大人から干渉されない驚くべき民主主義に支配されていたのだった。私の人生で民主主義が最も機能していたのはこのクラスだった。4年から持ち上がりで3年間を共に過ごした級友からクラスのリーダーとして推されたことが私の一生で最も誇らしい。
東京から県庁や県警、NTT(当時は電電公社)等へ出向して来るキャリア組の子弟も多く、2年で同級の矢野彰君、4年で同級の増戸弘君と二宮不二さん、東京に帰ってどんな人生を歩んだのだろうか。不二さんは俳句がとても上手で「雨上がり紫陽花の花輝きて」「十姉妹目白押しして日向ぼこ」は今も忘れずに覚えている。増戸君は杉並の出身。松山から奈良、熊本(熊本高校)を経て東京(一橋大社会学部)に戻った。朝日新聞の「声」に「小泉元首相、なぜ今脱原発」(2013/11/14)と投稿しているのを見つけて嬉しかった。電電公社の社宅が同じ町内にあったこともあり、野球をしたりボードゲームをしたり彼とはよく遊んだ。「おじさんは渋谷だよ」と東京のアクセントで話しかけたのを端緒に父の話には真剣に耳を傾けていたようだ。ちょうどその頃、四国電力が愛媛県伊方町に原発を設置する計画が持ち上がり、父は四電松山営業所の社内モニター会議で反対意見を述べたところだった。「事故が起こったら一体どうするのか?」と訴えたのだという。安倍晋三の国会答弁にも明らかなように事故は起こらないというのが国と電力会社の公式見解だった。増戸君は「私は原発に反対する立場を40年ほど前から鮮明にして原始時代に戻れ、電気を使うなといった罵声を浴び続けてきました」と綴っていた。
女性歌手では:小柳ルミ子・天地真理・南沙織等が、男性歌手では:郷ひろみ・西城秀樹・野口五郎等が、新三人娘、新御三家としてTVに登場し、クラスの女子の興味と関心は彼等・彼女等に向かうことが多かった。小柳ルミ子の「私の城下町」や「瀬戸の花嫁」を学校で口ずさんだら下校前の終わりの会で「伊藤君が大人の歌を歌っています」と報告されたことがあった。少し後、ソ連のベレンコ中尉が米国亡命を求めミグ25で函館空港に強制着陸するというショッキングな事件があった。愛媛県久万高原町出身の若き俳優:藤岡弘が「仮面ライダー」で子どもたちの英雄となり、かっぱえびせんで名を揚げたカルビー製菓が仮面ライダーのカード付きスナック菓子を発売し、カード欲しさに何袋も買っては所かまわず食べ散らかして社会問題となったのもこの時代である。
私の父は、1958年NHK松山放送局に放送劇団ができるという話を人づてに聞き、相当額の支度金を仲介者に支払って来松。しかしながら具体的な計画はなく、放送劇団員への道は叶わなかったのだが、後にラジオ劇団が結成され、その中から露口茂が頭角を現すことになる。露口は、俳優としてはもちろん、放送劇団員の経験を活かして 「シャーロック・ホームズの冒険」 や「耳をすませば」のバロン役として、声優としても活躍した。1922年生まれの父とは誕生日が同じという不思議な縁。孫ほどの年の差にもかかわらず、血液型も同じでしょっちゅう意地の張り合いとなり結構大変だった。ひとみさんは両親の誕生日が一緒だった。 * 実家育ち(2017.08.25)
東日本大震災では大津波が北上川を父の故郷である宮城県桃生郡飯野川町相野谷を遥かに超えて遡上した。父の母方は仙台藩家老家の白石藩士佐藤氏の家系、祖父は酒田と盛岡に別宅を設け、山単位で立木の売買を行い関東大震災で財を成した。両家とも、奥州平泉に遡り、北上川を下って難を逃れた。宮城の伊藤萬といえば東京の木場でも一目置かれた存在で、日本陸軍に太いパイプがあり、息子は3人とも徴兵を免れた。町長を裏で操る院政を敷き、小学校には飛行機を展示した。父は祖父を憎しみを込めて「山師」と呼んだが、父の姉にとっては「立派な人」「偉い人」だった。渋谷小学校では、一年年下のハチにパンを与え、学生時代は省線電車(山手線、中央線)で御茶ノ水へと通った。就職後は、東京青山、梨本宮邸傍の住まいから東横線で川崎市木月の東京航空計器に通い、ジャイロコンパスの製造に当たった。入社後は飛行機に同乗して、コンパスの動作をモニターした。戦時中、2度召集令状が届いたが、何れも軍と会社が握り潰して従軍することはなかった。銃後とはいえ、東京山の手大空襲に遭遇し、梨本宮邸から青山学院へと退避して九死に一生を得た。この空襲で家財を含む一切を失い、一時千葉県九十九里方面へと疎開した。「三丁目の夕日」では、東京の市電が詳しく描かれていたが、父が訪れた昭和34年頃の松山も東京と同様、路面電車で暮らせる街で、国鉄松山駅に初めて降り立ち、真正面に城山と松山城の姿が目に入った瞬間、ここで暮らしていくことを確信したそうだ。それから実に63年、数えで百歳まで、松山の方言を完璧に操れるまでこの街の人となり一生を終えることになった。晩年は、コロナ禍に当たり外出もままならなかったが、毎週2回、自分の足で買い物に出かけ「好きなものを好きな時に好きなだけ食べる生活」を完遂できた。突然意識を失くして日赤へ救急搬送したところ「壊疽性胆嚢炎」との診断で、内視鏡による緊急手術、軽度の脳梗塞を併発しており、結局そちらが致命傷となり、リハビリ中に誤嚥性肺炎で99年の人生を全うした。延命はしないとの本人の意思通りに対処。脳梗塞後、2年間の闘病後に80歳で永眠した母が眠る松山市夏目の霊園に納骨した。父は、92歳でリウマチ性多発筋痛症を股間部に突然発症し、深夜日赤へ緊急搬送後、確定診断を経て2年間ステロイド薬のブレドニゾロン(プレドニン)を投与されたことがあったのだが、それによって痛みを感じない身体に変わっていた。代わりに背中の痒みとなったようだ。日赤での緊急手術後は、出血もなくすぐにICUを出られ、翌日には(痛いという感覚を失くしたため)車椅子に座って平然としていた。コロナで病室には入れず何もしてあげられなかった。
母方は高須賀と渡部。高須賀は愛媛県東温市周辺に多い姓、渡部姓は愛媛県では松山市津吉町と東方町周辺に集中する姓で、農業や林業に従事した人々に多い。母方の祖父は旧東洋レーヨン松前工場勤務。母も独身時代この会社で勤務した。現在この会社は東レ愛媛工場となり、ボーイングのB777とB787用の炭素繊維を製造する日本有数のハイテク工場に成長を遂げている。B787-9 が世界で最初の定期便に就航した際には、羽田-福岡・羽田 - 伊丹と並び、羽田-松山の往復便にも投入された。両親ともに多少なりとも飛行機と縁があった。
父は最初、愛媛大学文理学部の高等数学のテキストを、次に四国電力松山営業所と電力所の議事録作りを一手に引き受け、最後は松山市の嘱託として、道後温泉事務局で、皇族専用浴場:又新殿の案内掛を13年間務め、全国からの観光客との交流を愉しみ、たくさんのファンを作った。民主党政権時代のエピソードを一つ。終戦と同時に東京航空計器は解散。戦後、すぐ上の兄の経営する兵庫県の芦屋産業を手伝った後、会社を再開した東京航空計器へは戻らず、NHKの放送劇団員を目指して松山へ。自民党政権で「失われた」東京航空計器時代の年金記録が甦って加算されることになった。因みに兄嫁は、毎日新聞のニッポン号で世界一周を成し遂げた乗組員の一人で、機関士の下川一の妹 昇(子)。
中学ではコーラス部には入らなかった。毎年Nコンの全国大会へ進み二度の全国優勝、三度の準優勝に導いた指揮者が退官し( 最優秀:32回 33回 優秀:37回 38回 40回 )オーケストラ(愛媛交響楽団)の ファゴット奏者が後任の指揮者に就任したからである。代わりに素晴らしい音響装置の備わる音楽棟でクラシック音楽愛好会を始めることになった。教科書で採り上げられる鑑賞曲:チャイコフスキーの「イタリア奇想曲」を序奏から口ずさみながらエアで指揮して見せたり、新しい合唱曲のプリントが配られるなり直ちに初見で指揮して見せて愛媛大学から来ていた教育実習生を泣かせてしまったこともあった。このような形で中学でもクラスと学年の合唱指揮者に推され、北九州への修学旅行では、長崎の大浦天主堂内でモーツァルトの「アヴェ・ヴェルム・コルプス」を披露したが、指揮者は私が務めた。卒業式のヘンデル「ハレルヤ・コーラス」も指揮したかったのだが、さすがに卒業生なのだから同窓生と同じ側で共に歌うべきだろうと…。演奏会場は旧制 松山高校の講堂:章光堂。旧制松山高校の跡地は後身の愛媛大学ではなく、愛媛大学教育学部附属中学校が継承した。旧制松山高校出身では、脚本家の早坂暁と元日本共産党議長の宮本顕治が有名だ。44人学級が4クラスで1学年の半数が2ブロック西隣の松山東高へ進学した。2年・3年と持ち上がりで、殆ど全てが評点:5といくつかが4+の成績で、銅メダルを授与されて卒業した。愛光進学者が同級に3人もいた番町小では、全教科で5という訳にはいかなかった。松山東高に不合格の 同級生 3人(男1 女2 )が滑り止めの私学には進学せず、翌年再受験した。愛媛大学の医学部生を家庭教師に雇ったため妊娠・堕胎の憂き目に遭った同級生がいたようだ。松山では愛光よりも長い歴史を有する聖カタリナ学園は、ローマの聖ドミニコ宣教修道女会に所属する由緒正しき学園だが、宗教とは無関係に自宅から最も近いという理由でロザリオ幼稚園に2年間通った。クレヨンしんちゃんではないが、優しいシスターさんとお姉さんに囲まれて大切に育てられた2年間だった。
松山東高ではコーラス部に入部した。課題曲の「旅に出よう」と、自由曲:池辺晋一郎の無伴奏混成8部合唱「恩愛の輪」を披露し、前年度のNコンで最優秀:日本一に輝いたコーラス部である。
1977年はさらに自由曲の難度を上げ、宗左近の「炎える母」に林光が曲を付けた「火の夜」から「ゆれる炎」を選曲。無伴奏混声12部合唱。NHK委嘱作品、 1972年の 芸術祭 合唱部門 大賞 受賞作品 で、 初演は 山田 一雄 指揮 大阪放送合唱団(放送初演:1972年10月8日 NHK FM)。東京混声合唱団にライブ録音のCD(2003.7.21)がある。松山東高校コーラス部はこの演奏でNコン2連覇に挑んだが、 四国ブロック大会で香川県代表、音楽科を有する高松第一高校 に ごく僅差で涙を呑む。この年の高松第一 は 東混 の演奏かと 思われるほどの高校生離れした圧倒的な演奏で日本一 に。1976 1977 1978年は松山東・高松第一・西條の四国勢が3連覇。 長いNコンの歴史で高等学校の部で四国勢の優勝は現在までこの3校の3回だけである。
音楽教諭で コーラス部 顧問の 杉婆: 杉森幹子(故人)とは 確執があった。「封建主義」を標榜する彼女とは水と油だった。それでも昼食は音楽室に附設の練習室:通称「独房」で摂るのが常で、食後の昼休みに彼女と短い会話を交わすこともあった。1978年2年生、「百周年記念式典」で彼女は頭を抱えていた。「緑芽を吹く青柳の」 というグループ長の詞に曲を付ける大役を任された彼女は詰めのところで行き詰まっていた。譜面を見せながら自ら歌い「静動ここに百年の」の「百年の」 が上手く行かないと訴えるので気の毒に思って援けてあげることにした。「ん」に 変音記号を付けたら上手く行った。最終節の「友よ輪となれ垣となれ」は 天から降りて来るように自然と出来上り、二人とも全く同じメロディーを口ずさんだのだった。イェーイとハイタッチはしなかった。かくして「創立百周年記念讃歌」は完成した。二人だけの秘密だったのだが。同じ年、杉森幹子教諭のピアノとコーラス部有志の歌唱で通信制用に松山東高校の校歌「眉きよらかに」を録音した。コーラス部同窓会の「樫の木会」には入会しなかった。当時は彼女の倶楽部だったからだ。十年ほど前に、偶然彼女が亡くなったのを知り、追悼の意味も兼ねて You Tube に「ゆれる炎」をアップした。(2015/03/22)
シューベルトの「冬の旅」は学生時代の愛唱歌だが、高校の音楽の教科書の「おやすみ」に始まる。ドイツ語ではなかったが、杉婆のピアノ伴奏で歌い初めをした。教科書の楽譜はバスの音域のため無理なく気持ちよく歌えた。シュライアー版はテノール、ホッターやタルヴェラ版はバス、フィッシャー=ディースカウ版はバリトンだ。高校時代、銀天街の旧マルイレコードでハンス・ホッタ―、千円の廉価版を見つけて愛聴盤:第1号となった。
学生時代、修士の1回生まで岩倉の専修寺離れに長く下宿したが、そこでは住職の娘さんのピアノ伴奏でドイツ語の Winterreise Gute Nacht を歌った。岸野末利加さん。日本では殆ど知られていないが、欧州では現在最も活躍する日本人作曲家だ。同志社大法学部から仏エコール・ノルマル、リヨン高等音楽院等を経て、日本音楽コンクール作曲部門:3位入賞後、ドイツ・ケルンを拠点に精力的に活動中。2022年には 尾高賞を受賞。今や、池辺晋一郎、西村朗 の域にまで達している。2001年 第70回 日本音楽コンクール:2位の信長貴富 さんも、日本の合唱界にはなくてはならない作曲家だ。
高校2年、英語教師が2週間程の短期外国研修で渡米、帰国後授業中に体験談を色々語ったのだが、日本車がセカンドカーとして大人気で一家に1台は日本車を保有するようなブームになっているという報告が印象深かった。ホンダのシビックが1番人気の時代で、その後間もなく大きなハンマーで輸入された日本車を叩き壊すパフォーマンスとなる。トヨタや日産がアメリカの現地工場で日本式の自動車生産を始める前夜のはなしだった。当時の修学旅行は関西汽船内で前泊、神戸からバスで北陸と信州を回る旅だったが、現在は選択制で、LA班はドジャースタジアムで大谷翔平の試合を観戦。運動会は現在も学年縦割りのグループ対抗のようだ。私の時代、3年男子は上半身裸で棒体操を、2年女子は創作ダンスを披露していた。
高2、課題曲の選曲ミスもあり愛媛県大会で敗退。課題曲「ひとつの朝」と三善晃の「どんぐりのコマ」を美声で室内楽風に仕上げた西條高校が四国大会も勝ち抜き日本一に。愛媛県尋常中学の東予分校として創立の西條高校は夏の甲子園も制した名門校だ。指揮者が「恩愛の輪」の「出発の唄」に拘泥し、最初からある種の気持ち悪さが付き纏っていた。組曲として演奏されるべき曲で単独での演奏、特にコンクール向きの曲ではなかった。結局彼女はこの年限りで松山東高を去り、吹奏楽に定評のある中田勝博教諭が新しいコーラス部顧問に就任した。市民オーケストラの愛媛交響楽団の創立メンバーで、アマチュアのクラリネット奏者だった。持ち前の明るさと前向きな思考で、着任早々前年からの澱んだ雰囲気を一掃、春の合唱祭でイケイケムードが醸成され、NHKと朝日新聞・日本合唱連盟の二大コンクールで四国一になり、11月末横浜での全国大会までクラブ活動が継続されることになった。全国大会前には、芸術院会員の名指揮者:渡邉暁雄氏が松山東高をお忍びで訪問、音楽室で1時間の指導を受けることができた。自由曲のみの指導だったが、中田喜直の「都会」が「星」と輝く魔法を体験した。中田勝博先生も2024年2月、82歳で鬼籍に。京都の千本釈迦堂で大根炊き、祇園辺で酒宴の後、朝粥を一緒に頂いてお別れした思い出がある。横浜行きを決めた高知県民文化ホールでの演奏が今も鮮やかに脳裡に甦る。審査員全員からの金賞:フル金での優勝だった。中田勝博先生は、愛媛県の吹奏楽とオーケストラ、高校教諭としての実績が認められ、特音:愛媛大学教育学部 特別教科音楽教員養成課程の出身でありながら大学教授に転身、長く 松山東雲女子大で教鞭を執られた。2019年悲劇に見舞われた京アニ制作の「響けユーフォニアム」はNHKでも放送されたが、私が在籍した時代の松山東高コーラス部は、北宇治高校ブラスバンド部のような輝かしい実績を残したクラブ活動だった。卒業時、NHKと朝日新聞の二大コンクール、四国一位で全国大会出場を果たしたメンバーには「文化賞」が贈られた。
松山東高コーラス部が、クラブ史上最高の1年を送っているもかかわらず、学校は冷たく、3年生が11月24日までクラブ活動を続けるのを良しとしなかった。現役で京大法学部に進学した仲間もいたが、私は河合塾広島校の東大京大選抜文系:V6というクラスを経て、京都で学生生活を送ることになった。京都に永住することは叶わなかったが、学生と大学教員で、都合15年暮らした。OD時代は女子大で、当時は短大だったが非常勤講師として倫理学と道徳教育の研究を担当したことがある。華頂山知恩教院大谷寺:知恩院の境内にある女子大で法然像を背に人間(じんかん):人と人の間の理についての学問の講義をした。大谷大学には博綜館の哲学研究室に嘱託の特別研究員として2年間在籍し、「教育原理としてのゲマインシャフト」を著し、この研究が評価されて母校の京都大学大学院に呼び戻され文部教官に就任した。その少し後、国立大学の独立行政法人化に拍車がかかり国立大学教員の文部教官という官職はなくなってしまった。私は2年間の在職後、1年間の宮崎出向を経て、平成10年度人事院勧告の適用で、東京都千代田区霞が関の本省勤務となった。既存のキャリア制度を超えた高いポストへの民間からの登用と省庁間の垣根を超えた登用が謳われ、この制度による4月1日付の人事はNHKの昼の全国ニュースで放送され、両親から「今日見たよ」の電話があった。本当に驚くべき人事制度で、文部教官から厚生技官へと官職が変わってしまったのだった。新しい職場では、課長を含めて先生と呼ばれ、局長にはエレベーターを譲られたりと困惑の連続で、入省1日目には赤坂で接待を受け課長のタクシーに同乗して深夜官舎へ帰った。7時起床、9時半登庁、23時退庁、2時就寝という2年間続くルーティンの初日である。癌には罹らなかったが、2年間で3度受けた大腸の内視鏡検査では「見た目では癌と区別できない」と外科医の説明を受けたこともあった。
京都大学学術情報リポジトリ イエナ・プランにおける教育学的リアリズム
私の人事が一体どのように決定されたか、人事を起こしたのは京都大学法学部出身の官房長。具体的には、大学教員から専門官クラスを採用という人事で、厚生省OBで旧中央児童福祉審議会の部会長で玉川大学学長特任補佐の大学教授が間に入って人選が行われた。因みに、その官房長は省庁再編後、初代の厚生労働事務次官となる。
松山東高のコーラス部、2学年下の後輩で、一緒に横浜へ行き、神奈川県民ホールで課題曲「銅山(太古)」と自由曲「都会(星・ふりむくな)」を歌った大西証史君。厚生労働事務次官へあと一歩の内閣総務官まで辿り着いたが、加藤勝信厚労相の意向で退官。秘書官を務めた尾辻秀久との自民党内での力関係も反映されたのだろうか。安倍政権下では、大臣官房総務課長として裁量労働制に纏わる一連の不祥事を収拾。内閣審議官として、「桜を見る会」に係る委員会では再三マイクの前に立った。尾辻秀久厚労相秘書官として、2005年、障害者自立支援法を制定。2004年のアテネパラリンピックで、17個の金メダルが北京では5に。2012年、ロンドンは金メダル5 。2016年のリオでは、ついに金メダル0に。天下の悪法たる所以である。
私が入省した1998年は日本を先進国から衰退国へと転換させる「構造改革元年」となった。非正規雇用労働を意図的に拡大すると同時に適正な賃上げを行わず、本来労働者の賃金となるべき企業の収益が外資への配当と内部留保に振り替えられる手続きこそが「構造改革」だった。中央省庁では東邦生命を外資のGEエジソン生命に譲り渡す準備が着々と進行していた。構造改革とは省庁再編に伴う改変や一連の手続きの謂いではなかったのだ。OECD加盟の先進国では、最低賃金は時給1500円以上が当たり前の2024年現在、日本では「過去最大50円の大幅引き上げで1054円」と報じられた。安倍晋三の私刑という形での銃殺後、初めてメディアはそれまでタブーだった自民党と旧統一教会との癒着を報じ、パーティー収入の裏金化や税金を原資とする政治資金の選挙活動での使用等、次々と不適切かつ不都合な真実が暴き出される過程で、自民党の「売国政党としての真実」も露呈、岸田政権は行き詰まり、後継の石破政権では衆議院選挙で自公の与党が過半数割れした。自民党は結党以来「国際金融資本の代官」だった。それは安倍晋三の祖父、岸信介に端を発する。
「自民党は、憲法に欠陥があるから改正したいのではない。憲法が気に食わないから破壊したいのである。国民主権を縮小し、基本的人権を制限し、平和主義を放棄する“憲法草案”に彼らの思いは明確に示されている。そんな自民党の“壊憲”に賛同することは、牛や豚が肉屋に尻尾を振るのと同じである。」(m TAKANO) 自民党と日本国民の関係が的確に捉えられている。
「日本の貧困者は薬物もやらず、犯罪者の家族でも移民でもない。教育水準が低いわけでも怠惰でもなく、勤勉で労働時間も長く、スキルが低いわけでもない。世界的にも例がなく、完全な『政策のミス』による貧困である」。日本人労働者が国際金融資本によって既に奴隷化されている実態を見事に捉えている。古くから日本にある会社だからといって経営権が日本にあるとは限らない。既に外資の傘下にある場合も多く、「国際標準語」の読み書きが十分でない多くの日本人労働者に相応の賃金は支払われないだろう。日本人労働者の「基礎的スキル」はかなり低いと言わざるを得ない。中国、台湾、韓国、日本の東アジア4か国の中でも最下位は疑いない。日本経済の凋落と日本人労働者の貧困は政策のミスではなく、構造改革によって意図的に創り出されえた構造的貧困である。小泉純一郎が首相の時代、息子のブッシュとプレスリー縁(ゆかり)のメンフィスを訪れてエアギターを披露したことがあった。小泉純一郎がお道化て踊っている間も、日本は着々と沈没し続けていたのである。
東芝は、 WH という ババ を引いたか 引かされたかで 破綻 、会社としての体を失ってしまった。三菱は、YS11に相当する国産の小型旅客機をジェット機として開発しようとしたが、アメリカでの型式取得フライトの段階で相次いで構造的欠陥が発覚、事業の継続を断念、計画は頓挫した。三菱は、造船技術でも陰りが見え、ダイヤモンド・プリンセスを以て大型クルーズ船の造船からも撤退した。東芝の倒産や零戦と戦艦大和を生み出した日本企業の象徴のような三菱の相次ぐ失態は「日本の衰退」そのものだった。
バブル期、日本企業による米国企業や不動産の大型買収や高額絵画の落札等の話題に事欠かなかった。1989年の秋、三菱地所によるNYマンハッタンの「ロックフェラー・センター」買収はその象徴である。1987年、安田火災海上保険が53億円で購入したゴッホの「ひまわり」は、現在も SOMPO 美術館で展示されているが、バブル期に購入した不動産や絵画等の美術品の多くはバブル崩壊後、格安で海外に転売されてしまった。最高値で日本にアメリカの不動産や美術品を買わせ、最安値で買い戻し大きくなり過ぎた日本を弱体化させる、結局バブルとバブル崩壊もアメリカに巣くう偽ユダヤの国際金融資本によって仕掛けられた出来事だったのだろう。事実、日本はバブル崩壊を契機として転がり落ちていった。
厚生省に入省した1998年、母校の松山東高校が舞台の映画が全国公開され、中央児童福祉審議会文化財部会推薦による厚生大臣賞の候補となったため、審議会担当者として職務で業務中に映画館に足を運んだ。奇遇にも原作者の敷村良子は高3の同級生だった。新人の田中麗奈と中嶋朋子のW主演、脇役に大杉漣や小日向文世、森山良子等が出演、キネ旬:3位、朝日ベストテン映画では、1位に輝き、中児審の特別推薦作品にも選ばれた。NHKのBSでもBShiの時代から2024年まで何度か放送された。初代の「がんばっていきまっしょい」は「青春映画の金字塔」とも言うべき作品で、初回の実写映画に続き、2005年はフジTV系列で連続ドラマ化、3回目の 2024年10月には、松竹系の劇場版アニメとして全国公開された。中国の国際映画祭では、北京師範大学でオープニング作品として上映。松山東高は、旧制松山中学時代は夏目漱石の「坊っちゃん」の舞台、司馬遼太郎の「坂の上の雲」では主人公の正岡子規と秋山真之の学び舎、そして平成・令和という異なる2つの時代に、映画・TVドラマ・劇場アニメとして「女子ボート部」を描いた3つの「がんばっていきまっしょい」の舞台として、広く全国に知れ渡ることになった。最初の映画に触発されて逸早く「気合い入れの言葉」を採用したのはモーニング娘だったが、最近ではSNSでも日常の挨拶として「がんばっていきまっしょい」が使われるようになっている。令和の「がんばっていきまっしょい」は、TVアニメでお馴染みの 雨宮天・伊藤美来・高橋李依・鬼頭明里・長谷川育美 の 人気声優陣が メインキャストを 務めて 話題になった。主題歌の「空色の水しぶき」は 僕青:僕が見たかった青空が歌った。松山市は 「物語が似合うまち」を 街興しの 新標語に掲げ、同作品を 広報 まつやま No.1521 2024.11.1 に 掲載 、 併せて、東京メトロ 東西線 には 旅は四国。松山。 の ポスターを 掲示した。
2023年旧厚生省:厚労省における児童に係る業務が新設の「こども家庭庁」に全面移管されたため、厚労省社会保障審議会の分科会が担っていた児童福祉関係の審議も新設の「こども家庭審議会」に移管された。文部省の「中央教育審議会」同様、長く日本の児童福祉政策の根幹を担った「中央児童福祉審議会」廃止は「言語道断の暴挙」であり、上述の「構造改革」の背後で中央省庁再編下、整理統合の名目で人知れず進められた。絶対に廃止されてはならない審議会の一つが「中央児童福祉審議会」だった。事実「こども家庭庁」の新設に伴い、新たに「こども家庭審議会」が設置された。日本の政治と行政が、多様で複雑なこどもや女性、家族をめぐる問題等と真摯に向き合っていたら、回復不可能なほどに深刻な少子化を招来することにはならなかったかもしれない。OECD諸国の中で日本は突出した少子化をもたらしている。
入省前年の1997年、酒鬼薔薇聖斗の神戸連続児童殺傷事件が起こり、厚生省児童家庭局が省内の担当部局となる。退官後の2008年には、厚生事務次官宅連続襲撃事件が、2009年には村木厚子課長の冤罪事件となった障害者郵便制度悪用事件が 相次いで起こった。村木厚子氏は児童家庭・雇用均等局長等を経て厚生労働事務次官にまで上り詰めた。
私の課にも ノンキャリの総括補佐として在籍した 北村定義 元 課長補佐は、NHKの 追跡!A to Z 「特捜部はなぜ "敗北" したのか ~検証・村木元局長裁判~」(2010.9.15)で、「記憶にないことが書かれた調書にサインするよう 言葉巧みに(大阪地検特捜部)検事さんに 言い包められて」と 証言。
厚生省では中央児童福祉審議会の文化財部会で厚生大臣賞の審議・選定や各種メディアにおける有害情報の調査、省庁横断の青少年対策、地方自治体や国立の児童厚生施設の視察や地方での行政説明等の業務に従事した。2年間で、長野、津、奈良・生駒、札幌、仙台、姫路、大分等を訪れた。京都大学から宮崎県都城市の私学へ1年間出向した経歴があり、宮崎県の東京事務所が日参して印刷物を置いて行った。昼休みに、新橋でワゴン販売の別冊宝島ムック「厚生省更生せず」を見つけて、退官まで執務室の机上に並べて置いた。
厚労省の不祥事で思い出したが、厚生省在籍当時、同じ課で企画法令係長をしていたキャリアの武田康祐。安倍政権下の2019年3月、国会開催中に幹部職員の労働基準局賃金課長でありながら、無断で韓国へ渡航、飲酒して空港で暴言を吐いた上、暴れて現地の警察に拘束されるという理解不能な事件があった。武田康祐は賃金課長の職は解かれたが、現在も職業安定局高齢者雇用対策課長として厚労省の職員を続けている。
21世紀になって、京都大学の自分がかつて所属した講座で青天の霹靂ともいうべき事態が生じた。米国公文書館所蔵の公文書が開示され、京都大学を代表する二人の学者の裏の顔が暴かれたのだ。 文学部の 吉川幸次郎 と言えば、岩波新書の「新唐詩選」を誰しも一度は手に取ったことがあるのではないだろうか。教育学部の高坂正顕は、西田幾多郎門下の哲学者で、教育学部長を経て東京学芸大学学長に転じ、文部省の審議会で「期待される人間像」というアナクロニズムの極致のような答申の取りまとめ役となった人物である。吉川や高坂等の保守派と目される若手学者を順次米国へ派遣、反共工作員に仕立てて、帰国後は学内で主導権を握り左派封じと世論誘導を行わせるという悪巧みが工作の中核だった。(出典:共同通信が 2007年 10月21日 に配信、翌 22日 愛媛新聞 他の 全国の 地方紙が 掲載)
米国の担当部局は、国務省の USIA(アメリカ広報文化交流庁)で、世界各地に 海外拠点 USIS(アメリカ広報文化交流局)を置き、京都大学への工作は USIS 神戸支部 が担当した。1957年 昭和32年 、京都大学教育学部長時代の 高坂正顕:集合写真 前列中央の眼鏡 出典:京都大学教育学部40年記念誌
右斜め後ろは同じく西田幾多郎門下の下程勇吉教授。前列右端は同じく西田幾多郎門下の篠原陽二教授。1950年代、京都帝大文学部卒の京都学派に連なる哲学者が教育学部の中枢を担った時代である。この青天の霹靂とも言うべき事態の後、京都大学大学院教育学研究科は、二度の抜本的改変により見事に脱京都学派(脱京都大学 出典:同上)を果たし、ハーバード大学を 範 とし、学閥の影響を排した真に世界に開かれた大学・大学院となっている。
京都学派の哲学は「哲学の顔をした保守のイデオロギー」に他ならず、相当に質の悪い代物だった。直観的に胡散臭さを見抜き、学生時代から一貫して反精神科学の立場を貫いたが、21世紀になってその「正(しさ)」は思わぬ形で自ずから「顕(かに)」なったのだった。ドイツでも、ディルタイの精神科学を学んで博士号を取得したような哲学者や教育学者の多くは、ドイツキリスト教民主同盟といった政権保守政党を支持し、大学でそのイデオロギーの再生産に努めるか、州政府や連邦政府の高官となるのが常だった。1989年と1990年、アデナウアー財団から京都大学へと派遣されてきた学者の一行は、そのような経歴の人の集まりだった。彼らは、口々にボルノウ先生に学んだと自己紹介したのだが、それは本当に気持ちの悪い光景だった。
京都大学が2004年に国立大学法人化される前、未だ国立大学であった時代に文部科学省の意向に異を唱えて、独自の決定を行ったことがあった。それは外国人学校の卒業生に受験資格を認める決定で、国立大学としては初めての決定だった。この試みを主導したのは、京都大学同和・人権問題委員会委員長の山﨑高哉教授。1998年、大学院教育学研究科の評議員に推されたのを機に大学への働きかけを始め、朝鮮学校など各種学校扱いの外国人学校の卒業生について、大検を受験して合格しなくても受験資格を認めるべきだとする報告をまとめ、大学としての意思決定に委ねた。森清範清水寺貫主はじめ約350人の「民族学校を考える会」の要請に応える形での報告となった。私も山﨑教授の勧めで同会の賛同人となったのだが、1997年だったか入会届の申込用紙を渡された際に、京大上層に働きかけてはどうかと進言したが即答で無理だと言われた覚えがある。当時、山崎先生は学内では無役だったが、翌年、評議員に就任したことにより構想は一気に動き出したのである。考える会の呼びかけ人・賛同人名簿の1頁目だけでも、故湯川秀樹夫人のスミ氏や梅原猛に森浩一、岡部伊都子氏等の錚錚たる名前が並んでいた。共同通信の配信で地方紙に掲載される前に、NHKラジオの「ラジオ深夜便」の短い定時ニュース内でこの知らせを聞くことになった。普段ラジオを聴かない私が、一体何故この報道に接することになったか?それは松山市から贈られてきた携帯ラジオの受信テストで、偶々、深夜にスイッチを入れた際の出来事だった。当時、松山市は1年間病院を受診しなかった人々を対象に「来年もお元気で!」の意味で簡素な景品を贈る事業を行っていたのだが、その年は災害対応型懐中電灯付きAM&FMコンパクトラジオだった。ラジオ深夜便リスナーの母からは、「お早う」の代わりに「聴いたよ」の挨拶があった。京都大学で補導教官の頃からお世話になった山﨑高哉先生は、2024年8月12日、鬼籍に入られた。1998年4月、新宿のスンガリーでお会いしたのが最後となった。姉妹店の京都キエフでは数えきれないほどご一緒した。山崎先生は、京都大学退官後、仏教大学教授を経て、大阪総合保育大学の初代学長に就任。2018年3月まで、10年以上もの長きに亘り職務を全うされた。
山﨑高哉 京大外国人学校出身者への受験資格制限撤廃の取り組み
1961年~2024年、私の一生で、日本経済の頂点は京都大学で文部教官に採用された「1995年」だった。前半生は1995年まで高度成長の下に生まれ育ち、後半生はバブル崩壊後の「転落に継ぐ転落」に歯軋りする毎日だった。1995年当時のGDPは、アメリカの7割に達し、1人当たりGDPもスイスやルクセンブルクと並び世界の頂上にあった。日本のGDPが世界の1割を超えていた時代、具体的には、日本一国の方が独仏英:欧州3大国の総和よりも大きく、さらにイタリアの7割程を加えた額に上っていた。日米併せて世界の4割、これが当時の年鑑に記載されている統計的事実だ。
1978年には鄧小平一行が訪日、東海道新幹線に試乗して関西へ移動、沿線のマンションを指さして「あれは農民の宿舎か」と質問したのが印象に残る。政府自民党は2百㌔走行の新幹線技術を中国に無償提供。中国はドイツ等の西欧諸国の高速鉄道技術をも我が物として、日本に先駆けて3百㌔走行の高速鉄道網を全土に張り巡らせ、世界一の高速鉄道大国となる。中国はリニア技術でも既に日本を凌駕し、シームレスパイプ内をジェット機並みの高速で移動する次世代リニアの開発に着手している。日本のリニアは、東京名古屋間も開業に漕ぎ着けられるか疑問符がついている。中国は宇宙でも独自の宇宙ステーションや無人探査機の月面着陸、サンプルリターンと次々と実績を重ねて、アメリカ・ロシアと肩を並べる宇宙大国となっている。
高速運転と大規模な高速鉄道網では日本は中国に後れを取ったが、巨大地震の際にも無事に停車させられる安全技術は新潟や東日本大震災でも実証された。システムとしての高速鉄道(新幹線)技術は健在である。台湾は日欧折衷の高速鉄道、インドネシアは中国の高速鉄道を採用し、英国は日立の2百㌔走行の高速鉄道を採用している。米国ではテキサス州のダラス・ヒューストン間約4百㌔を90分で結ぶ日本の新幹線技術による高速鉄道計画が立ち上がっている。
欧州は仏独伊が中心になって共同で宇宙開発を行っているので、単独で宇宙開発を行い宇宙技術を有する国は、米中露以外では日本とインドが中心だ。最近はアメリカを中心に民間でロケット開発を行い衛星打ち上げビジネスに参入するベンチャー企業も多い。クルードラゴン・スターシップのスペースXとスターライナーのボーイングは、米国の二大企業だが、NASAと 協力してISSとの往復や、新たな月面探査:アルテミス計画でも、人員と物資の運搬で役割を果たすことになっている。日本もアルテミス計画に参画し、二回に亘って宇宙飛行士を月面に送り込むことが決まっており、トヨタは月面ローバー:ルナ・クルーザーを開発・提供の予定だ。
JAXA は、M-Vロケット 5号機 と HⅡAロケット 26号機で、小惑星探査機はやぶさ・はやぶさ2 を打ち上げ、月以外の天体への着陸とサンプルリターンに世界で初めて成功。このミッションには「イオンエンジン」が採用され化学燃料を電離したイオンを電気的に加速して長時間に亘って連続噴射し、地球の重力を利用したスイングバイも併用してさらに加速、小惑星イトカワとリュウグウを目指した。はやぶさのミッションは、燃料漏れやエンジンの不調、通信の断絶等、様々なトラブルに見舞われながらも無事生還、再突入のカプセルが豪州の砂漠へと向かう様子は、NHKで生中継され、「おかえり、はやぶさ」の映画にもなった。はやぶさ2がイトカワから持ち帰ったサンプルは、オシリス・レックスがベンヌから持ち帰ったサンプルと、それぞれ一定量JAXAとNASAでシェアされ、生命の起源の探求に資された。はやぶさ2は、独仏2か国が共同開発したESA:欧州宇宙機関の小型着陸機:MASCOTを余剰スペースに搭載してイトカワに届けた。
日本の主力ロケット:HⅡAは 2024年、50号機をもって終了、HⅢに 引き継がれた。HⅡ8号機は メインエンジンの故障で墜落、太平洋に落下したが、小笠原沖 海底3千㍍に沈む残骸を回収、欠陥を突き止めて信頼のおけるエンジンに改良、以後 50号機まで極めて高い成功率を維持し続けた。1回の打ち上げに要するコストが 他国の商業ロケットの約2倍のため、衛星の打ち上げ受注につながらず、半額の1回50億円程度での打ち上げが可能な新型の H3ロケットが開発されて引き継がれた。H3初号機は 2023年3月7日に 行われ順調に飛行したものの、第2段エンジンが点火せず、止むを得ず 破壊、失敗に終わった。約1年間、電気系統を中心に 徹底的に不具合の原因究明が行われた後、2024年2月17日、ペイロードと数個の小型衛星を載せて打ち上げに成功、同年7月と11月、2025年2月と3回連続で打ち上げに成功、それぞれ大型の衛星を軌道に投入した。
日本は ISS:国際宇宙ステーションに参画し、独自のモジュール:きぼうを有し、宇宙飛行士を定期的に長期間滞在させて実験を行った。HⅡAロケットでHTV:宇宙ステーション補給機を「こうのとり9号」までISSに届けた。ランデブー状態からISSのアームで捕捉、ドッキングさせる技術は日本独自だ。ISSは、2030年をもって 運用終了が 予定されているが、日本はJAXAが、引き続きLOP-G:月軌道プラットフォームゲートウェイに参画し、H3ロケットで新たに開発される補給機:HTV-XをISSとLOP-Gへ送り届ける予定である。
JAXAと三菱は、HⅡA47号機で小型月着陸実証機SLIMを打ち上げ、誤差百㍍のピンポイント精度で、逆立ちにはなったものの日本初の探査機を月面に到達させることに成功した。SLIMは計画にはなかった3度の越夜を達成して運用を終了した。露米中印に続いて世界で5番目の月面到達。
山一證券は不正会計が発覚して自主廃業。マンションはじめ建築業界の耐震偽装。そして亀裂が発見された「のぞみ」他の鉄道車両の台車の強度不足。
自公政権が「百年安心」と太鼓判を押した積み立て方式の日本の年金制度だったが、少子高齢化と厚生省の浪費で破綻、賦課方式に改められて、安倍・菅政権後には、「2千万円の貯蓄」と「株式への投資」が推奨され、少額投資非課税制度の「新NISA」が設けられた。
オウム真理教について初めて知ったのは、TBS・日曜夕方の報道特集:当時はJNN報道特集だった。その後しばらくして松本サリン事件が起こり、被害者で第一通報者の河野義行さんが犯人扱いされた際には強い違和感を覚え、現在これをやれるのはオウム以外にはあり得ないと思ったものだった。視聴者が正しい判断を行う拠り所となったという意味でその番組は傑出していた。麻原彰晃こと松本智津夫は、1991年京都大学の11月祭でも講演会を行っていた。
昭和の皇太子・平成の天皇・令和の明仁上皇に教育係がいたことを 日本国民は知っているだろうか?その人は 松山出身の哲学者:安倍能成。戦後日本の民主主義にとって最も重要な役割を果たした人物であるにもかかわらず、現上皇の皇太子時代の教育係でもあり、教科書で教えられなかったので学習院関係者を除き殆ど知られていない。漱石門下で一高校長 、学習院院長で中興の祖、昭和の 皇太子 明仁 教育係、帝国憲法改正案 特別委員会委員長、教育刷新委員会委員長、文部大臣、戦後民主主義と民主主義教育の 父とも言うべき存在だった。同じ時期、旧制 松山中学で 安倍能成の 後輩に当たる 辻田力は、 文部省 調査局長として 教育基本法を制定。文部省退官後、母校の 旧制松山高校 後身の 愛媛大学長に。
松山出身の偉大な3人と言えば、鎌倉仏教 踊り念仏の 時宗 開祖 遊行上人: 一遍、道後温泉本館改築の 伊佐庭如矢、俳人 正岡子規 の3人を挙げるのが妥当だろうが、「ホトトギス」創刊の 柳原極堂 、その継承者で 愛媛県人初の文化勲章受章者の高浜虚子、虚子と共に子規を支えた 河東碧梧桐、脚本家で映画監督の伊丹万作、哲学者の安倍能成等が続いた。江戸の生まれながら松山藩士を父に東大予備門入学まで幼少期から小・中学校時代を松山で過ごした化学者で東北帝大総長(理科の東北大の嚆矢・創始者)の小川正孝もこの一群に加わる。「坂の上の雲」の主人公として名を挙げた秋山兄弟も軍人然としない教養人の軍人としてこの一群の中にある。兄:好古は明教館から大阪の師範学校へ進み、小学校教師から陸軍大学校(一期卒)を経て陸軍大将へ、さらに陸軍教育総監にまで上り詰め、予備役編入後は松山で私学の中学校長として人生を締め括っている。弟:真之も東大予備門から海軍士官学校へと転じた変わり種の軍人で、海軍参謀として日本海海戦を立案し大勝利へと導いた。明治を代表する名文の一つとされる「連合艦隊解散の辞」の起草者としても知られる。人口に膾炙する「本日天気晴朗なれども浪高し」も真之作だった。
少年時代、巨人のV9を目撃したが、地方での野球中継は巨人戦のみで大方の少年は讀賣ジャイアンツファンになった。帽子屋さんの黄色いキャップも巨人のYGのワッペン付きが殆どで、偶に阪神タイガースのHTのものがあっても、どのチームの帽子か分からずに被っていたものだった。王貞治選手のように一本足で構えるとホームランが打てるのではと、少年野球では皆が片足で打席に入った。2001年、イチロー選手が海を渡ってMLBに挑戦して大活躍した時、アメリカの少年もイチローのように構えてヒットを狙った。
王貞治は日本で868本の本塁打を放ったが、ホームグラウンドの後楽園球場のように両翼が90㍍程度の野球規約の水準を満たさない球場での記録だった。日本では王貞治が本塁打の世界記録を打ち立てたと人皆こぞって大騒ぎしたが、それはとても恥ずかしい振る舞いだったように思う。
日本人のメジャーリーガー第一号は、中継ぎ投手のマッシ―村上こと村上雅則。それから31年後の1995年、野茂英雄ドジャースでの挑戦となる。そして野茂英雄のメジャー挑戦は、BSの衛星放送の普及に拍車をかけることになった。当時、京都大学教育学部の事務室にはNHKの衛星放送が映るTVがあり、野茂英雄先発登板の試合は、事務長許可の下に授業のない教官や学生が特別に視聴できた。1勝を挙げるまで足踏みはしたものの、オールスターでの先発登板を経て 13勝6敗 奪三振王と新人王に輝く大活躍だった。江夏豊と言えば、206勝193セーブを挙げ、神様仏様稲尾様と呼ばれた稲尾和久と並び日本球界を代表する大投手だったが、晩年アメリカ野球にテスト生として挑んだが叶わなかった。大谷翔平の3回とも満票でのMVPや1票だけ足りない準満票でのイチローの米国野球殿堂入りまでには悲喜交々の長い前史があった。
1994年の夏は灼熱の日本列島となり、京都では8月初旬の8月5日から8日にかけて、4日連続で最高気温が39度台 : 39.3, 39.4, 39.2, 39.8 ℃ を 記録した。オリックス時代3年目の イチローが、連日4割に迫る活躍で、毎朝「冷たいアイス」と「スポーツ新聞」を買いに田中西樋ノ口町の下宿:一二三荘から近所のコンビニに通った思い出がある。故郷の松山市でも主水源の石手川ダムの貯水量が底をつき、一時底水が使用されるまでの窮地に追い込まれた。前年の低温と日照不足に続く猛暑と水不足で1994年は米の収穫も極端に少なく緊急でタイ米等が輸入されたが、パサパサした長粒米は日本人の口には合わず、オハイオに駐在中の叔母夫婦からカリフォルニアの NISHIKI 米 が送られてきて、京大の研究室仲間で分けた思い出がある。
イチロー1年目のマリナーズは年間:116勝でMLB最多タイ記録。2年目、3年目も93勝で十分地区優勝が狙える立派な成績だったが、それ以後の成績は宜しくなく、地区の下位に低迷した。ボストン・レッドソックスでは松坂大輔、上原浩治、岡島秀樹、田沢純一の4人に、NYヤンキースでは伊良部秀輝と松井秀喜の2人、シカゴ・ホワイトソックスは井口資仁と高津臣吾の2人に、セントルイス・カージナルスの田口壮、シカゴ・カブスの川崎宗則、ヒューストン・アストロズの青木宣親にもワールドシリーズ制覇のチャンピオンズ・リングが贈られている。そして去年のシリーズでは、大谷翔平と山本由伸もワールドチャンピオンとなり、合計13人もの日本人がリング保持者となった。日本人のメジャー挑戦:パイオニアの野茂英雄と19年プレーして殿堂殿堂入りを果たしたイチローが1個のリングも手にできなかったのに、敗戦処理要員として一度も登板せずに、さらにはワールドシリーズに選手登録されることなく指輪だけはゲットできた選手もいて「野球の神様」は本当に気まぐれだ。日本で50本の本塁打を放ってヤンキース入りした松井秀喜は、1年目わずか16本しか打てずNYタイムズには「ゴロキング」と名付けられた。日本球界では最強の「長距離砲」の松井秀喜も、チャンスに強いクラッチヒッターではあったものの、メジャーでは犠牲フライで堅実に3塁走者を帰す「中距離砲」でしかなかった。ヤンキース最終年:2009年のワールドシリーズでは、MVPに輝く大活躍を見せたものの、NYヤンキースは力の衰えた松井秀喜とは再契約せず、その後エンゼルス、アスレチックス、レイズと渡り歩いた末に、2012年限りで現役を引退した。現役最後の試合は、7月22日のマリナーズ戦。前日までマリナーズに所属したイチローは、7月23日ヤンキースへ電撃移籍、シアトルでのマリナーズ戦にNYのアウェーユニホームで出場した。レイズのユニフォームでマリナーズのイチローと対戦した試合が現役最後で、松井秀喜がレイズを戦力外となったその日に、イチローがヤンキースのユニフォームを着てシアトルでマリナーズと対戦、これを運命の悪戯と言わずして何と言おうか。
国連の事務総長が「地球温暖化」から「地球沸騰化」へと表現を改め、気候変動への警鐘を鳴らしたのが2023年だったが、春先から晩秋まで毎月のように日本各地で「最高気温を更新しました」の便りが聞かれるようになった。気象庁の統計で、全国のアメダス観測点ごとに過去の記録や平均値と簡単に比較考量できるようになり、ここ数年松山市の観測値も大幅に平均値を上回ることが明らかになった。一例を挙げると、9月の平均気温は:24.6℃ だが2024年は:28.0℃ で +3.4℃ 、最高気温を大幅に更新した。因みに これまでの最高気温は、前年 2023年 の:27.3℃ だった。統計学的にはあり得ない、あってはならない急激にして大幅な変動と言えるだろう。COPは、2050年までに、とかいう悠長な議論に終始しているが、現在の気候変動を直視する限り、最早「改善不能」というべきだろう。事実、2024年、日本の「米作」は大きな転機となり、ブランド米の輸出政策と相俟って、新米が出回っても米価が高止まりし、日本国民が十分に国産米を食べられない時代に突入している。気候変動は、野菜の収穫や玉子の価格にも大きな影響を与えている。エルニーニョとラニーニャの転換に伴い、毎年のように極端な夏の暑さと冬の寒さが訪れ、偏西風と黒潮は大きく蛇行、日本近海の海水温も厳冬期まで異常な高さで高止まりしている。北極海の氷が溶け、流氷は姿を消し、北米や豪州では大規模な山火事が多発、欧州では40℃の猛暑と大洪水、インドでは50℃の猛暑、熱帯雨林が人為的に大規模に消失したアマゾンは干上がってしまっている。
現在の世界人口は80億人を超えており、毎日約20万人、年間では 、毎年約 8千万人ずつ増加している。近年の急激な気候変動は、第一義的には人口増加に伴うエネルギー消費の拡大に負うところが大である。コロナ禍も アフリカとアジア、南アメリカの 人口抑制を主目的に開発された人工ウイルスによる感染症と考えれば、腑に落ちる現象が多い。新型コロナウイルス には、「フーリン切断部位」という自然界には存在しえない 機能獲得によって得られたのではないかと疑われる感染力を高める遺伝子配列が存在する。
イベルメクチンは日本を除き、殆どの国ではネットやドラッグストアで簡単に手に入る比較的安全で廉価な優れモノの薬だ。本来は、アフリカや中南米向けの寄生虫対策で開発された薬だったのだが。イベルメクチンでノーベル生理学・医学賞を受賞した大村智博士は、「新型コロナウイルスは人工的につくられた?」で「このウイルスが自然にできたとはなかなか考えにくいんですね。人工的につくられたのではないかと思われるフシがいっぱいあります」と述べ、新型コロナウイルス感染症の治療に一日も早くイベルメクチンが活用されることを希望している。
「だまされていた」といつて平気でいられる国民なら、おそらく今後も何度でもだまされるだろう。いや、現在でもすでに別のうそによつてだまされ始めているにちがいないのである。 伊丹万作「戦争責任者の問題」(1946)
あの鐘を鳴らしたのは君。五輪史上日本選手最高の金メダルは、満場一致で2024年パリ五輪女子やり投げの北口榛花選手だろう。陸上のフィールド種目初の金メダルなのだから当然だ。2004年アテネ大会、男子ハンマー投げの室伏広治手選手も金メダルに輝いたが、お母さんがルーマニア人の ハーフ選手で、しかもドーピングによる繰り上げだったため失念していた。陸上 フィールド種目には男女一人ずつの金メダリストが存在する。自分史的に最も印象深い大会は1972年の札幌冬季五輪。自宅にまだ練炭火鉢があった最後の冬、毎朝NHKから流れてくるトワ・エ・モアの「虹と雪のバラード」で目覚めて1日が始まった思い出がある。厚生省時代、札幌市を視察した際、案内者が気を利かして笠谷・金野・青地:金銀銅3つの日の丸が揚がった宮の森ジャンプ競技場に車を回してくれた。小4、中学の美術科の田中和(かのう)先生が担任で午後の競技時間は特別にTV観戦となった。1年限りの緊急避難で小学校担任を務められたようで翌年は中学校に戻られ何年か後には市内の三津浜中学校で校長をされていた。得意の絵筆を執って生徒一人びとりに絵皿を贈られた。先生は血液の悪性腫瘍で20年以上前に亡くなられたが、頂いた絵は50年の時を超えて、現在も色褪せることなく当時の思い出と共に手許に残っている。小学校時代、男の先生は和先生一人きりで、美術が専門ということもあり日頃から古今東西の名画や彫刻を大型の画集等で見せてくださり、細かいことに囚われずに伸び伸びさせてもらえてありがたい1年だった。
NHKは女子ジャンプしか放送しないので、小林陵侑の偉大さについてはあまり知られていないのだが、ウインタースポーツでは日本のトップ選手だ。
欧州で歴史のある層の厚い人気種目で、W杯総合優勝2回、通算32勝。高梨沙羅は、女子ジャンプの黎明期に1強だったため異常な勝利数を稼いだが、いまだにテレマーク姿勢が決められないレベルの選手だ。女子では、スピードスケートの髙木美帆がW杯の通算勝利数を35に伸ばし、清水宏保と小平奈緒を上回った。髙木美帆は2018年、欧米の選手以外では初めての4距離:オールラウンダーの頂点に立ち、クイーン・オブ・スケートに輝いた。男子ゴルフの松山英樹選手は、メジャーのマスターズを含めPGAツアーで日本人最多の11勝を挙げてアジア勢史上最強の異名を持つが、フェアウェイでゴルフができずショートパットも決まらないというプロゴルファーとしては非常に恥ずかしい欠点を有している。ラフから第2打、第3打は普通で、バンカーの梯子も珍しくなく、左手親指の付け根や頸の慢性的な痛みは拙いスキルのせいだと考えられる。小林陵侑は、2024/25 シーズンの初勝利、W杯:通算33勝目を札幌大倉山で達成、追い風をものともせず、微動だにしない美しい飛型 と テレマークで 2位に 20点もの大差をつける圧勝だった。小林陵侑は、札幌大会 第2戦も逆転で制し、通算34勝で 歴代 単独7位 となった。
安倍・菅政権では「2000年以降日本の自然科学系ノーベル賞受賞者は米国に次いで多い」と喧伝されたが、安倍・菅政権以降は ピタッと止まってしまった。裏金作りのスペシャリストによる 裏工作の産物でなかったことを祈りたい。例えば官房機密費の使用 はお手の物だろう。愛媛県出身のノーベル賞受賞者は、文学賞の大江健三郎、物理学賞の中村修二と真鍋淑郎の3人。大江は喜多郡大瀬村、中村は西宇和郡四ツ浜村、真鍋は宇摩郡新立村の出身で、3人とも村の出身である。28人の受賞者の出身高校は国立が1人、私立が2人、25人は県立高校の出身で、約半数は大都市以外の地方出身だ。
最初の欧州旅行は、京大の博士後期課程二回生の1990年9月から10月にかけて。ミュンスター大学哲学部の教授等に招かれドイツ統一を現地で祝った。
ギュンター・ヴァルラフがトルコ人労働者に扮してドイツ社会の外国人差別を暴きだした岩波の「最底辺」がベストセラーの時代、ライン川沿いを北上するDBの鉄道移動の際に、ギブ・ミー・マニーをするトルコ人の子供たちを目撃した。同市:ランゲヴォルト(Langeworth)の大学教授宅にステイして哲学部に通った。京大生協で大韓航空の往復18万円の格安オープンチケットを購入したら、伊丹発、金浦、アンカレジ経由でのフランクフルト行きの長距離飛行となり、カナダの北部を横断してグリーンランド辺りから欧州へと至る経路で、乗り換え時間を含めて1日以上かかる大フライトになった。往復とも給油地のアンカレジでは晴天に恵まれ、アラスカの流氷と荘厳なマッキンリーを上空から眺める幸運に恵まれた。長時間フライトではあったがワイドボディのB747での移動は、B777やA300シリーズでの移動よりも乗り心地は格段に良く、13時間の直行便よりも遥かに楽な旅行になった。正し、ソ連に撃墜されたあの大韓航空機撃墜事件と同じ空路を飛行するフライトだった。
午前7時、ひとみさんのNHKラジオけさのニュースを聞き、自宅マンションの玄関から徒歩1分のバス停から直通便で1時間、午前9時台の上海行きに乗って2時間後には上海浦東空港のカウンターで、乗り継ぎの手続きを済ませ、正午過ぎのアリタリア航空:ローマ行きに搭乗。北京上空まで北上、西へ進路を変えてシルクロードの中央アジアの国々の砂漠の上空をカスピ海まで飛行の後、南西に進路を変えて欧州入り、約13時間のフライトで、ローマ:フィウミチーノ空港着。漱石はひと月半をかけて海路スエズ運河経由でロンドンに辿り着いたが、現在は250人乗りの旅客機の狭いシートで辛抱すれば、7~8時間の時差で、半日後には欧州各地で日本と同じ日の夕食を取ることが可能な時代だ。ローマの歌劇場すぐ傍のアンティカ・ボエームで赤ワインとローマンパスタのブカティーニ・アマトリチャーナで少し遅めの夕食。ルチアーノ・パバロッティやソフィア・ローレンも訪れた店でね。
飛行機の旅は、短時間ではあるものの離着陸時に思わぬ景色と出会うことがある。フィンエアーでヘルシンキのヴァンター空港に着陸前の数分間、低空から白樺の林と湖の絶景を愉しめたし、宮崎離陸の際には霧島山高千穂峰を見下ろしたこともあった。札幌新千歳は黒土、シャルル・ド・ゴールは赤土だった。阿蘇山、富士山を上空から眺めたこともある。瀬戸内で北条鹿島が目に入ったら松山到着は間もなくだ。2回目の欧州旅行は22年後の2012年7月。ヘルシンキ経由でプラハへ旅立つ直前、関空のJALホテルをチェック・アウト前、イチローNYヤンキース移籍のニュースが入ってきた。1ユーロ:百円、未だ日本円に価値のある時代だった。プラハへは、2013年の4月、エリアフ・インバル指揮のチェコフィル定期とモーツァルトのレクイエムを2晩続きで聴きに出かけたこともあり、のだめカンタービレにも登場の旧市街地の五つ星:グランド・ホテル・ボヘミアに合計6泊した。2012年9月に1週間、上海とパリ経由でアテネを、2013年4月は、上海、ローマ経由で1週間、フィレンツェとボローニャ、アレッツォを訪ねた。2013年当時、日中関係は最悪だったが、乗り継ぎに半日以上あり、磁浮と地下鉄を乗り継ぎ、上海中心部の豫園を訪ねて湖心亭で中国茶を愉しんだ。
「人類の進歩と調和」をテーマに、1970年の大阪万博は6400万人もの入場者を記録したが2025年の大阪万博のチケットは半分が売れ残っている。テーマは「いのち輝く未来社会のデザイン」。ミャクミャク:脈々:とかいうマスコットを「気持ち悪い」と感じる人も多かった。私には、神戸の連続児童殺傷事件を引き起こしたあの元 少年A:酒鬼薔薇聖斗が自身の公式ホームページ「存在の耐えられない透明さ」の「ギャラリー」にアップした絵画を基に作成したのではないかとさえ思われた。
京都大学で文部教官をしていた1990年代半ば、中国や台湾、韓国からの多くの留学生に「日本と競争するのはつまらない、世界を向いて、世界への貢献を第一に研究したり国創りをしたりするよう」アドバイスしたものだった。あれから四半世紀以上が経過し、中国はアメリカと並ぶ超大国へと成長し、韓国や台湾は、一人当たりの国民所得で、日本と肩を並べるまでに発展することになった。2024年、愛媛県と松山市は、ソウルに加え、釜山との間にも定期便を就航させて韓国インバウンドの取り込みを図っている。現在、日本のゴルフ場のプレー料金が韓国の3分の1ということもあり、道後温泉での湯治も兼ねて10日も滞在してゴルフ三昧とかいう話も聞こえてきた。韓国インバウンド向けに特化し生き残りを図った奥道後 壱湯の守は、別邸坪中川に1泊:22万円プランを新設した。ヘリポートも新設、インバウンド等の富裕層を取り込む目論見とか。
奥道後と言えば、伊予鉄の梅津寺パークと並んで、1970年代は松山市民にとってディズニーランドやUSJ、海遊館のようなアミューズメントパークだった。天山辺りだったか星岡パークもできて、近所の級友の誕生日の二次会でタクシーを数台チャーター、ジュースで乾杯、ケーキを食べてから移動、乗り放題チケットを渡されて、楽しい時間を過ごした思い出がある。半世紀前の記憶を手繰り寄せていると周辺の記憶も甦るようで、父の自転車に同乗して、石手川沿いの河川敷にあった旧建設省が管理する「交通公園」を何度か訪れゴーカートを運転したことがあった。運転免許を取らなかったので、小学校1、2年での運転が人生最初で最後のドライブとなった。
「ドライブ・マイ・カー」は、2022年のアカデミー国際長編映画賞を受賞したが、文庫本の原作に当たってみて余りのお粗末さに驚愕した覚えがある。毎年ノーベル賞の季節になると、全国の書店で村上春樹フェアが開催され、ファンの残念会の模様が報道されるが、存命の間は延々と同じ光景が繰り返されることだろう。そもそも彼は一度もノーベル文学賞の候補になっていない気がする。ひとみさんのBLOGを見て村上春樹の主要作品を読んでみて正直そう思った。「ダンス・ダンス・ダンス」は、奇を衒った作風でとても面白かったがそれ以上の何者でもなかった。どれを読んでみても大差なし:ファンタジーというジャンルのライトノベルだった。一服の清涼剤ではあっても、ただそれだけで読後に何も残らない。さすがにアイスキャンデーではないものの、ノーベル文学賞受賞者の間では、大江健三郎でさえ、ヘッセやトーマス・マンと較べると全く同じ印象だ。
NHKのプレミアムドラマ「グレースの履歴」BSで8回に亘って放送されたが「最終目的地:松山」へと至る佳境の第7・8回は、主人公夫妻が愛車グレース号を駆ってカーナビに登録した場所を巡る二つのドライブ物語だった。夫妻のプロポーズ場所:瀬戸内海の因島から、しまなみ海道経由で松山入り、県民文化会館前から伊予鉄バス:東高前のガーデニングショップへ、そして石手川緑地と松山城では、蓮見と元婚約者の草織がすれ違った過去を埋め合わせる会話を交わし、翌々日には高浜からフェリーで興居島へと渡り浜辺をドライブした。炊き込みの松山鯛めしは下拵えが全てのシンプルで奥深い料理。北海道産の昆布を敷いた鍋に冷水で血合いを完全に取り除き雑味の出ないよう下拵えした真鯛を載せて炊き上げるのみ。神功皇后に献上された古代の北条鯛めしの白出汁とは海水を真水で調理用に薄めたものだったのだろう。炊き込み御飯ではこれ以上あり得ないほど上品で雑味のない得も言われぬ深い味わいとなる。花は桜 魚は鯛 これぞ究極の日本食だろう。松山滞在二泊目、蓮見は草織の助けを借りて夕餉に松山鯛めしを作った。蓮見希久夫と伊川草織は、杉並の高校と北大時代、恋人として一緒に過ごした間柄だった。夕陽に染まる松山城で「赤とんぼ」のサイレンを聴いた希久夫は、阿佐ヶ谷は ? 浜田山はどうだった? と問い、草織は、杉並はみんな「夕焼け小焼けよ」と答えるが、それは紛れもなく恋人の会話だった。道後温泉に「刻太鼓」は存在するが、朝昼晩、松山で サイレン は 流れない。松山城で城下を見渡しながら希久夫が「いい街だね」と言った際、草織が何と応えたか?原作には「この街で死ぬ自分を想像できたから、暮らしてもいいと思った」とある。ドラマも、こそばゆい程のべた褒めだったが、オリジナルは、さらに「滅多に聞くことのできない台詞」だった。石手川公園のカットは、超望遠撮影なのであのように映ったが、人の目には絶対にあのような景色には映らない。小学校に入学して間もなく「グレースの履歴」第7話で希久夫と草織が肩を並べて歩いたのと同じ石手川沿いの遊歩道を、母:玲子に連れられて予讃線の踏切辺りまで往復した日のことを思い出した。往復5㌔もの道程は小1には相当長距離だったはずだが、春爛漫の1日、咲き誇る植物や昆虫の名前を一つ一つ教わりながらゆっくりと歩いた道程は懐かしく決して色褪せることのない記憶である。松山空港への着陸態勢に入った全日本空輸のYS11が手が届くほど近くに見えた。男はつらいよ「寅次郎と殿様」でも高浜から興居島へと渡る寅次郎乗船のフェリーが映し出されている。
坊っちゃん、坂の上の雲、花へんろ、ブラタモリ、がんばっていきまっしょい、グレースの履歴等の作品では、母校や故郷の姿が実に様々な形で描き出されていたが、BS朝日 「伊予鉄道でめぐる! 松山・道後 坊 っちゃん紀行 #260 」では、最新の姿が映し出された。少年時代、松山城下:番町校区という松山の中心部で生まれ育った恩恵である。 徒歩で10分、登校の際は毎日城山と松山城を 見上げ、「ベン・ハー」や「猿の惑星」「宇宙からの脱出」等を父と見た同じ町内にあった映画館:大劇前から銀天街を抜けて三番町のオフィス街、二番町の番町小学校へと至る道程が私の通学路だった。途中には、正岡子規:中の川時代の住居跡や、昭和を代表する教育学、心理学者のひとり城戸幡太郎の生家もあった。昭和40年代の初め、つまり、旧市駅・旧銀天街・旧大街道の時代には、番町校区にも僅かながら戦後の記憶を宿したバラック建築が残っていた記憶がある。間もなく、大街道は大きく立派なアーケード街となり、松山市役所は11階建てのビルに。愛媛県庁本館の東隣に第一別館が、大街道・一番町には全日空ホテルが新しく建った。ローカル路線バスの旅Z第5弾とW第4弾で、今治から松山へと向かう 国道317号 は 瀬戸内バスの松山特急線 、松山市駅高島屋前からロープウェイ乗り場まで乗車した路線は伊予鉄バス52番:松山空港 - 湯の山ニュータウン線。
松山空港の滑走路は1972年、2千㍍に拡張され、中・四国初、全国6番目のジェット機就航空港となり、全日空の東京羽田線にB727、B737が投入された。B727の独特のフォルムは少年の造形への想いを掻き立てた。
双発のジェットエンジンが、機体後部の本来水平翼のある位置に設置されたため、水平翼は垂直尾翼に取り付けられることになった。当時のANA機のロゴマークはダヴィンチのヘリコプターだったこともあり、この機体後部のシルエットとデザインに少年の心は魅了された。B737には、乗降用のタラップが内蔵されており、乗り降りの際に機体からタラップが出入りする様は、1960年代のバスの腕木式の方向指示器さながらだった。
1960年代半ば、幼稚園時代から本格的なTVの時代となり、NHKの夕方、ひとみ座の人形劇:ひょっこりひょうたん島はじめ、人形劇のサンダーバード、実写ものではマグマ大使やウルトラセブン、アニメのジャングル大帝、マッハGoGoGo等、多くの人気番組があった。鉄腕アトム、鉄人28号は私の一つ前の世代だった。余りの人気で、全国のおもちゃ屋や模型店から「マッハ号」 が一斉に消えてしまったのだ。斬新なM字型のフロントデザインに、殆ど全ての男子児童が魅了された。巨人の星、アタック No.1、エースをねらえ! 等、所謂「スポコンアニメ」も、この時代から次々と生まれた。1999年、厚生省中央児童福祉審議会の推薦業務で、ひとみ座の人形劇を視察することになろうとは夢にも思わかった。朝ドラやニュース報道で、NHKが肩入れした水木しげるの「ゲゲゲの鬼太郎」も、この時代の人気番組の一つだった。
以前、現在の松山高島屋の東に伊予鉄のバスターミナルが存在したのだが、そのすぐ傍の柳井町3丁目に富士教材という模型店があった。伊予鉄バスが室町車庫から石手川沿いの県道を東進し、横河鎖線の踏切を越えて坂を下り柳井町を北上、中の川通りで左折後、まっすぐ西へ直進してターミナル(松山市駅)へと至るコースは当時のままだ。因みに、その前のバスターミナルは現在の伊予鉄本社ビルの辺りにあったのだが、それは腕木式の方向指示器の時代で、タクシーの初乗り運賃は80円程だった。1962年のお正月映画に「サラリーマン清水港」があるが、森繁久彌と小林桂樹が、特急つばめと関西汽船のくれない丸を乗り継いで、松山市花園町、有島一郎が社長の乾燥芋問屋:四国物産を訪れた際に、会社の車で南堀端から道後温泉へと向かうシーンがあったが、そこには当時の松山城はじめ、茶色とクリーム色の市内電車や緑色の路線バス等の貴重な映像が記録されていた。※ 松山市北持田町 四国物産 社長宅を訪問時の 森繁久彌。後方は 城山 と 松山城(1961)。
1968年2月公開、森繁・小林コンビの「続・社長繫盛記」では、奥道後温泉が紹介された。
小1のお正月、プラモを買いに父と富士教材を訪ねたが、最初の模型は:F111、世界初の可変翼機で、父から受けた最初の手解きとなった。小3、富士教材で「コルキット」という名前の工作キットを求め、手作りで屈折式の天体望遠鏡を作った。当時は厚紙製で木製の三脚、1万円を超える高価な買い物だった。倍率は百倍、柳井町の自宅ベランダから真冬のオリオン等を観測した。キャノンのコンパクトデジカメでは超望遠でもクレーターは映らないが、その望遠鏡だと、大小様々なの月のクレーターがくっきりはっきりと観測できた。レンズ越しに見る恒星は色とりどりの宝石そのものだった。1999年、姫路の星の子館を視察した際に天体望遠鏡で土星を見せてもらったことがあるが、1億円を超える反射望遠鏡だと、土星の輪を容易に観ることができた。国立天文台、ハワイ島マウナ・ケア山のすばる望遠鏡や、ハッブル、ジェイムズ・ウェッブ等の「宇宙望遠鏡」で観測した深宇宙は、無数の銀河で埋め尽くされた宝石箱だった。現代という時代に生きてこそ、人類が初めて観ることができた138億年の造化の賜物と言うべきだろう。
宇宙は、望遠鏡や顕微鏡等の技術や道具の進化・発展で両極へと拡大・進化を続けている。無限に退いていくと極大:マクロコスモスへ、無限に近づくと極小の世界:ミクロコスモスが開かれる。どれだけ両極へと近づけるかは時代ごとの技術的精度如何だ。スケールという言葉があるように、人類が手にするその時々の技術次第では、さらに微視的なミクロコスモスが開かれる可能性がある。分子、原子、素粒子:クォーク、レプトン、ボース。ナノマシンもさらに進化して、名称も新たなスケールに相応しいものに改められるだろう。映画「ミクロの決死圏」は、人体奥深くへの沈潜だったが、現在なら、「ナノ世界」への探検旅行だろうか。羽田空港でベンジャミンを撮影したら、偶然背景に未確認飛行物体が映り込んだことがある。肉眼では決して見ることのできない物体だった。人類はまるで大航海時代の西回りのように化学燃料のエンジンで月や火星へ向かう無謀な冒険を企画するが、宇宙は彼らの宇宙船のように重力を自由に操り短時間で無限に加速できるような技術なくしては開拓できないスケールだ。ダークマターにダークエネルギー、宇宙の神秘は尽きることがない。理論は存在しても、実証は難しく、宇宙はさらに遠く、簡単には手が届かない。化学燃料の移動手段しか持たないレベルの文明には、決して宇宙は真の姿を明かさないだろう。明らかに地球人類のものではない未確認飛行物体のシルエットを眺めながらそう思った。
伊予鉄の道後温泉行き市内電車に乗車中、松山市の南堀端から見える松山城を観光客の女性が「可愛い」と言うのを聞いたことがある。「坂の上の雲」で、司馬遼太郎は「この城は四国最大の城とされたが、あたりの風景が優美なために石垣も櫓もそのように厳くはみえない」と述べ、山頂の高さ十丈の(30㍍)石垣が、赤松の樹間(このま)がくれだと、理由を解説している。松山城は、登城して本丸に到達して、あるいは鳥瞰ではじめて巨大な偉容に驚かされることになる。
2024年7月12日、道後温泉本館が長期間の保存修理工事を終えた翌日、折からの豪雨で天守閣のすぐ東側の城山で大規模な土砂崩れが発生した。直接的には、松山城緊急車両道の亀裂に起因するものと推察されるが、根本の原因は、1600年頃の加藤嘉明による松山城築城までに遡る。もとは2峰に分かれていた谷の部分を埋め立てて造成し、城山の山頂に本丸用の平地を拵えたのだった。天守閣の本壇付近が谷に当たり「谷が鳴く」と言わるほど地盤が不安定だったため、松平定行の治世に五層の大天守は三層に改築されている。松山城の城山はこれまでも大雨の度に漏水を繰り返し、直近では前年の大雨でも土砂崩れの前兆があり近隣住民が松山市に対策を求めていた。
NHK松山放送局は、四国地方4県4つの放送局を統括する拠点だが、それは戦時中に松山に置かれた松山逓信局に遡る。実は財務局も海運局も終戦が間近の昭和20年5月末日まで松山に存在していた。ところが、一億玉砕に向けて6月1日、高松に四国地方総監府が新設されたため、松山の管区機関は、松山逓信局を残して一斉に高松へ移転することとなった。6月12日、陸軍が、四国4県を統括する善通寺の四国師管区司令部を四国軍管区司令部へ改組したことに伴う必然の措置だった。軍が行政を掌握する必要上、国の管区機関が遠隔地の松山では不都合だった。陸軍が、終戦を徒に引き延ばす悪あがきを行ったため、松山は管区機関を失い、日本全土の殆ど全ての都市が、米軍の無差別爆撃で焼き尽くされ、最後は、広島、長崎への原爆投下となる。※ 高松空襲 :7月3日、徳島大空襲 :7月4日、高知大空襲 :7月4日、松山大空襲:7月26日。真珠湾攻撃は戦争の早期終結を期して行われた米国最大の軍事施設への奇襲攻撃だったが、原爆投下を含む米軍の日本の都市への無差別爆撃は、第二次大戦で最も野蛮で非難されるべき戦争犯罪である。
終戦直前の 1945年6月、政府と軍部は、本土決戦、一億玉砕へ向けて邁進していた。この時期の日本は、既に連合国による本土空襲が激化し、特に東京大空襲や沖縄戦の惨状を目の当たりにしていたにもかかわらず、降伏の選択肢を排除し、最終的な決戦に備える態勢を準備していた。四国では、高松の四国地方総監府と善通寺の四国軍管区司令部がそれに該当する。四国地方総監府は、松山逓信局の高松移転を迫ったが、旧制松山中学・松山高校卒、松山市出身の第二代局長:加藤雄一は身を挺して同局の高松移転を阻止した。現在も、四国総合通信局が松山に置かれ、NHK、NTT、日本郵便等が松山に四国の拠点を置く所以である。松山総合通信局旧庁舎移転に際し、香川県と高松市が同市への移転を画策したことが報告されている。善通寺の四国軍管区司令部設置に曳き摺られる形での、今日まで持続・継続する松山から高松への管区機関移転は、太平洋戦争の残滓とも言うべき忌むべきものである。四国の発展を現代に至るまで妨げた要因を3つ挙げるとすれば、第1は香川県の愛媛県からの独立、第2は高松の四国総監府と善通寺の四国軍管区司令部の設置、第3は四国管区機関の松山から高松への移転が妥当だろう。四国州でも広く論じられた通り、「国の出先機関や四国を統括する大企業の支社が高松に置かれても結局は、松山よりも大きな都市になれなかった。道州制が導入されて四国で一つの州を構成するようになれば、間違いなく四国の州都は松山だろう」。北四国全体が愛媛県であり、なおかつ国の管区機関が、終戦直前に一斉に高松へ移転せず松山に留まって戦後復興を遂げていたら、松山は東北地方の仙台や九州の福岡のような真に四国地方を代表するに相応しい大きく美しい都市に成長発展していたことだろう。
四国の玄関口は高松という「事実誤認」が宇高連絡船の時代から続いておりここで改めておきたい。高松は連絡船が到着する度に旅客が我先に接続列車へと走り出す乗換駅に過ぎなかった。三本の本四架橋で高松は乗換地としての地位も失い素通りのまちとなる。瀬戸大橋線で高松は終着駅。本州からの高速道は、高松を経由することなく徳島、高知、愛媛の目的地へと向かう。空路では松山空港が中四国では最多の乗降客と路線を誇り中四国のローカルハブと同時に四国の玄関口の地位を担っている。高松は香川県の離島航路の港にもかかわらず、広島を凌ぎ福岡のウォーターフロントに比肩するような分不相応な港を形成している。
天から降ってきたほうれん草を1年9か月に亘って育てたことがある。春先から風の弱い天気の良い午後、バルコニーで日光浴させたベンジャミンの鉢植えに秋ごろ着床して発芽した双葉を見つけて移植したところ、食用のほうれん草だとわかり、そのまま育てながら観察を続けたのだが、夏の異常な暑さで一度は腐りかけたにもかかわらず、ある晩を境に「薹立ち」して形状を変え(一種のトランスフォーメーションではないだろうか)、横に大きく広がる葉を作らないようになって生き延びることに成功したのだった。短くて細い厚みのある硬い葉に切り変わった。冬は小型の専用LEDライトの下で育て元気に越冬させた。最後は、もう新たに広げられる葉がなくなり、それでも彼は生きたかったのだろう、丸くて短い葉っぱ状の突起を多数生み出した後、一生を終えることとなった。死んだというより、可能な生を全うして生き終えたと言う方が適切だろう。毎日撫でたり話しかけたりして育てたら懐いてくれたようだった。小さないのちと心を通わせることができ、癒されるとともに楽しく幸せな日々だった。ベンジャミンの中で育てた一株のほうれん草。木の中で育ったので、木のような形になったほうれん草。天から降ってきた一粒の種から生まれた一株のほうれん草との間の奇跡のような物語だ。
BSプレミアムシネマのラインナップ、定期的に「西部劇週間」があるが、あれは一体誰が何の権限で放送するのか理解しがたい。教育テレビの名画劇場の時代に、何度か「一生ものの映画」と出会ったことがある。「大いなる幻影」「道」「見知らぬ人」等だ。「見知らぬ人」は黒澤明が最も敬愛したインドのサタジット・レイの作品で岩波ホールでの上演もある。この映画を映画館で観たのは京都時代、祇園会館で。NHKが教育テレビで元日に放送してくれたお蔭でVHSに残せ、今日もDVDで時々視聴している。それらは何れも、視聴者のリクエストでは決して放送されることのない娯楽性とは無縁な映画だった。長編の大河ドラマでは「ドクトル・ジバゴ」、スリリングなミステリでは「ジャッカルの日」と「北北西に進路を取れ」が推しだ。
日本映画では、戦時中1943年の「無法松の一生」と原節子主演、黒澤明の「わが青春に悔なし」が双璧だ。京都大学が舞台の「わが青春に悔なし」は自分の人生とも重なる。今はなき「志」が主題の映画。日本の大河ドラマにはない「勧善懲悪」と「志」が、韓国のイ・ビョンフン監督の時代劇には見られる。「大長今」は、NHKはじめ、日本で一体何度放送されたことだろう?ミン・ジョンホの「人が身分を問うのであって書物は身分を問いません」は「志」の象徴であり、蓋し、名言である。「許浚」「李祘」「同伊」「馬医」「獄中花」等 も 「大長今」同様、各局のBSで 全編全ての台詞を暗唱できるほど繰り返し放送された。イ・ヨンエは「大長今」で水刺間の志ある女性:ソ・ジャングムを、ハン・ジミンは「イ・サン」で図画署の志ある女性:ソン・ソンヨンを演じた。名作映画は、視点やジャンル別に数えきれないほどたくさんあるが、本当に好きな映画は意外と数少ない。私の推しは「コーリャ・愛のプラハ」と「バベットの晩餐会」である。プラハ旅行では「コーリャ」の舞台を巡り、フィレンツェ旅行ではアレッツォを訪ねて、ベニーニの「ライフ・イズ・ビューティフル」に思いを巡らせた。「静かなる男」「きっと忘れない」「ジュリア」「アメリ」「ホテル・ニューハンプシャー」… …と、好きな映画は尽きることがないが。「2001年宇宙の旅」や「ローマの休日」、「羅生門」や「東京物語」 が、世界や 日本を 代表する名作であることに異論はないが、世界史のタブーのひとつ:イルミナティに切り込んだキューブリックの遺作「アイズ ワイド シャット」も捨て難い。朝日新聞 2022年 5月 東洋経済 2023年 1月 今こそ見たい! 日本映画の巨匠 読者ランキング 1:伊丹 十三 2:黒澤 明 3:小津 安二郎 4:大林宣彦 5:市川 崑。このように、視点と集計対象次第でランキングは全く別の結果となる。現代の若い世代中心の投票なら「お葬式」や「マルサの女」「タンポポ」の 伊丹十三監督 1位は、何の不思議もないだろう。
少年時代の1970年代、愛媛県立美術館では、日展以外にも白川義員ヒマラヤ写真展やマイヨール展が開催されそれらを訪れた思い出があるが、残念ながらミュシャ展もバルテュス展も開かれなかった。愛媛県出身の白川義員は、「世界百名山」の山岳写真家から「天地創造」では山岳アートへと転じた。3千人収容の愛媛県民文化会館と2千人収容、堀の内の松山市民会館では、バレエや演劇、各種コンサート等を開催。松山市民会館では、カラヤン・ベルリンフィルに、ムーティ・ウィーンフィルやノイマン・チェコフィル、愛媛県民文化会館ではインバル・フランクフルトhr響といった世界最高水準のオーケストラが公演を行っている。NHK交響楽団は、毎年一回N響松山定期演奏会を開催。1960年5月11日(水)、ボストン交響楽団の松山公演、 愛媛県今治市縁の建築家、丹下健三設計の愛媛県民館で、マーラーの交響曲第10番第1楽章:アダージョが、コンマス兼アソシエイトコンダクターのリチャード・バージンの指揮で日本初演されている。キルヒナーの弦楽のためのトッカータに続き2曲目に演奏された。メインは、チャイコフスキーの交響曲第5番。前々日は、ミュンシュが京都でベルリオーズの幻想交響曲を、翌々日は、八幡でコープランドが自作プロを指揮。2016年8月までウィーンフィルの第1コンサートマスターを務めたライナー・キュッヒル率いるウィーン・リング・アンサンブルは、2018年1月7日、松山市民会館で、ニューイヤーコンサートを開催。1979年11月、故郷の松山で聴いたチェコフィル、プログラムはノイマン指揮、ドヴォルザークの8番だったが、2014年4月には、自宅から 8,888㌔ のプラハに赴き、前首席指揮者:エリアフ・インバルの指揮でオール・シューマンプロのチェコフィル定期演奏会を聴き、翌晩は市民会館のスメタナホールでモーツァルトの「レクイエム」を聴き、自分の生前葬を済ませた。エリアフ・インバルのお蔭で学校では決して教わることのない真正ユダヤ人について思いを巡らせることができた。
縁あり、松山市の聖カタリナ学園ロザリオ幼稚園に学び、大切に育てられる機会を得た。そこでは毎年クリスマス前には集会室にカトリックのクリッぺが飾りつけられた。馬小屋で誕生したイエスとマリアのフィギュアである。ジングルベル に ブーツ の お菓子 白い肌 の マリア と イエス こんな顔の人がイエスだったら あなた方はキリスト教徒になりたいだろうか? Ave Maria
世界史のタブー: ナザレのイエスもその一人だった本当のユダヤ人について学校では決して教えてもらえないのだ。11世紀のアテネに創建、ギリシア正教のカプニカレア教会外壁のモザイクのイコンを見れば、ナザレのイェホシュアとその母ミリアムは、古代ヘブライ人の末裔としてのパレスチナ人であることは一目瞭然である。白い肌に金髪、青い目の聖家族などあろうはずもない。十字軍以前のキリスト教世界では、イエス=キリストは、褐色の肌と黒い目、黒い髪のパレスチナ人と認識されていた。ダ・ヴィンチもイエスは白人と信じて疑わなかったが、ルネサンス期の少し前でも、例えばロレンツォ・モナコは聖家族を褐色の肌と黒い目、黒い髪の人として描いている。エジプト、レバノン、シリア、イラン、イラク等の国々に囲まれたパレスチナの人が、カスピ海周辺がルーツのコーカソイド(白人)と同じであろうはずがない。第二次大戦後、英米の支持で世界中から大挙してかの地に入植した人々の殆ど全ては、カスピ海周辺をルーツとする人々だった。
私の生きた時代、それはリアルタイムで「地球の大気の循環」をモニターできる時代だった。2022年、国連常任理事国のロシアが独裁者プーチンの下、ウクライナへ侵略戦争を仕掛け、領土の割譲を要求。映画「バック・トゥ・ザ・フューチャー」に登場、あの街の破落戸:ビフ・タネンのモデルとされるドナルド・トランプが、2024年、アメリカ大統領に返り咲き、再び世界を混乱に陥れることになった。