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ESG経営(2):グリーンウォッシュ、ウォーク資本主義

今回はESG経営の陰の部分、識者から批判を受けている点について、
E(Environment:環境問題)を中心にまとめてみたいと思います。

グリーンウォッシュ

まず、環境面においては「グリーンウォッシュ」という言葉を一度は聞いたことがあると思います。これは意図的に消費者の誤解を招く表現を用いて「この商品やサービスは環境に良い」と思わせる企業行動です。

ただ、中には考慮不足・調査不足により、企業側は環境にやさしいと考えていたのに、外部調達や生産過程、廃棄・回収まで広く見直すと環境負荷が高いことが判明するケースもあるようなので、環境対策の難しさを感じる面もあります。

ただ、最近ではグリーンウォッシュと同様「この企業はSDGsに積極的に取り組んでいる」「この商品やサービスはSDGsの達成に貢献している」とあまり大きな効果や貢献していないのに意図的に社外にアピールすることを
「SDGsウォッシュ」と呼ぶこともあるそうです。

そんな昨今の状況、市民団体や消費者からの声を受けてなのか、最近の米国ではIRや企業PRの中で安易に「ESG」という言葉を使うことを避けて「責任ある企業行動」等に言い換えているようです。


ウォーク資本主義

さらに、環境保護、人種的偏見や性差別の撤廃、経済的平等といった進歩的なポリティカル・コレクトネス社会正義に対して、表向きは意識が高いようなふりをしながら、その実、これらとは矛盾する行動をとる企業や経営者を非難する言葉として、WOKE(目を覚ましたフリ:意識高い系)というスラングも使われているようです。

シドニー工科大学ビジネススクール学長兼組織論教授のカール・ローズ氏による「WOKE CAPTALISM」はこうした企業や資本家の偽善的とも言える行動原理や社会に与える影響を鋭く分析しています。

SDGs、パーパス経営、CSR、気候変動対策...「なんちゃって企業倫理」の化けの皮をはがす
企業がウォークになるということは、資本主義に死をもたらすのではなく、むしろ、資本主義の力とそれが及ぶ範囲を、ひどく問題のある形で拡大することにつながるのではないだろうか? もしそうならば、ウォーク資本主義は民主的な根拠に基づいて反対され、抵抗される必要がある。それは、公共の政治的利益がグローバル資本の私的利益によって、ますます支配されるようになってしまうからだ。わたしたちの道徳性が企業資源として捕らえられ、搾取されるようになるため、企業の私利私欲を間近で見ることになる。

「第1章 ウォーク資本主義に関する問題」より一部抜粋

ここで書かれているように、世界的な大企業やハイテク企業は庶民感覚すれば非常に高額に見える寄付や投資をして、自分たちは社会的に意義ある活動をしていると企業イメージアップを図っている一方で、末端の労働者に低賃金で過酷な労働を強いたり、各国には税金をあまり納めないよう租税回避策をとって、自分たちだけがたんまりと利益・報酬を稼ぐ姿勢は変わっていない。逆にその中に潜むもっと大きな問題や利己的行動原理を見えなくしていると説いています。


本書の延長として【巻頭解説】偽装された新自由主義(中野剛志氏)の中で、これは現代の「新しい封建制」「ハイテク封建制」にも繋がる話だと未来学者のジョエル・コトキン氏の著書を紹介しています。

「新しい封建制」の最先端は「シリコンバレー」だった
1980年代のシリコンバレーは、平等主義の手本とされ、労働者階級や中産階級の人びとが持ち家を所有するようになる「カリフォルニア・ドリーム」を実現していた地であった。しかし、シリコンバレーがソフトウェア産業などのハイテク分野で世界的に優位に立つようになるや否や、階級間格差が拡大していき、今ではシリコンバレーの住民の 割近くが、公的・私的な経済援助に依存しているという。過去30年間で、雇用の中心が製造業からソフトウェア産業へと移行したことが原因の一つと考えられる。

本書「日本版解説」より抜粋

本書では、ハイテク企業を中心としたグローバル大手企業や意識高い系のベンチャー企業にいる極一握りのエリートたちにより、階級や格差の固定化、社会的地位上昇機会の喪失がもたらされ、「新しい形の貴族制」が着々と強固なものになっていると指摘しています。

中世において、大半の教区司祭とカトリック信者は厳しい窮乏状態にあったが、多くの司教は、ペトラルカが言うように「黄金を積み、紫衣をまとって」贅沢に暮らしていた。
同じように、環境保護主義者は、一般市民に質素倹約を押しつけながら、環境保護運動を支持する超富裕層の身勝手な行為に贖宥状を与えている。「グリーン・リッチ(環境成金)」と呼ばれる連中は他人には消費を控えるよう呼びかけながら、自分たちは炭素クレジットを購入したり〔道徳的正しさをアピールする〕美徳シグナリングを示したりといったかたちで現代版の贖宥状を買っている。これによって、優雅に地球を救えるというわけである。
先ごろ2019年1月、地球環境危機について話し合う会議に参加する人びとを乗せたおよそ1500機のプライベートジェットが温室効果ガスをまき散らしながらダボスに到着した。著名な気候活動家たちのなかで、豪邸やヨット、山ほどある自家用車を手放すそぶりを見せる者などほとんどいない。

『新しい封建制がやってくる』第9章より

本書では一般的に環境問題解決に向けた企業活動とされている「CO2排出権取引」も現代版の贖罪状に過ぎないと非常に手厳しい指摘です。

これは前回の紹介した「COTENの資金調達」の中で語られていた
「呪術と化す数字」にも通じますね。

単なる代替え指標に過ぎない数字さえ達成すれば、企業評価が高まり世界が良くなる、実質的な社会的なリターン・社会課題の解決に繋がっているかどうかは注視する必要がある。
逆に数字(指標)を上げることで、それが一種の安心感 呪術となってしまうことに危険性や限界を感じるという件(くだり)です。

前回 Noteより


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