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【自分史】コーチングと人生の棚卸し

これまでの人生を振り返り、コーチを目指した背景、そしてコーチングとの出会いによって人生がどう変化したのかを赤裸々に綴りました。3万字を超える長文となってしまいましたが、自分の人生と向き合い、それを言葉にするのは初めての経験です。全文を読み切るのは至難の業かもしれませんが、少しでも興味を持ってくださった方は、ぜひご自身のペースで読み進めていただければ幸いです。※ かなりの長文なので、ご注意ください。

幼い頃に住んでいた社宅

カメ取り名人の少年時代

1987年8月7日に和歌山県和歌山市にて爆誕しました。人の幸せを伸ばすと書いて「伸幸:のぶゆき」と名付けられました。愛情たっぷりで過保護過ぎる母親と寡黙で子供想いな父親、そして2つ歳が離れている兄の4人家族。小さい時から兄に対しての競争心剥き出しで兄ができて自分ができないことが悔しくていつも泣いている子供でした。
JR和歌山駅から徒歩10分程。県庁所在地といえども周りは田んぼと畑だけの緑豊かな環境で大手電力会社に勤めていた父の2DKの小さな社宅で育ちました。父親は魚屋で職人をしている家庭で育ち、母親は製造業の工場長&兼業農家の家庭で育ちました。両親はそれぞれ高卒で学歴がないことに苦労した反動からかとても教育熱心な家庭で自分は育ちました。
住んでいた社宅の周りには同年代がおらず兄の友達と一緒に遊ぶ日々。野球をしてもサッカーをしてもドッジボールをしても2つ歳が離れていると周りができて自分はできないことがとても多かった。できないことが悔しくて1人でできるようになるまで日々訓練してたのを覚えています。

幼稚園卒業アルバム

当時のマイブームは虫取りで夏頃になると草むらに潜んでいるカマキリを捕まえたり、セミを一日中追いかけたり、田んぼに大量発生するオタマジャクシを捕まえたりと自然と一緒に遊ぶ機会がとても多かった。そして誰よりも上手かったのがカメ取りで田んぼの溝に隠れているカメを見つけるのが得意でした。息を殺して隠れているカメがどこにいるか溝を見渡して常にカメを探す子供でした。ちなみに今でも排水溝の溝を見かけたらカメがいないかチェックするので昔の特技は今も健在なようです。性格は幼稚園のお誕生日カードに「せんせいのおはなしをさいごまでしっかりときいてくれるのぶちゃん」と書かれていて昔から人の話をしっかり聞くタイプの子供でした。

小学校低学年〜

伸び伸びと虫取りをしながら生活をしていた幼少期を経て地元の小学校に入学することになります。小学校は住んでいた社宅から徒歩5分と激近で毎日1番乗りで登校する子供でした。
英会話、習字、ピアノ、ソロバンと親が教育熱心だったこともあり低学年から習い事をいくつも始め学校が終わった後には週3~4日は習い事をする生活を送っていました。ただ興味がないことをやらされているのが耐えられず毎週家に英会話を教えに来てくれていたアメリカ人教師からはこんなに集中力がない子供は初めてデスと言われ向こうから契約解除されたり、正座をしながら写経をする習字は何度書いても真っ直ぐに線が書けなく数年で辞めたりと、結局はソロバンとピアノだけが続く結果となりました。
楽しかったのはソロバンで特に暗算。頭の中で描くソロバンの玉を弾いて答えを出していく作業がとても楽しく長く続いた習いごとの1つでした。一方のピアノは毎年行われるホール貸切で行われる発表会で他教室の好きだった女の子に会えるのが楽しみだった。上手くなったのを見て欲しくて続けていただけだったけどソロバンと同じくらいピアノも長く続いたので好き(エロ?)の力は偉大です。
兄弟の習い事の月謝があったり両親がコツコツと貯金をする性格だったこともあり小さい頃から親の口癖は「うちはお金がないから」でした。そんなことを言う一方で数十万する誰も開かない百科事典全集が家にあったりで知に対する投資は惜しまない家庭で育ちました。

優等生を演じている?

小学校2年生の時、当時担任のO先生が授業時間になっても教室にしばらく来ないことがありました。小学校低学年で先生が来ないわけなので教室は動物園のように走り回ったり教室の電気を消したり付けたりと周りの男子は暴れまわってました。そんな中で冷静に周りの状況を見渡して皆に先生が来るまで静かに待つように言ったり消された電気を付けにいったりとその場で求められる模範行動をしていました。特に意識して優等生を演じていた訳ではないのですが変に正義感が強く周りから必要とされる行動をやってしまっていた。随分と遅れてO先生が教室に来た時に怒られる生徒が多い中、石井君のようにきちんと待って周りに注意をするのは偉いと全員の前で褒められたのがなんか嬉しくて妙に覚えている記憶です。

大好きなMくんへ

同じく小学校2年生の時に生まれて始めてバレンタインで女の子からチョコレートを貰いました。手作りチョコです。当日は土曜登校の日で午前中の授業が終わったタイミングで家に置いてるから帰ったら家に渡しに行くね♡と言われ、わざわざ自宅までチョコを持って来てくれました。これから家を出るという時に自宅に電話をかけてくれ今か今かと着くのをドキドキしながら待ってました。特段好きだった子ではなかったけど初めてチョコを貰う経験だったので嬉しくてウキウキしてました。チョコを手渡されてた際「中に手紙書いて入ってるから」と言って渡されました。ラブレターです。もちろん初めて貰うラブレター。帰るのを見送った後すぐにラブレターを開きました。そこに書いてあったのは「大好きなMくんへ」から始まる内容でした。自分は石井なのでIです。そう彼女は複数の男子にチョコレートを渡しており自分に間違ってMくんに渡す予定だったチョコを持って来てしまっていたのです。そっとラブレターをゴミ箱の奥底に捨てました。ピュアな小学2年生のハートにはハード過ぎる仕打ちでした。それからしばらく女の子が怖くなりました。

小学校高学年

学業では幼い頃からの負けず嫌いが影響してか成績はトップクラスでした。兄が私立受験をしていた影響もあり高学年になると大手進学塾に通うことになり結局続けていたピアノとソロバンは卒業することになりました。ただ興味ないことをやらされるのが苦手な自分は学校の勉強以外に取り組む受験勉強の意義が全く理解できず一番上のコースで入った塾でしたが勉強に力が入らずしばらくするとコースが下がり…結局中学受験をせず進学塾を辞めることなりました。

ゲームボーイ事件

アニメやゲームは両親から頭が悪くなるかだダメと禁止されて育ちました。絶対買わないと断固な両親に対して買って貰う為に強行手段に出たことがありました。ゲームボーイ事件です。父方のおばあちゃん家に遊びに行った際に従兄弟がゲームボーイをして遊んでいました。その場でゲームボーイが欲しいと父母に伝えました。いつものように父母は買わないと言いました。「買ってくれないんだったらもう帰る」とブチ切れ祖母の家から徒歩1.5時間ほどかかる実家への道を兄と歩いて帰ることにしました。途中で父親が自転車で追って来て兄のほっぺたを叩きました。自分は叩かれるのが分かったので避けました。祖母の家に連れて帰られた際に泣きながら従兄弟がゲーム持ってるんだからゲームボーイくらい買ってと伝えました。親族を巻き込んだ本気の子供の訴えに押され晴れてゲームボーイをゲットすることができました。

引越し先の新居

小学校6年生での転校

そんなこんなをしている時に新たに一軒家を親が建てたことがきっかけで小学校6年生2学期に入るタイミングで転校することになりました。残り半年程度での卒業なので転校せずバスで学校に通うという選択肢もあり親や先生からも薦められたのですがスパッと転校することを決めました。当時児童会の学年代表をしてたこともあって先生は出来れば止めたかった様子でした。
これまで低学年から習いごとをしたり塾に行ったりという生活を続けていた自分が新たな環境に転校することで自由になりました。転校後は仲良くなった友人と野球をしたり、秘密基地を作ったり、森でエアガン使いサバゲーしたりこれまでにない激しい遊びをするのがとても楽しかったのを覚えてます。新しい環境で新しい刺激に満ち溢れた時間でした。転校するまでは特定の仲良い数人と遊ぶのみで友達と心置きなく遊んだということが少なかったのでとても新鮮な日々でした。

同学年が集まる場で指名される

小学校6年の2学期に転校したので卒業まで半年ほどしか転校後の学校には在籍してなかったのですが何故か同学年全クラス(5クラス)が集まる集会にて6年生が下級生(1~5年生)に向けて発表する催し「谷川俊太郎の生きる」を学年代表として全員をリードして朗読する役割に指名されました。先生が面白がって指名したのか自分に自信を持たせる為に指名したのか真相はいまだに謎ですがその機会によって同学年全クラスに転校生である自分の名が知れ渡り全員に認知されることになりました。

荒れたマンモス中学校

中学受験をせずに近場の公立中学に入ったは良いものの入った中学は大荒れでヤンキー漫画で見たことあるような場面が多い劣悪な環境でした。授業中には非常ベルが数日に一度鳴ったり、打ち上げ花火が上がったり、廊下をバイクで走る先輩がいたり、上履きが燃やされたり、教室でタバコを吸うヤンキーがいたり…卒業式の前日には体育館の窓ガラスが200枚近く割れたり、教室が全焼する事件が起こったり等々、他の学校と比較したことがないので分からないですがこれは普通ではないぞ…と当時の自分でも分かる荒れ様でした。
そんな中、部活は父親がマラソンをしていた影響もあり陸上部(長距離)に入ることにしました。この選択が自分の人生を変える1つ目の転機になることにこのタイミングでは知る由もありませんでした。

部活での奮闘

顧問の中村先生は自身も国体出場経験があり県内でも全国大会出場者を多く輩出する指導力溢れた先生でした。入部希望の学生が体育館に集まった説明会で「全国に行きたいか?」と一発目に聞くほどWarm heart / Cool headな方でした。ちょうど自分達が1年生になるタイミングで他校から転籍してきたばかりというタイミングなのであんた誰やねん状態で です。
毎日の練習ノートに書かれているメニューがとにかくハードで入部してしばらくすると数名、また数名と同じ時期に入ったメンバーが抜けていきました。それと同時にどんどん記録会(定期的に陸上競技場で行われる公式な場)で自己ベストを更新していくメンバーが増えていきました。

地元新聞に取り上げられた写真 / 先頭自分

陸上部(長距離)は個人での成績ももちろん大事ですが年に一度ある大きなイベント駅伝大会もチーム戦で戦う大切な機会でした。中学の駅伝は6人で戦う総力戦です。県大会は毎年11月に行われ、県大会での優勝校が近畿大会、全国大会に進むことが出来ます。
新中村体制になっての初年度、自分達が中学1年時にはサッパリの結果で約40チーム中で17番だった記憶です。ただ当大会で準優勝したのが中村先生が転籍前に所属していた中学(前年度は優勝)で優勝後に先生のところに駆け寄り感謝の言葉をかけてる様子を見て「もしかしてこの先生の練習に本気で向き合ったら俺らも全国いけんじゃね?」と謎の自信が湧き上がってきたことを昨日のことのように覚えています。そこからは「やれるかもしれない」という謎の自信を元に猛烈な練習を繰り返し翌年の駅伝を迎えることになります…

迎えた本番:結果2位

途中までは1位を走る展開から途中抜かされ数十秒の差が足りずに悔し涙を呑む結果となりました。ただこの挫折がさらにチームが結束力を強めることになります。前年度に感じていた「やれるかもしれない」が「やれる」に変わったのがこの瞬間でもありました。次年度はさらにハードな練習を積み重ね、朝練も加えこれ以上練習をしてるチームは他にいないと確信できる程度に追い込んだトレーニングを重ねました。そして最終3年目の大会を迎えることになります。結果…

優勝(1位)

ただの1位ではなく当時歴代1位(全24大会中)の記録で優勝することが出来ました。駅伝で先頭を走っていると追い風がどんどん吹いていきます。小さい雪だるまがどんどん大きくなるかの如く、沿道の声援がエネルギーとなり、追われている感覚が背中を押し、走っている感覚を失う気持ち良さの中を駆け抜けることになります。1位は1位を呼び区間賞が多発するメカニズムが働きます(結果、自分も区間賞でした)
厳しい練習でも耐えられたのは一緒に夢を追った仲間がいたからというのもありますが、先生の指導の中に愛が溢れていたからだと感じます。朝練でも夕方の練習でも誰よりも早くグランドに立ってグランド整備をしていたのは先生でした。中村先生のような指導者になりたいとこの時期ぼんやりと考えていました。

駅伝大会優勝を地元新聞に取り上げられた写真 / 後方真ん中が自分

父親の転勤と強くなる覚悟

中学3年生の途中で某大手電力会社で働いていた父親が茨城県に3年の期間限定での転勤(単身赴任)になりました。家では寡黙でほとんど喋ることはなかったけど小さい頃からキャッチボールをして貰ったりマラソン大会に連れていって貰ったりと父の背中を見ながら育ちました。父親の影響は大きくて家には兄と母親だけが残ることになった。自分がもっと強くならんとダメだなと。転勤の話を聞いた時は平静を装っていましたが1人になった時に男泣きしたのを覚えています。

ハガキ職人「のぶサップ」

テレビはほぼ見なかったですが夜寝る前にラジオを聞くのが好きでした。当時DJ天国!クジラジオという徳島四国放送の番組が和歌山でも聞けました。当時のぶサップのラジオネームで毎週ハガキを出すハガキ職人をしていました。採用されるとステッカーやノベルティが送られてくるのですが最上位の景品がバックステージパスというスタジオを自由に見学することができるパスポートでのぶサップは何枚もバックステージパスを獲得していました。徳島のラジオ番組なので結局一度もスタジオには行けてないですが笑。同じクラスにクジラジオを聞いている同級生がいて何気ない会話をしている時に自分がのぶサップだということを明かしたら「あののぶサップさん?」と驚いている程度にリスナー界隈では有名でした。

自信をつけた先に

部活で自信をつけた影響は他の分野にも波及していきました。中学3年次には生徒会長の選挙に立候補し3名の候補者の中からぶっちぎりの得票数を獲得して生徒会長になったり、学業でも通信簿オール5。中間テストで学年トップを取ったりと1つの良いサイクルが他に波及する形でグッドサイクルが形成されていくのを肌で感じました。複数を同時並行で進めるからこそ良い影響が他に波及していくことをこの時に肌で感じました。

全校生徒に配布される学内新聞

頭を叩かれて正気を取り戻す

上記を書くと全てが順調で何の問題もなかったかのように思うのですが彷徨った時期が数週間ありました。それは中学3年次、県大会での優勝が決まり全国大会に向けての練習を続けていた時です。当時は生徒会での出し物の準備であったり、通っていた塾での受験勉強やテストがあり同時並行で部活をしていました。生徒会の活動を終えた夜18時過ぎに裏門からこっそりと帰ろうとしていた時に顧問の中村先生に捕まりました。「お前、全国大会に向けての練習があるのに今日部活を欠席したな。やる気あんのか?」と。生徒会の催しがあって…と自分が言い訳をしていると「これまでどんな想いでメンバーが練習してきたかお前は分かってるはずや。生徒会の活動で忙しくなるなんてやる前から分かったことやろ。言い訳すんな。練習するんかせんのかどっちや。生徒会の活動をするなとは言わん。やるなら倍努力しろよ。相談しろよ。どうするんや。やらんのやったら辞めろ」真っ直ぐに先生から正論を言われ自然と涙が溢れてきました。言い訳をしてる自分が悔しくて「練習します」と言って18時から皆が帰る中1人でグランドで練習をしました。練習を終えてストップウォッチを返しに体育室に入ると先生が終わるのを待ってくれてました。終わりましたと報告すると先生から「お疲れさん」と言われなんか凄くホッとしてその場で泣き崩れてしまったこともありました。

絶望を感じ続けた高校時代

高校は自転車で30分ほどかけて公立トップの進学高校に進みました。家から近くにあった進学校でも良かったのですが兄がその進学校に通ってたこともあり兄と同じ道に進むのは嫌だったのと中学時代小泉/竹中構造改革真っ只中で竹中平蔵さんの出身校でもあったことも選んだ一つの理由でした。ただこの高校時代が暗黒期だと思うほどにさっぱり良い記憶がないのです..

通っていた高校

全ての景色が灰色に見える

中学時代の自分にはゴールがありました。部活で全国大会に出たい。勉強でトップを取りたい。生徒会長になりたい。複数の領域で立てたゴールが相互に影響しあい毎日がカラフルで刺激的でヒリヒリした生活を送っていました。一方、高校に入ったタイミングで中学時代に持っていたゴールは全て達成されてしまいました。自分は何を目指して何をしたら良いのかが分からなくなってしまいました。中学時代は部活の先生が練習ノートを書いてくれストイックにこなしていたら良かったのです。高校では誰も練習ノートを書いてくれません。何をしたら良いのか。自分は何者なのか。何がしたいのか。全く持って分からなくなってしまいました。
もちろん授業には毎日出ていたし、文化祭は楽しかったし、部活も楽しかった。彼女もいたし不満はなかった。ただなんとなく過ぎていく日々が無機質に感じポッコり心に穴が空いてしまったように感じていました。
県立図書館が高校の近くにあったこともあって当時はよく勉強をしに図書館に通っていました。休憩がてらふらふらと図書館の館内を歩いて手に取る本は心理学コーナーにある本。学校の勉強そっちのけで貪るように読んでいたのは心理学の専門書で、古典心理に始まり社会心理、発達心理、臨床心理等々、図書館の心理コーナーに置いてある本は一通り手にとって読んでいました。その時、将来は臨床心理の世界で働きたいな。とぼんやりとですが夢がそのタイミングで出来ました。
ただ特に目標を持つ訳でもなく塾に通うでもなかった自分は進学校でどんどん成績が底辺に落ちていきました。特に行きたい大学がある訳でもないし進学校で勉強をする意味が良く分からなくなっていました。悶々とした日々で何をしても手応えなく楽しくない。当時の自分が見る景色は全てが灰色に見えていました。

転機の訪れ

そんな時に大学の教授が数名高校に来てくれて研究内容をプレゼンテーションしてくれるイベントが校内でありました。進学を決めるにあたって大学側も渉外活動の一貫で来るんだと思います。いくつか回った中で特に興味を惹かれたのが地方再生の分野で活躍されている足立先生(現和歌山大学副学長)の講義でした。
足立先生は元内閣総理大臣の曾孫でケンブリッジ大学卒業後に和歌山大学教授になられた地元での有名人。アナウンサーの川田裕美さんを始め各界で活躍するタレントをゼミから輩出されている先生です。特に自分が住んでいる地域がどんどん衰退していくことに危機感を感じていたこともあり地域再生やまちづくりの分野に惹かれました。この先生の元で学んでみたいという動機が心の奥底から湧き上がり足立先生のゼミに入ることをゴールに大学進学することをその場で決めました。

卒業アルバム用の写真 / 石版の中央が自分

地元大学に進学をする大学時代

特に大きな志がある訳でもなく高校時代は図書館にこもって心理学コーナーの本を貪り読み学校の勉強をほぼしていなかった自分でもなんとか3年から勉強を始め地元国立大学に入学することが出来ました。足立先生の講義を聞いてこの方のゼミに入りたいというエネルギーだけが当時の自分を突き動かしていました。
そんなこともあって大学1年次から足立先生の授業を受講し先輩ゼミ生の活動にも参加してお手伝いをする活動を始めました。そして足立ゼミに入ることになります。ただゼミ活動に参加する中で1つ気づいたことがありました。

この取り組みはサステーナブル ではない

衰退するシャッター通りをなんとか盛り上げようと大学生がイベントを企画したりカフェを開いたり様々な催しをする中、手伝ってくれる地域の方がたくさんいる一方で何を今更と冷ややかな目で見てくる方もたくさんいました。活動をする中で主催するイベントは赤字で補助金頼りだった構造にもしだいに違和感を感じるようになりました。ビジネスの枠組みで問題を解決しないと継続しないのではないか?ふと感じたこの疑問が自分をビジネスの世界に惹きつけていきました。
高校時代図書館に籠って本をたくさん読んでいたこともあり本を読むのが習慣になっていた自分は大学に入るとさらに読む本の数が増えていきました。ビジネス書というのを読み始めたのも大学1年の頃で大前研一/堀紘一氏といったコンサル業界の大家を始め各種ビジネス領域の本をたくさん読みました。船井幸雄氏のようなスピリチュアル領域の本も大好きで読んでました。

遊びとバイトと国際交流サークル

大学1年時はどこにでもいる一般的な大学生といった感じで友人とラウンドワンに行ったり飲み会をしたり家で騒いだり。当時はやりとり屋のバイトをしたりしてました。サークルは国際交流サークルという学内にいる外国人留学生を支援したり交流パーティをするサークルに入り特に外国に思い入れがある訳ではないのですが自分とは異なる価値観に触れることが楽しくて続けていました。特に出席率が高かった訳でもないですが何故か2年次にはサークル代表をしたりしてました。

ビジネスコンテストとの出会い

ゼミ活動を通じてビジネス領域に興味関心を持った自分に転機が訪れたのは前述足立先生の授業の冒頭にとあるビジネスコンテストの運営団体がコンテストへの参加を促すプレゼンテーションをしていた機会です。ビジネスコンテスト?なんなんだそれ?当時大学2年生で他の大学での取り組みを知らなかった自分はその時始めてビジネスコンテストの存在を知りました
自分が参加したビジネスコンテストは5泊6日合宿形式で全国から集まった6~70名ほどの初対面の学生がその場で6人程度のグループを組み即興でビジネスプランを作り最終日に数百名が集まる観客の前でプレゼンテーションをし優勝を決めるというビジネス初心者向けのコンテストです。このコンテストに応募したのが自分の人生を変える転機になりました。
初心者向けといえど全国からビジネスに興味関心がある大学1~4年生が集まり真剣に講義を受けその場で議論しながらビジネスプランを練り込みプレゼン資料を即興で作って発表していきます。とにかく時間がない。自分たちは「学食オリンピック」というコンセプトで全国の学食を百貨店のフードコートで展開するという事業内容を作り2007年大会で優勝しました(もちろん即興で作ったプランなので事業計画の完成度よりもコンセプト勝負なところがあるコンテストです)
初めて会ったメンバーが合宿形式で優勝を目指し各人が各々の役割をやり切る日々がなんか過去駅伝をやっていた青春時代と重なって合宿期間中夜中にベッドに横たわっては涙が止まりませんでした。久しぶりに感じる仲間とゴールに本気になる時間。懐かしくて自分がそこにいることが感じられてとても嬉しかった。
ビジネスコンテストでの優勝を経験後合宿を通じて自分の人生がアップデートされた気がして次は運営側をしてみたいと思うようになりました。そして翌年2008年度はビジネスコンテストの運営側を担当することにしました。その時に一緒にビジネスコンテストを運営してたのがエンジニア向けの情報管理サイト**Qiita** を創業した@yaottiや@tomoya_konishi だったりします。

大学3年次 / 写真中央が自分

コンテストの運営は1年かけて準備をするのですが大変だったのは基本毎週打ち合わせを梅田(大阪)で実施しているので住んでいた和歌山から片道1.5時間かけて毎回通う必要がありました。ビジネスコンテストの活動以外にも彼女が大阪に住んでたこともあり週2~3日大阪に出て来てました。バイトを夜型の焼き鳥屋から朝方の八百屋に変え毎日5時起きでバイトをしてました。八百屋の仕事は朝トラックで運ばれてくる10-15個のコンテナからダンボールを取り出し冷蔵庫に運んで積んでいくというザ・ガテン系の仕事です。結局2年弱八百屋の仕事を続けました(あの時運んだ白菜の重さはいまだに忘れません)とてもユニークな店長で眠いながらも楽しい日々でした。
ビジネスコンテストの参加・運営を経験して視界がひらけた自分はより自分を高める機会を探し求めました。結果社会人の方から仕事を貰って九州に飛行機で飛んでホームセンターの市場調査をする仕事をしたり、年始イオンの催事場でマッサージチェアを販売する仕事をしたり、急成長ベンチャーで働いたりと自分を高めるためにあらゆる領域に手を出す日々を送りました。

未経験の人間にコンサルなんて誰が依頼するの

ABC朝日放送の主催で元文部科学副大臣の鈴木寛さんが司会を務め、田原総一郎さん含めてメディア界の大御所の方と大学生20人がパネルディスカッションをするイベントに関西の学生代表として招待いただいたことがありました。間近で見る田原さんはテレビで見る通りの方で鋭いツッコミをその場でもバシバシとしていました。イベント終了後の懇親会で鈴木寛さんと話をさせて頂いた際に就活について相談させて貰いました。当時はコンサル業界に興味があるといった話をしました。すると鈴木さんからは「未経験の人間にコンサルなんて誰が依頼するのよビジネスで成果を出してない若者の話を聞きたいと思うか君は。成果を出すのが先だと思うよ」ということを言って頂き確かにそうだなと妙に納得したことを覚えています。

変な宗教に入ったと思われる

大学4年時熱狂していたのがKenさんという方が書かれていた「役立つ仕事術」というブログを写経することです。2007年から毎日欠かさず仕事に役に立つ考え方をKenさんは発信していました(現在も17年連続で毎日更新中)当時1200以上あったブログ記事で大切だと思う考えをピックアップし毎日自分のノートに写経していました。約3ヶ月部屋にこもってKenさんのブログ遡り読みながら写経していたので親からは変な宗教に入ったのではないかと心配されていました笑 写経したノートは8冊を超え、手は使い過ぎて痺れて動かなくなるまで書き続けていました。また書いたノートの中から重要だと思う教えを印刷して切り抜いて一軍ノートを作るほどの徹底ぶりでした。

切り抜き一軍ノート

後日談としては社会人1年目の4月第2週土曜日にとある大阪のカフェでKenさんとお会いできる機会がありその時に学生時代に写経していたノートを持っていきました。Kenさんの考え方を実践したくてノートに書き溜めていることを熱くプレゼンテーションしたところその場で携帯番号を交換してくれ翌月にKenさんが大切にしている場所の1つ伊勢神宮に連れて行って貰いました。Kenさんは毎年伊勢神宮に多大なる寄付をされている方でその時初めてスーツを着ての正式参拝のやり方を教えて貰いました。伊勢への車中では社会人として大事にすべきお金についての教えや新人が仕事で大切にすべきマインドを同じ空間で直接伝授していただきました。

早朝5時台の伊勢神宮内宮

Kenさんに伊勢参拝を教えてもらって以来社会人生活15年目(2024年現在)になりますが毎年欠かさず伊勢神宮に参拝に行っています。前泊をして朝5時過ぎから参拝をし参拝が終わったら解散するという参拝ガチな5人グループもでき、毎年の仲間の報告を聞くのが楽しみなイベントとなっています。

ケンブリッジに語学留学

大学のゼミの先生がケンブリッジ大学出身ということもあって毎年数名の候補者を募ってケンブリッジの町に語学留学をする取り組みが行われていました。自分は大学4年次の最後の年に参加しました。国際交流サークルの代表をしていましたが行ったことがあるのはそれまで中国/タイのみでヨーロッパに行くのが初めての体験でした。当時の英語力はお粗末でCambridge stationからホームステイ先に向かうタクシーに乗った際にタクシー運転手が色々と質問をして来ました。正直早口で何を言ってるのか分からずに適当にイエス、イエスと言いながら質問に適当に答えていると路肩にタクシーを止められ「Congratulations!You are successful man」と言って握手されました。どうやらケンブリッジ大学に入学したのか?どの学部なんだ?というのを色々と聞いていたんだと思います。適当にイエスというもんでケンブリッジ大学生にその空間ではなってしまいました。

同級生との一枚 / 前方の左側が自分

大阪の人事労務ベンチャーに新卒入社

学生時代に様々な経験を積んでいたこともあり就職活動では話せるエピソードは沢山あり面接では困りませんでした。ただ就活する上で感じていたのはどの会社を選んだら良いか選択肢がたくさんありすぎて選びきれないと感じました。父親が大企業安定企業に勤めていたこともあり反動からベンチャー企業のような常に挑戦してるカオスフェーズの会社に入りたいとも考えていました。
そこで自分が考えたのは学生時代に会った社会人の方の中でこの人はめちゃくちゃ魅力的だ!と感じた方がどの会社出身なのかを調べその出身会社の選考を受けることでした。結果6社受け3社から内定を貰いその中で一番最初に内定を出してくれたミナジン(当時:エイブルワーク)に入社することを決めました(余談:ちなみに内定を貰った中の1社は船井総研で大学1年生の時に読んでいた船井幸雄氏に会いたいが為に受け結局選考では会えずでした。船井幸雄氏の人間の研究というタイトルの本が自分はとても好きでした)

ミナジンという会社は自分が大学時代に最も尊敬していた先輩(アクセンチュア→起業)とたまたま大学3年時に大阪のカフェで出会った際、自分にぴったりの会社があると紹介してくれた会社で選考受けると大学時代にお世話になっていた社会人の方との繋がりがとても深く不思議な縁を感じたというのが入社検討のきっかけでした。当時はリーマンショック翌年で年末年始は年越し派遣村のニュースがメディアを賑わせており田原総一郎さんの朝まで生テレビをかじりつくように見て労働者派遣の社会問題に心を痛めていた時期でもありました。

新規事業に関われない現実…2年半こじらせる

ミナジンという会社は今でこそChatwork(現Kubell)グループ会社で人事労務系SaaS/BPOを提供しているBPaaS銘柄の会社ですが入社した当時は派遣事業が母体で新たな新規事業として勤怠管理SaaSを開発し売り始めるタイミングでした。開発が当初の想定通り進まず開発中のSaaS事業には新卒がやる業務がないかつ母体の派遣事業がリーマンショックの影響で大打撃を受けて縮小、既存社員の退職が相次ぎ支店責任者も退職したというズタボロな状況でした。事業運営を継続する為に入社数日で自分は子会社の立て直しで派遣会社出向になりました(既に派遣事業は売却済)

近鉄南大阪線古市駅

出向先は南大阪にある近鉄南大阪線古市駅前にある事務所でメインの仕事は製造業向けの現場/配送/事務スタッフの派遣。支店責任者が急遽退職したこともあり先輩がヘルプで入っていたのですが業務過多でクレーム多発という環境に投入されました。入社後に渡されたミッションは支店運営業務全てをその先輩から巻き取り一刻も早く先輩を元いた事業所に戻すことでした。業務マニュアルが整っている訳でもなく先輩も急遽ヘルプで兼務に入ったところだったので仕事内容を正確に教えてくれる人が誰もいなくクライアント企業の担当の方に頭を下げて教えて貰う有様でした。
また仕事内容は南大阪の工場地帯を飛び込み営業したり100名以上いる派遣スタッフの管理をしたり年間300名程の新規スタッフの面接を繰り返す日々
年商数億、従業員数100名以上を管理する支店を新卒1年目が運営してるというと聞こえは良いですが実態は工場地帯をかけずり回って、派遣社員の勤務表を回収して、夜には派遣スタッフからの電話相談を受け、毎日鬼のように面接を繰り返すだけという…気が狂いそうな環境でした
あまりにも負荷が高くやりたい仕事ではなかったので現実逃避がしたかった。経験がない新卒1年目ができることを探したところ学生時代に動き回ってたおかげで同年代の知り合いが多くいることに気づきました。交流会を企画してこの場から脱出する方法を模索しよう

パーティー屋からの挫折

毎月週末に1回いろんなコンセプトで社会人と社会人を繋げたり、社会人と女子大生を繋げたりとイベントを主催していきました。自分は小学校、中学校、高校でそれぞれ全クラスを集めた大規模同窓会の幹事を言い出しっぺで主催した経験あります(全く交流会の場は好きではないのですが裏方として場を作るのは好き)当時良く交流会に来てくれていたのが16歳から起業し当時23歳で年商30億規模の物流会社を経営していたK君で彼と良くつるむようになっていきました。
半年程度毎月交流会を企画して運営していた時、K君が自分の経営していた会社を売却し手元に資金がたくさん入ったから暇だし一緒に事業をしようという話になりました。何をするかブレストを何度もやりとある事業計画を作り資金を入れて運営開始しようということになりました
話が前に進んで具体的になるに連れて怖くなって来ました。30億規模の会社の経営経験があるK君と数億規模の派遣事業の運営をサラリーマンとして1年だけしかやったことがない自分で釣り合うのだろうか。この事業が失敗したらどうなるんだろう。イメージが湧ききらず余計に怖さが勝りました
結果として自分が逃げるような形でK君と計画していた事業を降りることにしました。パワーバランスも良くなかったし上手く動けるイメージも描き切れなかった。自分よりもステージが数段上の人からチャンスが来ても受け取る器がないとダメなんだとその経験を通じて学びました。ただ、K君と一緒に事業を始めようと準備してたタイミングで新卒で入ったミナジン社長には会社を辞めようと思っているという話はその時すでにしてしまっていました。

こじらせで事業立ち上げ

事業をやるので辞めようと考えてると話していたもののやろうとしていた事業が自分の逃げという形で頓挫してしまい悶々としていました。途中で辞めました(逃げました)というのが言えず辻褄を合わせるために事業を捻り出して作りました。その時作ったのがハローワーク求人票をPCで作成・管理できるシステム販売事業です。派遣社員の募集をする為にハローワークに通っていた際、当時毎回手書きで求人票を書く必要があることに負を感じていました。求人数が多い会社はもっと大変なのではないかと思いつき自分の負を解消する為にPCで作成管理でき自動で求人票が出力できるソフトを作りました。ソフト作成には業務委託でエンジニアの方を雇ってシステム開発をし販売ページも作って売り始めました。当時は同じコンセプトで作られたシステムがなかったのでこれがそこそこ売れました(累計40本程)販売初日に1本目が売れた時には飛び上がるほど嬉しかった。ただ本業はこのタイミングでは辞めておらず日中は南大阪で派遣事業の運営を朝から夜(9時〜22時)まで実施し複業でフォーマット販売の仕込みを夜(夜23時〜27時)するというこじらせ生活を半年以上続けていました。しばらく継続してると精神の限界が来たのですが当時は変な意地で継続してました。

生き方を見つめ直す

そんなこじらせMAXだった時期に会社の研修で長野県にある「いのちの森 水輪」に泊まりに行く機会がありました。そこで働いている方々を見て無理するのを辞めようと決めるきっかけを得ました。水輪は青少年の社会復帰を支援される活動をしている施設でとにかく働いている若者の目が眩しくキラキラしているように見えました。水輪では社会不適合になってしまった方を引き取って更生させる取り組みを住み込み生活でしています。そこで数ヶ月前までアルコール中毒でどうしようもなかった劇団員の方であったりDVを受けて人を信用できなくなった方達が生活していました。水輪の研修では彼らがここでの生活でどう変容していったか自己開示して貰いました。彼ら彼女らが語る本音の自己開示のパワーを体験し「本音で生きること」の大切さに感動しました。自然と涙が溢れて来ました。水輪での経験は自分自身を見つめ直す機会となりました。俺本音で生きられてねーわ。心の底から変わりたいと心の声が聞こえてきました。それから数日してこじらせで作った事業を精算することを決めました。

言霊のパワー

事業の精算が落ち着いたある日のこと、南大阪(羽曳野)の事務所で仕事終わり深夜0時を超えた頃ボーッと一人でホワイトボードに自分の嫌いなところを書き出しました。

  • やると言ったことが出来ていない自分

  • 自分は悪くない悪いのは周りだと他責にしている自分

  • 素直に自分の非を認められていない自分

書き進めると自分が糞すぎてどうしようもなくて笑えて来ました。変わりたい。心の底から湧き出した言葉でした。赤色のペンに持ち替えて書き出した言葉を上から書き換えていきました

  • やると言ったことは何があってもやる

  • 人のせいにしない

  • 自分の非を素直に認める

この3つの言葉を書きながら涙が溢れて来ました。やると言ったことさえやり切れていない自分。自分が問題を引き起こしているのに周りが悪いと思っている自分。自分が悪くない悪いのは会社だと糞なことを考えている自分。全てをぶち壊したいと思いました。上に書いた3つを自分の戒律として守ろうと決めました。スマホの待ち受けにも設定して毎時間確認しました。
変わろうと決めてから自分の習慣を1つ1つ修正していきました。時間はかかったけど、ここで自分と向き合わないと一生変われないかもしれないと思って必死にやりました。するとふとした時に何でもないことに自然と感謝を感じるようになりました。糞な自分の弱さに気付けた時にやり直せる気がしました。自分を変えようと決めてしばらくすると人生が好転し始めました。それからは怒涛の変化が起きました。出向が解除になり全社のマーケティング(販売促進)を担うことになりそれから1年後、東京支店の立ち上げメンバーに抜擢され支店立ち上げを担うことに繋がりました。

東京支店の立ち上げと拡大

東京進出(転勤)後は水を得た魚のごとく働きました(これまでの拗らせが嘘のように)当時の仕事は勤怠管理SaaS、給与計算BPOの提案営業をするのがメイン業務でした。入社時に思い描いていた新規事業を一緒に作ることができてるのが嬉しかった。
東京進出2週目で当時日本中を席巻していた某スマホゲーム会社から受注を取り、その流れでIT業界では知らない人がいない有名企業をドミノ倒しのごとく受注を重ねていきました。気づけば新規受注の8割は自分が取っている状況で事業が急拡大、事務所も数年の内に4回移転するほど順調に伸びました。支店人数が増えていくのがとても楽しかった。貢献できているのが嬉しかった。
副社長に次いで2人目で東京に出てきた支店も数倍に拡大したタイミングで自分のミッションは新規事業の立ち上げに変わりました。そこでゼロから立ち上げたのが人事コンサルティング事業です。社長からお前頭良さそうやからコンサルもできるやろよろしくと軽いノリで決まりました。

金のロレックスを買う

これは完全に余談ですが、東京に出てきてしばらく経ったタイミング27歳の時に一本百万円以上する金のロレックス(デイトジャストⅡシリーズ)を買いました。まだ支店立ち上げ中で成果が出始めて来たタイミングで潤沢に貯金はない状況です。きっかけはとある成功している経営者の方が成功している商売人は金のロレックス着けているという話を聞いてからです。当時は百万以上のモノを買った経験ない若造だったので購入を決断する時にブルブルと震えました。たかが金のロレックスでしょ?別に欲しくないと思うかも知れないですが毎日眺めたりつけたりしているとお金を稼ぐことに対するブロックが自然と自分は崩れました。たかだか数百万のロレックスを付けるだけで自信が付きお金を稼ぐことに対するブロックが崩れた。モノによっては値上がりするのでお金のブロックがある方にはオススメです(自分が買ったロレックスは1.5倍程度に値上がりしてます)

金のロレックス

また自分より圧倒的にステージが高い人に会う際にもロレックスを付けて話をしに行くと何だか自分の位が上がったように感じることができました。写真は高校の先輩の竹中平蔵さんで六本木ヒルズで行われたランチ会に参加させて貰った際に一緒に写真をとって貰いました。小泉竹中構造改革ど真ん中で学生時代を過ごした自分は高校の先輩の竹中さんに会うことが1つの目標でした。政治的な話は抜きで自分が新卒で関わることになった派遣事業の規制緩和の旗振りをしていたのが奇しくも元パソナ会長の竹中さんだっという人生は不思議なものです。

竹中平蔵さんとのランチ会にて

京セラ創業者、稲盛和夫氏

新卒で入ったミナジンの佐藤社長は京セラ創業者の私塾である盛和塾に入っていました。当時関西の成長意欲高い経営者がどんどん入会している時期でコミュニティも1000名に達しようというタイミングだったと思います。事務局を手伝わせて貰ったり従業員が参加できる盛和塾の会合にも何度も参加させて貰ってました。自分は社会人1年目〜7年目にかけての丸6年間稲盛さんの講話集全48話のCDを毎日欠かさず聞いていました。毎日聞くことで自分も偉大な人間になれるんじゃないかという期待もあったし純粋に稲盛さんの話が面白かった。稲盛さんの考えに毎日触れることでアントレプレナー精神のベースが身についたように思います。彼女との車デートや家でも講話を掛けるほどの徹底ぶりで毎日毎日聞いてました。

景気に左右されない力

高校、大学と本を読む習慣があった自分は社会人に入るとさらに本を読むペースが増えていきました。当時思っていたのは市場に流通している書籍を全て読破し切りたいと思ってました(考えたら不可能なのはすぐ分かるのですが)月20万円程度の本を買い生活費のカード枠が切れない状態になることが度々ありました。何百冊の本を読んだ中で未だに毎年読んでいる本が人事コンサルタント鈴木智之さんの「景気に左右されない力」という本で自分の人生のバイブルになっています。

人事コンサルティング事業立ち上げ

話を戻します。東京支店の立ち上げを終え続いて立ち上げたのは人事コンサルティング事業です。その中でも特に注力したのは人事制度の設計をメインとしたコンサルティングでした。事業立ち上げに任命されたものの人事制度の知識はほぼゼロ状態。ここから売上を作っていくことが次のミッションでした。やったことはないけど自分ならできる。謎の自信がありました。

オフィスでの一枚

まず実施したのは同業で人事制度設計コンサルティングを実施している企業を数十者ピックアップしそれぞれの特徴を分析する等競合調査から入りました。同時並行でAmazonや書店で売られている人事制度関連書籍を100冊以上自腹で購入し何が肝なのか整理を進めました。
最初に作ったのは評価制度の項目を作成する簡易サービスでサービスをリリースしてクライアントを獲得しサービスのブラッシュアップを続けました。その後はパートナー企業の人事制度設計プロジェクトに入らせて貰ったり、制度設計の大家の方々と一緒にプロジェクトを立ち上げ人事コンサルタント養成講座の事務局をさせて貰ったりと人事制度設計の奥深さを学ばせて貰いながらサービスのブラッシュアップを進めました。また同時に案件がどんどん増えていきました。
気付けばクライアント数も増え私立大学や通信会社をはじめIPO準備に入っているスタートアップ企業まで幅広くお声がかかるようになりました。 クライアントのコンサル内容は守秘義務があるのでお伝えできないですが一例です ・私立大学(200名規模)・通信会社子会社(150名規模)・スマホゲーム会社(120名規模) ・Techベンチャー(100名規模)・アーティストマネジメント会社(70名規模)等
事業は順調に立ち上がり初年度2,300万円、2年目5,500万円、3年目1億弱と倍々で成長していきました。ただこれは自分1人の力ではなく一緒に案件獲得に動いた仲間や協力いただいたパートナー企業様、サポートいただいたメンターの方々に助けられての結果で大くの方に支えていただいたこと本当に感謝しております。特に印象的だったプロジェクトは元ライブドア副社長の方が創業したベンチャーの案件を受けさせて頂いた件で打ち合わせに間に合わせる為に北海道から東京までヘリコプターで移動してきたりとにかく約束(言ったこと)を守ることに対するスタンスが凄かった。制度を納品するまでにビジネスとはなんぞやを学ばせていただくことがとても多いプロジェクトでした。要求の強いハードな仕事でしたが納品完了後には感謝の言葉を貰い自分が新たなステージに立てた気がしました。

2つの人生を変革する場の出会い

ここで自分の人生を変革させた2つの機会の紹介をさせて貰います。新卒時代からこじらせてどうしようもなかった人間が数年の内に覚醒し支店立ち上げや事業立ち上げをして倍々で拡大させられたのにはこれらの機会なくしては不可能でした。

意識を探求するワークショップ アバター

1つ目の出会いはアバターです。アバターは米国人ハリー・パルマー氏が作った意識を探究するワークショップで全世界153カ国以上で取り組まれている大規模な自己開発団体です。自分は社会人になってから仲良くなったNaoyo(元Teach For Japan代表)の紹介で受講しました。受講した当時は東京支店の立ち上げを加速させてどんどん新規受注を取っていたタイミングでさらに自分を爆発させたいという思いで10日間のワークショップに参加しました。この場では自分が抑圧をしていた感情を解放していき拗らせていた自分の感情チャージがなくなる機会になりました。アバターのコースがあまりにも良かったのでその後、マスターコース(オーストラリア)プロコース(アメリカ/ダラス)ウィザードコース(アメリカ/フロリダ)と全コース(累計40日)コンプリートしました。費用はたくさん掛かりましたが自分の内面に抱えていた制限が多く取り除かれるとても貴重な体験となりました。

全世界から集まる受講生


フロリダのビーチ

2つ目の出会いはMindset社です。Mindsetは自分が卒業したコーチングスクールを運営している団体です。リーダーシップ開発のプロフェッショナルファームでもあり代表の李 英俊(ヨンジュン)さんが多くのビジネスプロフェッショナル人材の指導をしています。

人と組織の進化を創る Mindset社

そんな師匠李さんとの出会いは遡ると学生時代に運営をしていた学生団体(ビジネスコンテストの運営)時代で当時協賛企業として登壇いただいたことがきっかけでした。それから数年経ち自分が東京支店の立ち上げをしているタイミングでストリートアカデミー(現ストアカ)という媒体で「どんな部下でも3時間であなたの右腕に変わる」というハイクオリティな講座に参加させて貰ったのが再度関わらせて頂くきっかけでした。ビジネスマンとしての基礎から人事 / マーケ / コンサルティング / コーチング / カウンセリング / NLP / リーダーシップ開発様々な知見を頂きました。特に自分が人事コンサルティング事業を立ち上げ毎年事業を拡大させ続けることが出来たのは紛れもなくMindset社のリーダーシップ開発講座のお陰です。またコンサルティング職からコーポレート職人事にキャリアチェンジする決断をしたのもMindsetコミュニティの影響であり人生を変革する起点をたくさんいただきました。

リーダーシップ開発研修

ハワイでのプロポーズの末に結婚

2019年8月8日、小泉進次郎と滝川クリステルとたまたまですが同じ結婚日に3歳年上の妻と結婚しました。これまでの自分は仕事を軌道に乗せることに必死で学生時代の友人からも結婚しないと思う人間ランキング上位に入るほど結婚に興味がないと思われている人間でした。当時の自分は仕事と家庭は両立できないと思っていて家庭に時間を使ったら仕事は上手くいなくなってしまうんじゃないか病にかかってました。そんな中、上記のMindsetコミュニティの飲み会でオアではなくアンドという選択肢もあるという気付きを得て結婚しようと決断するに至りました。コンサルティング事業立ち上げで全国を飛び回っている時に遠距離恋愛から始まり1年程度付き合った後、一緒に旅行に行ったハワイのホテルでプロポーズして結婚しました。

ハワイ

上野にある北欧(サウナ)行きません?2020/02/04 13:27

話を戻します。ミナジンで人事コンサルティングにて関西のクライアント先訪問中に当時DMM.com人事部長だったHさんから「今日ひまだったりします?」「20:00からちょっと飯たべて→風呂行く、とかどうっすか?」「上野の北欧!」というメッセージを貰いました笑。新幹線で東京に変えるとちょうど良い時間帯だったので「空いてます!」というメッセージを送り急遽サウナに行くことになりました(今思えばいきなり過ぎw)

上野の北欧

そこでDMMの話を詳しく教えて貰いました。人事組織の話、事業/組織課題の話、今後のキャリアの話等々キャッチボールさせて貰い困ってるので助けて欲しいんっすよという話をサウナで聞きました。それから日を改めて人事メンバーとの面談/面接を複数重ね2週間後には正式なオファーを貰いました(まさかのサウナから次のキャリアが決まるとは)
ただ当時事業責任者をしていた人事コンサルティング事業は順調に成長していました。継続的に拡大を続ければ2億、3億と売り上げを継続していくことは出来たと思います。事業に関わるメンバーも増え後任が育って来たタイミングで自分が持っていた複数のプロジェクトがちょうど2020年4月末で全て終わるというまたとないタイミングが重なっていました。
いましかないな..。
新卒から10年間、問題児だった自分を受け止めてくれ事業責任者として活躍することを誰よりも応援してくれていた佐藤社長には感謝しても仕切れません。身勝手な自分の背中をお前がやりたいんやったら応援するという形で送り出してくれたのは本当に有難かった。そんなこんなで10年間お世話になり育てて頂いた会社を卒業しました。

コーチングスクールでの学びと自己変革

DMMへの転職を決意したのは、2020年2月のことでした。ほぼ同時に、Mindsetコーチングスクール2期生として、コーチングの世界へ足を踏み入れることになったのです。
その少し前、2019年末にMindset主催のオフ会に参加したことがきっかけで、コンサルタントから事業会社の人事(HRBP)へとキャリアチェンジを決意しました。コンサルタントとして外部から企業に関わるのではなく、事業会社の人事として組織全体を俯瞰し、人や組織に直接的に影響を与えられる経験を積みたいという強い思いがあったからです。
これは私にとって大きな挑戦でした。当時、私はコンサルタントとして仕事に満足していました。ゼロから立ち上げた事業は毎年倍増の成長を遂げ、クライアントやパートナーから感謝され、最年少執行役員として肩書きにも誇りを感じていました。しかし、心のどこかで「このままでいいのか?」というモヤモヤした気持ちを抱えていたのも事実です。
現状維持という選択肢もありました。安定したキャリアを捨てることへの不安、そして「成功している現状」が壊れてしまうリスクへの恐怖もありました。それでも、「輪の外側にいて全体像が見たい」「新しい環境や変化に飛び込みたい」「自分の時間を自由にに使いたい」という心の声に正直に従いたいという気持ちが、私を突き動かしました。「決断が先であり、プロセスは後」というコーチング理論の考え方も、迷いを振り切り、前に進む勇気をくれました。
当時のFacebookの投稿には、そんな私の複雑な心境が反映された、意味深なコメントを残しています。

当時の投稿

コーチングによる変革の過程

コーチングスクールでの半年間は、単にコーチングの知識を学ぶだけでなく、私自身を大きく変える時間となりました。ゴール設定の重要性やマインドの仕組みを学び、それを自分自身に適用していく中で、内面的な成長を強く実感しました。
過去の「やりたい」と向き合い、一歩踏み出す
これまで、陸上長距離で県記録を出し全国大会に出場した経験がありました。しかし、怪我や時間の制約を理由に、ずっと挑戦したいと思っていたマラソンには、なかなか踏み出せずにいました。コーチングを通して、過去の失敗やできなかったことに縛られることなく、一歩踏み出す勇気を得ることができました。そして、「やりたいことを実現する」ための行動のベースを築くことができたのです。
周囲の視点を受け入れる自己意識の変化
以前の私は、周囲からどう見られるかをあまり気にしていませんでした。しかし、コーチングを通して自己認識を深める中で、ふとした時に自分の歯並びが気になっていたことに気づき、歯科矯正を始めることにしました。歯科矯正を通して自分を客観的に見る機会が増え、周囲の視点を意識するようになったことは、大きな変化でした。
健康意識と自己管理能力の向上
コーチングで学んだゴール設定のスキルを活用し、半年間で10キロの減量に成功しました。「健康に気をつけなければ」と漠然と思っていたことを、具体的な行動に移し、成果として実感できたことは、大きな自信につながりました。
コーチングスクールでの学びは、私の人生に大きな影響を与えました。自己変革を促し、新たな挑戦への道を切り開いてくれたコーチングとの出会いに感謝しています。

ゴール設定の威力

60事業以上を保有するコングロマリット企業

DMMはインターネットの波に乗ってアダルト事業が急成長をした後潤沢な手元資金を使ってエンタメ、金融、ゲーム、電子書籍、縦読みマンガ、アニメ、太陽光発電、各種ネットサービス、水族館、救急車製造、英会話、3Dプリンター等々儲かる分野に積極的に参入して多角化に成功している稀有な会社です。誰もが見たくなる未来をコーポレートメッセージになんでもやってるDMMのコンセプトで60事業以上を保有。創業25年で年商約3,500億グループ全体で4000人程度が働くインターネット老舗のコングロマリット企業です。
DMMにはHRBP兼人事企画という役割で入社しました。HRBPとはHRビジネスパートナーの略でいわば組織課題を解決する専門集団です。入社当時は人事部付というどこにも所属しない社内コンサル的な立ち位置で人事部門の各チームが受け切れない案件を拾うボール拾い担当をしていました。例えば、全社横断での手当て類の整理をするプロジェクトに入ったり、1000名規模のゲーム事業グループ会社のインセンティブの仕組みを作ったりと、これまでの制度設計の経験を活かしつつ緊急ではないんだけど重要な仕事をひたすらに拾っていく役割を約5ヶ月こなしていました。

インターネット老舗のコングロマリット企業

自分が入社した当時はコロナ真只中で入社初日からリモート勤務という特殊な環境でオンボーディングを受けて自走していく動き方をしていました。そんなこんなをしている時に社内で新たな新規事業が立ち上がることになり新規事業担当のHRBPとして部門立ち上げをサポートする役割に変更になりHRBPとして現場デビューすることになりました。
DMMでの新規事業の立ち上げは半端なく潤沢な資本を元に一気に垂直立ち上げをしていくもので市場シェアをいち早く抑えにスピーディに動きます。後発参入をした場合でも潤沢な資本を元に一気にまくっていくパワースタイル。資本を持つ会社の戦い方を大いに学ばせて頂きました。
自分が担当することになった新規事業も十数名からおおよそ半年で100名規模の組織を垂直に立ち上げる動き方が求められたりと事業方針に合わせる形で凄まじいスピードで物事が進んでいきました。前職のミナジンでは自己資本を元に堅実に積み上げていく事業スタイルだっただけに大企業・大資本会社のダイナミズムに触れたらたのはとても貴重な機会でした。
担当していた事業は優秀な事業責任者やマネジャーの方が多く事業立ち上げは順調に進んでいきました。半年で100名規模の組織を作るには立ち上げ数ヶ月で数千件の履歴書を全て読み込みその中から数百人の面接を実施(毎日5件以上)事業成長に繋がる優秀な人材に内定を出し入社後は即戦力になっていただくとんでもないスピードです。数ヶ月で数千件の履歴書を集める為にはそれだけの応募を獲得する必要があるので手前の採用マーケティングにも大忙しです。
新規事業が垂直で立ち上がっていく怒涛の日々を約1年ほど伴走させて貰った後に事業部引き継ぎをし続いてDMMの心臓部分マーケティング本部のHRBPの担当に役割を変えていきました。
当時の状況は複数の本部にまたがっていたマーケティング機能を統合させるフェーズでいわゆる組織PMIを担いながら統合業務がスムーズに移行する支援をしていく動きを行なっていました(常に新たな環境に適応しながら貢献していけたことにも「決断が先でプロセスは後」というコーチングマインドが大きく影響しています)
DMMで学ばせていただいたことはとても多くビジネスの運営の仕方や計数管理の仕掛け会議体の運営の方法といった大規模コングロマリット企業を動かす舞台裏を間近で学ばせて頂きました。
マーケティング本部の担当をしていたのと同時並行で人事部門の体制変更もあり在籍していた最後の9ヶ月はDMM内50事業弱の人事領域の統括、HRBP部門のマネジメントを担わせて貰いました。14本部95部門全体のHRBP Managerとして大規模組織を俯瞰して見れたのはとても貴重な経験でした。

グループ会社各社の人事制度設計支援

ミナジン時代には人事コンサルティング事業の責任者をしていたこともありDMM内のグループ会社の大半の人事制度設計サポートも同時に担当させて頂きました。とある直接お会いしたことがないグループ会社代表から社内SlackではなくX(旧Twitter)経由で相談したいと連絡を貰ったこともありました笑ヤンキーからエリートまで多様性が内在する自由な風土でとても楽しかった。

グループ代表から

娘の誕生

DMMに入社しておおよそ1年が経った頃。2021年6月3日に岐阜県関市にて娘が爆誕しました。太陽のように明るく鳳凰のように強くという想いを込めて太凰「たお」と名付けました(宇宙の展開を導く聖なる意志という意味のある中国の「タオ」にも掛かってます)妻の里帰り出産に合わせる形でトータル1ヶ月ほどはリモート勤務にさせて貰い子育てに参戦しました。それぞれの社員の希望に合わせる形で柔軟に働き方を承認してくれDMMはとても素敵な会社です。

娘の爆誕

ベンチャーキャピタルからのお声がけ

DMMでの日常はとてもエキサイティングで飽きることがなかったのですがHRBP部門のマネジメントを担っていた際にベンチャーキャピタルからお声がけを頂きとあるスタートアップの紹介を受けることになります。転職を強く希望していた訳ではなかったのですがカジュアルにお話を聞かせて貰うととても魅力的な方々が所属されていて興味深い事業をしていると感じました。MOON-Xとの出会いです。入社後に素敵な記事の形で取り上げて貰いました。

JAFCO記事

1社目のミナジンは10年所属してたこともあったので退職することに対する抵抗が強くありました。DMMからMOON-Xへの転職は全く抵抗がなかったと言えば嘘になりますとても悩みました
DMMは卒業させて貰った今でもとても良い会社だと感じています。商売人である亀山会長が社員を守る為に節操もなく次々と新たな事業の立ち上げやM&A(買収)を繰り返し常にカオス状態。次から次へとやることが増え飽きない環境です。やりがいもあって成長実感も感じていました。じゃぁ何で辞めるんだよ!という話なんですが次の5年を考えた時にどちらのキャリアがより茨の道かを考えた末スタートアップでの人事部門立ち上げというこれまでやったことがない挑戦的なキャリアを選ぶ決断をしました。スタートアップの人事責任者ってやりたくてもそうそうなれない役割だと思ったのと面接を通じて会ったみなさんが本当に優秀で魅力的な環境だと感じました。

伝説のスタートアップMOON-Xに入社

MOON-XはM&Aを起点に事業拡大をしている元Facebook Japan(現Meta)代表の長谷川晋氏が立ち上げたスタートアップです。創業初日からシリーズAにて10億円の資金調達を完了させ自社ブランドやコンサルティング事業を立ち上げた後、他社ブランドのM&Aで現在進行形で大躍進をしている超急成長企業です。自分が入社したのはシリーズBで34億円(累計44億円)の資金調達を完了させこれから事業をスケールさせていく文字通りノリに乗ったタイミングでした。そんなスタートアップに1人目人事(人事責任者)として入社することになります。

当時の写真

入社後は人事部門の立ち上げで採用、労務、タレントマネジメント領域の機能を垂直に立ち上げたり、組織規模をわずか1年で34名→120名に爆増させる上での人事基盤をゼロから構築するミッションを遂行しました。事業は極めて順調でキャラが良くてスキルも高いイケてるメンバーが毎月のように入社してきて毎日がエキサイティングでやりがいある最高な環境でした。またスタートアップ立ち上げ業務はとても負荷が高かった。

人事部長から人事総務部副部長に役割変更

入社して4ヶ月が経過した頃、社内の組織再編があり人事部が総務部とくっ付き人事総務部になるフェーズが来ました。当時は膨大な求人数を裁くことに必死で人事メンバーもほぼ居なかったこともあり自分が最前線で採用機能の立ち上げや各種人事企画と実装をしていました。そこに総務のオフィス移転プロジェクトや就業規則周りの整備といった労務業務が全く追いつかずスタックし始めた。凄まじいスピードで様々なプロジェクトが進んでいたのでいわゆる人事総務部長としての仕事をやり切ることが出来なかった。そういうタイミングで採用と企画にフォーカスする形で役職変更することになりました。スタートアップは目の前の課題を解決することにフルベットできる人が向いてます。目の前の火事を消化しないと次がないのでとにかく必死でした

人事を卒業する決断

MOON-Xには1人目人事として入社し何の人事基盤も整っていないタイミングで入りました。全社オンボーディングの企画&実装、採用領域立ち上げ(ATS導入、RPO選定、求人立ち上げ、リクルーター採用、媒体契約、紹介制度類整備、スカウト体制整備、エージェント開拓)採用周りデータ整備、採用費コントロール、課題整理、育成、人事制度や人事データベース・サーベイ周りの整備、人事(採用、労務、タレマネ)機能立ち上げ。凄まじいスピードで事業が成長するのにくらいつくように同時並行で様々なプロジェクトを同時並行で動かしていきました。
急成長ベンチャーあるあるは事業が凄まじいスピードで成長していくのでどの会社も恒常的な人手不足に陥ります。人がいないことは問題ではなく前提というマインドでいることが大事。その上でどうすれば最小の労力で最大の成果を上げ続けられるか。ギャップは何でどうしたら埋まるか。毎日吐きそうになりながらもインパクトを出すべく全てのエネルギーを投入して働いてました

立ち上げから運用フェーズに移行

10ヶ月ほど猛烈に働いていると人事(採用、労務、タレマネ)の機能も立ち上がり始めました。自分よりも優秀なメンバーの採用も進みそれぞれのチームが自主的に動き始めた時に自分の存在意義を考えるようになりました。ここまでの文章を読んできていただいた方はお気づきかも知れないのですがこれまでの自分のキャリアには共通のパターンがあります。
サービス立ち上げ、支店立ち上げ、新規事業立ち上げ、人事部門立ち上げと共通して立ち上げフェーズで一気にパワーをかけて組織を軌道に乗せに行く動きをしています。そして各機能に自分よりも優秀なメンバーを配置して立ち上げが終わったら次の役割に移動していく。これを繰り返してるのです。意図的にそのようなキャリアを歩みたいと思った訳ではないのですがなぜか毎回同じパターンが人生に繰り返し現れていることに気付きました。
新卒から2年半やっていた派遣事業運営のように既存事業の改良改善フェーズを運用している時は気持ちが乗らずつまらなくなってしまう。自分で立ち上げた事業もある程度軌道に乗せて精算をしている。ゼロから立ち上げたコンサル事業やDMMでの新規事業立ち上げでも同様…
そんな中半年に1度実施いただいている代表とのキャリア面談にて率直なFeedbackを貰いました。「Nobuさんは立ち上げフェーズや企画を作ってる時はイキイキとしてるけど、運用改善フェーズになると急にテンション下がるように見える」MOON-Xが最高なところは人の成長に本気で向き合い率直なフィードバックをしてくれるところです。人生を考えるまたとない機会でした。

自分と向き合う葛藤の日々

MOON-Xに入社するまではぶっちゃけると自分は何でもできる人間だと勘違いしていました。サービス立ち上げ、支店立ち上げ、事業立ち上げも上手くいった。事業は順調に拡大したしコンサルタントから人事職にキャリアチェンジしてからも成果を出して組織内で重要な役割を担うこともできた。同じように人事責任者としても上手くやれる。人事領域を極めサイバーエージェントの曽山さんのようなスタートアップ業界のCHROに自分もなれると。ただ自分がやっていて楽しいのは立ち上げ最中だったり新しい企画を考えている時だったり新システムを導入したりデータ整備したり周りのメンバーがうまいこと働ける基盤を裏方で整える業務でした。
業務立ち上げから運用改善フェーズに移行しつつある中で自分はどう在るべきなんだろうか。才能や能力がフェーズと合わなくなっている人間がこの組織に残るのが良いことなんだろうか。いろんなことが頭の中をよぎりました。自分に向き合う中で会社を主語に考えてみることにしました「才能や能力がフェーズに合わなくなっている人間が会社に居続けることが今の会社にとって良いことなのか」何度もこの問いを自分にする中で答えはNoだと結論を出しました。

次のキャリアをどう作っていくか

これまではベンチャーにて事業側でコンサルティング事業の立ち上げサービス開発や組織構築を責任者として経験しました。その後に60事業以上を保有するメガベンチャーにて人事(HRBP)として新規事業立ち上げから幅広い複数事業を横串で統括する経験をしました。そしてスタートアップの人事責任者としてゼロから人事組織の立ち上げを経験しました。次何をするのか。なかなか考えてもすぐに答えは出て来ませんでした。
当時考えた選択肢は

  • 再度スタートアップの1人目人事として人事部門立ち上げをする

    • MOON-Xでの人事部門立ち上げではあの時こうやってればもっと上手く行ったな…と猛烈なスピードで事業拡大する中で反省したポイントが沢山ありました。スタートアップの人事部門立ち上げ2周目だったらもしかするともっと上手くやれるんじゃないか

  • 3-500名規模の会社で人事企画のスペシャリストとして企画専任をする

    • 採用、教育、配置、評価、報酬、代謝という人事のバリューチェーンを全て経験して最もやりがいを感じていたのは各領域について戦略を企画を落とし込んでいく領域でした。ゼネラリストではなくスペシャリストとして企画に特化するのはどうだろうか

  • DMM/MOON-Xの人事経験を踏まえて再度ビジネス側であるコンサルタントに戻る

    • プロジェクトを複数持ちクライアントの課題を短期間で解決し解決が終わったら新たなプロジェクトに入り同じように課題を解決する働き方に戻るのはどうだろうか

次のキャリアの選択肢を洗い出して転職活動に向けて情報収集を始めると2週間で上記の3つの選択肢それぞれで業界のトップランナーの企業から次々オファーをいただくことができました。

自分の使い方に気付く

ストレングスファインダーという自分の才能の傾向(資質)が分かる自己診断テストがあります。自分は10年前から3年に1度の頻度で全資質がどう変動しているかを定点観測しています。上位の資質が下位に落ちたり(無理していた)下位の資質が上位に上がったり(本来の自分に戻った)傾向を見ていると面白いのですが10年間変わらない資質があることに気づきました。
常に上位にあるのは下記の資質です。
学習欲、内省、収集心、着想、アレンジ、戦略性、最上志向、未来志向、親密性、個別化

ストレングスファインダー

上記をまとめると自分は「学習欲/収集心」を使って膨大な情報をインプットします。そして集めた情報を「着想/アレンジ/戦略性」を使い頭の中でぐるぐるとかき混ぜることを楽しみます。「最上志向/未来志向」の資質を使いインプットした情報を最高なものにしたり未来に動かしたりしてさらに頭の中の情報をさらにかき混ぜて楽しみます。ぐるぐる情報を回す中で「内省」の資質を使い深めていきます。対人関係の資質「親密性/個別化」を使い相手に有益な情報を頭の中からピックアップします。相手の反応がまたインプットとなり上記のサイクルは止まりません。
これらの資質を俯瞰した時に自分は改良改善業務を行う事業会社の人事ではなく相手の課題に対して膨大な情報をインプットして最適な形で支援をしていく「コーチ」や「コンサルティング」という役割が向いていることに気付きました。

これからの展望について

「人と組織と社会の変容を共創する」をテーマに「コーチ / コンサルタント」をします

これからの展望

コーチとして

シリーズA/Bに入る手前のフェーズ(ベンチャー創業期)〜急成長期に入った段階の創業社長、マネジャー以上の経営幹部向けのコーチングセッションを行っていきます。組織が急拡大する上で生じる様々な人事課題を最前線で解決してきた経験を活かし事業成長を加速させるセッションを提供させて貰います。特にスタートアップ/ベンチャー創業者は社員に相談できない組織・人事の問題を多く抱えているケースが多くゴール設定を合わせて解消可能です。 セッションでは社員の誰にも相談できない家族/家庭問題に対してもカウンセリングセッションを別料金なしに実施可能です。これまで投資家との関係性に課題を持つ起業家の方や家族に死別され働く意義を見失ってしまったクライアントも仕事にやりがいを持ち使命に生きられる本来の姿に軌道を戻すセッション実績があります。伴走する中で出てくる様々なインシデントにも対応可能なのでお気軽にご相談ください。もちろん人や組織のお悩みも相談可能です。

対応可能範囲

コンサルタントとして

スタートアップ/ベンチャー向けの組織基盤構築 (人事部門立ち上げ)支援
これまで15年間ずっと立ち上げ業務(サービス、事業、人事部門)して来ました。共通して言えるのはゼロから組織を作り自分よりも優秀なメンバーを採用し自分がいなくても回る状態を作って抜けることを繰り返してきています。特にシリーズA/Bフェーズで従業員数を向こう2~3年で2~6倍(例20名から1年後4~50名、さらに1年後に100名超イメージ)で成長をさせることを志向する会社で本来人事部長を採用したいがなかなか良い人材がおらずノウハウを借り既存メンバーを育てたいと思われている企業に人事部門の立ち上げをお手伝いを実施するケースが多いです。人事組織を構築する上で成功体験がありかつ言語化・構造化されていることにメリットを感じてご契約いただいています。特に創業5年以内でまだマネジメントが若く、経験が薄い新人リーダーが多い組織において適切なメンタリング・ティーチングができるメンターは多くいないのでお気軽にご相談いただければと思います。定期的に行っているクライアントからサービス品質評価のアンケートでは、相手の状況を見極めて接し方を変えて(ティーチング(メンタリング)、コーチング、カウンセリング)行動変容させられる関わり方に高い評価をいただいています。

大企業向けの新規事業開発 / 組織変革支援

これまで15年間の立ち上げ経験を活かして新たな分野への挑戦を同時並行でしていきます。ビジネスコンサルタントとして大企業の新規事業開発や組織開発領域の伴走支援を実施していきます。こちらは株式会社プレイドの社内起業組織であるSTUDIO ZEROで取り組んでいきます。

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ビジネスの課題解決・突破にコーチを雇いたい方に

コーチングはそれぞれのクライアントの人生に本気で向き合い伴走する取り組みなのでコーチである自分も生半可な気持ちで取り組めるものではありません。1人1人の人生に本気で向き合う為、年間に持つクライアント数を限定10組と決めています。実際にコーチングを受けたクライアントは仕事が上手く周りはじめたり、課題や行き詰まりが解消して想像の枠を超えた成果が実現したり、チャレンジする生き方に変化したりと続々とビジネス目標を達成しています。
コーチングを受けるだけで全てが変わる訳ではないので「楽して成果を出したい」と思っている人には確実に向いていません。ただ本気で人生の課題に向き合い突破したいと望む方であれば間違いなく満足のいく結果を得ることをお約束します。

詳細はこちらのページから申し込みをして下さい。
コーチング 相談フォーム

下記個人事業の取り組みをYoutubeメディアに取材いただきました。

最速で成果を出す「ブリッツスケーリング」組織急成長の戦略を徹底解説!
リーダーシップを発揮!理想の未来を一緒に作る「コーチング」とは?

後日談

上記の文章を書いたのが2024年3月と約10ヶ月前のことでした。(当時はNOTEではなくNotionページに載せています)

それから10ヶ月が経ち個人事業が順調に立ち上がって来ました。そこで今年2025年は法人化を行いより多くのスタートアップ/ベンチャー経営者の方々のお役に立てるよう時間を使っていきたいと思っています。

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どうぞよろしくお願いいたします。

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